散策の会

          

滝沢公夫さんが習志野市の散策会講師を務めた「中山法華経寺〜真間の手児奈めぐり」報告は クリック
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[第12回ニモク散策の会] (石神井公園界隈を巡る 2012.11.10.)

11月10日、会員13名は西武池袋線石神井公園駅に集合。絶好な秋日和の中、和やかに散策を開始しました。 先ず向かったのは「石神井池」です。紅葉には一寸早い時期でしたが、生い茂ったメタセコイア等の大木やススキを中心に、一面秋色が漂い、何とも良い風情でした。

小平稲門会の旗を掲げて出発 石神井池の薄 三宝池

★池にはボートも多く浮かんでいて、のんびりとしていました。ここは、もともと隣の三宝寺池から周辺の田圃に水を引く水路でしたが、昭和8年に人工的にせき止めて池としたものです。しかし、最近では水量減少のため、人工的に地下水をくみ上げているようです。

★次に、すぐ奥の「三宝寺池」です。ここは、井の頭池、善福寺池と並んで、武蔵野三大湧水池のひとつで、小金井カントリーとともに石神井川の水源といわれます。また、池沼沢植物群落があって天然記念物となっており、カワセミ等の珍しい鳥の飛来もあって大変貴重な池です。

池沼沢植物群落

★続いて、すぐそばの「石神井城跡」に行きました。そこはかとなく歴史を感じさせる城跡です。石神井城は、中世武士である豊島氏の城で、鎌倉時代末にはこの付近一帯を領有していました。室町時代に、城主・豊島泰経は、武蔵守護・上杉顕定に背いた長尾景春に味方しました。そのため、上杉を援助していた江戸城主・上杉定正の重臣・太田道灌は、この城を攻めて落城させました。この城は、三宝寺池と石神井川に挟まれた丘陵の上にあって、周囲は空堀や土塁が回らされていました。現在も明瞭に痕跡があって、東京都指定文化財になっています。

石神井城址 石神井城址石垣

★次は近くの「三宝寺」です。広大な境内を持つ当地屈指の寺といえましょう。ここは、応永元年(1394)に鎌倉・大徳寺の幸尊法印により開かれた真言宗の寺です。豊島氏・北条氏・徳川氏から厚い保護を受け、度々の火災からも立ち直り、格式ある大寺院になりました。境内には、「本堂」のほか、三代将軍家光が鷹狩に訪れた「山門(御成門)」、弘法大師を祀る「大師堂」、如意輪観音を祀る「観音堂」、巨大な「平和大観音」「根本大塔」等の建物や「88ヶ所お砂踏み」が散在し、大変見所の多い寺でした。

★特に「根本大塔」は、前住職が南方戦線で戦死した戦友を弔い、世界平和を希求するために、8億円を投じて平成8年に建立したもので、総檜造り、銅版葺き、高さ20メートルの堂々たるもの。都内では、最も新しいものの最大規模の多宝塔といえましょう。「平和大観音」も同時に建立されたとのことです。

三宝寺入り口 三宝寺御成門 三宝寺本堂
三宝寺大師堂 三宝寺観音堂 平和大観音
根本大塔 根本大塔 根本大塔の前で

★続いて、すく゛そばの「道場寺」に行きました。ここは、分中元年(1372)、石神井城主が大覚禅師を招いて建てた曹洞宗の寺で、豊島氏の菩提寺になっています。やや狭い境内には、豊島氏一族の墓といわれる石塔があるほか、昭和48年建立の三重塔が適当な古色が着いて美しく佇んでいました。これは、若狭・明通寺の国宝三重塔を模して建立されたものです。

道場寺山門 道場寺 道場寺三重塔

★最後に行ったのは「禅定院」です。ここは明応3年(1494)に願行聖人が開基した真言宗の寺です。狭い境内には、形状から「キリシタン灯篭」と称される織部灯篭があり、(寛文13年の銘)大変珍しいもので、練馬区登録文化財になっています。また、明治7年に、区で初の公立小学校として豊島小学校がこの地で開校しており、記念碑があります。これは現在の石神井小学校です。

禅定院の境内 禅定院のキリシタン灯篭 禅定院内の区立豊島小学校記念碑

★これで今回の散策は終わり、石神井公園駅で解散。その後、希望者のみで、小川さんの設営による「稲田屋石神井公園店」で懇談会を実施しました。鳥取の各種ご馳走と銘酒を戴きながら、いろいろ感想を述べ合って大変盛り上がり、疲れも吹き飛びました。

懇親会(稲田屋石神井店で)

★今回の散策は、従来実施していた都心部から離れた郊外地区で実施しましたが、それなりに特色もあり、一定の成果はあったと思います。場所の選定については、参加者からも概ね好評でした。また、いつものように、山本さんの冴えた説明と佐藤さんのユニークな資料は大変良かったと思います。今後も楽しい散策を企画したいものです。 (報告:滝沢公夫 写真:荒木彌榮子)

[参加者] 荒木彌榮子・伊藤徹・小川浩史・梶川允・栗原政博・小林久子・ 佐藤俊雄・滝沢公夫・土井洪二・野村吉宏・馬場正彦・山本浩・横田康平



[第11回ニモク散策の会] (王子界隈を巡る 2012.9.15.)

