東日本大震災
3.11.そのとき私は
〜思い出す震災現場と日ごろの備えの提案〜

鳥井守幸(29法)
帝京平成大学前教授(2011.3月末退任)
元サンデー毎日編集長、TVキャスター

★大学の教え子E君の自宅は、震災・津波の被災地の一つ、福島県いわき市。あの日、たまたま東京に出張中だったが、交通・通信途絶で、自転車で13時間かけて、故里の惨状を目にした。「海岸沿いの親戚が所在不明」「どこかの避難所にいるらしいが直接連絡とれず」と次々にメールが届いた。

◆原発事故は人災であり、東電の隠蔽があるようです

★数日後、福島原発事故の内容が深刻化すると、メールの内容は一変した。「いろいろ取材しましたが、これは人災です。まだ東京電力の隠蔽があるようです。これから東京に避難します!」


★東京は原発事故による電力不足の影響で連日のような「計画停電」で、第3グループのわが家も何度か夜の闇を味わった。「外に出てみたら、お月さま、お星も綺麗ですよ。暗闇だからあじわえるんですね」友人Y子さんからのメールだった。

◆戦中の「灯火管制」と戦後の「ローソク送電」を思い出す

★私は太平洋戦争下、福岡県大牟田市で体験したB29襲来による空襲警報発令した、灯火管制による夜の闇を想い起こした。少しでも民家から灯りがもれていると「おい、灯りを消せ!敵に発見されるぞ!」の警防団員の声がいまも耳に残っている。

★もう一つ、戦後行われた電力不足による「ローソク送電」である。地域全体を停電させるのではなく、電圧をおとして電力消費を加減するアイデアだった。薄暗い中での夜の暮らし。ある世代以上の方はご存知だろう。

◆被災地の取材体験で心に残る被災者の沈着、冷静な行動

★新聞記者時代やテレビ報道でも地震を地震を取材した体験が甦ってくる。新潟地震(1964年)は空からの取材、秋田沖地震(1983年)では加茂海岸の津波で児童13人の生命が失われた様子を取材、早朝の能代港からテレビで生レポートした。

★阪神淡路大震災(1995年)はTBSラジオに生出演中で、早朝のスタジオのモニターテレビに映る惨状を見ながら報告したことを鮮明に覚えている。

★どの震災でもそうだったが、深く心に残っているのは多くの犠牲者が出たのにもかかわらず、被災者たちの沈着、冷静な行動、関係者やボランティアによる救出、生活保持のための懸命の努力であった。今回の地震について、米国、韓国など海外の主なメディアが「日本人の冷静さ、これが日本人の地からだ」と称賛していたのが印象的だ。

◆「帰宅難民」と高齢者「IT難民」への備え

★首都圏ではもう一つ、交通途絶による「帰宅難民」の問題が生じた。首都圏直下型地震の場合の「帰宅難民」の想定数は都内で300万人、関東1都3県で650万人(中央防災会議予測)といわれる。今回もその規模は小さかったが、多くの「帰宅難民」が駅周辺や途中のホテル、公園、公共施設に集中、かなりの混乱を生じた。

★家庭を気遣う気持ちからだろうが、職場に留まれないものか。職場にイザという場合の防災グッズや自転車を置いておく、などの心得が必要だろう。また、多摩地区でも学校、公民館、公共施設を開放シ、トイレの使用、食料、飲料水の提供など、日常的に官民による救難ネットワークもつくっておくことが大事だろう。

★細かいホームページ情報にアクセスできない高齢者中心の「IT難民」にも各戸へのチラシ、自治会を通しての通報など、情報提供をお願いしたい。


♪BGM:Chopin[Ballade]arranged by Reinmusik♪


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