9月15日、会員20名は王子駅北口改札口に集合。恵まれた日和ながら暑い中、ゆったりと散策を開始しました。今回は、今までで最高の参加者を得て、大変盛況となりました。

★先ず向かったのは「名主の滝公園」です。ここは、狭いながらも回遊式庭園で、岩や樹木などの配置により一寸深山幽谷の情趣があります。江戸時代、王子村の名主・畑野孫八が屋敷内に滝を作り、一般に開放したのが始まりといわれます。昭和35年には東京都、更に北区に移管されたものです。園内に4つの滝がありますが、丁度滝が止まっていました。しばらく待っていると男滝の流水が開始され、一同歓声をあげました。その他の滝は休止していることが多いようです。

☆名主の滝公園入り口
男滝の前で流水開始を待つ一行 ☆男滝

★次にすぐそばの「金輪寺」に立ち寄りました。真新しい寺です。ここは旧金輪寺を明治中期に再興したものといわれます。旧金輪寺は、徳川秀忠の命により宥養上人が開基し、王子神社と王子稲荷神社の別当になっていましたが、明治初期の神仏分離令により廃寺になったものです。

金輪寺の門前で

★続いて「王子稲荷神社」に行きました。ここは一寸した高台にありますが、幼稚園も併設し、なかなか立派な神社で、拝殿も豪華です。境内の一番奥の石段上には、狐が住んでいたという穴もありますが大変珍しいものでした。また、「開運の石」という重い石が祠の前に置いてあり、力のある人が挑んでいました。この神社は、平安時代以前の創建で、荒川流域の岸に鎮座したことから、古くは岸稲荷と称したようです。古来「狐火」が多く、農民はこの火によって豊凶を占ったといいます。現在も大晦日には「狐の行列」が行われています。また、落語「王子の狐」も有名ですが、美女に化けた狐が、酔わされて人間に騙されるという噺です。

☆王子稲荷神社の山門 石段を上って拝殿へ 拝殿
王子稲荷神社開運の石 開運の石を持って 王子稲荷神社狐の祠

★ここから急坂を上下して、「王子神社」です。ここは創建時期は不明ですが、なかなか立派な神社です。鎌倉時代、領主・豊島氏が紀伊国熊野新宮から若一王子宮を勧請したものといわれます。そのため、この地一帯が王子と称されるようになったようです。なお、社殿は戦災のため、昭和34年に再建されたものです。

☆王子神社社殿 ☆社殿前で記念写真

★次に、すぐそばの「音無親水公園」に行きました。ここは石神井川の旧流路を公園として整備したものですが、岩石の配置が面白いです。石神井川はこの付近では音無川といわれ、江戸時代から景勝の地だったようです。昭和30年代に流路が変更になり、旧流路にかつての渓流をという要望から、昭和63年に北区がこの公園を整備したそうです。

☆音無親水公園 公園で山本浩さんの解説に耳を傾ける一行

★ここから明治通りと本郷通りを渡り「飛鳥山公園」です。花見の名所として有名なところで、徳川吉宗が整備したといわれます。明治6年には上野公園とともに日本最初の公園に指定されました。一帯が小高い丘になっていますが、都内で一番低い山だそうです。園内には、旧都電の電車や蒸気機関車等が鎮座しているほか、渋沢資料館・旧渋沢邸・飛鳥山博物館・紙の博物館等があります。

飛鳥山公園に保存されているSL

★先ず「旧渋沢邸」を見学しました。ここは明治11年に建設され、別荘と本邸として使用していましたが、戦災で焼失してしまいました。そして、「晩香盧」と「青淵文庫」のみが残りました。いずれも国指定重要文化財になっています。「晩香盧」は、大正6年に喜寿の祝いとして寄贈されたものですが、洋風茶室として大変趣のあるものです。また、すぐ隣りの「青淵文庫」は、大正14年に男爵から子爵への昇格記念として寄贈されたものですが、ステンドグラスもあり、大変華麗な洋館書庫です。

晩香盧玄関 青淵文庫の外観 青淵文庫の庭園で
青淵文庫の内部 青淵文庫の内部を見る

★続いて「渋沢資料館」を見学しました。ここは渋沢栄一にゆかりの深い旧渋沢邸の地に平成10年開設されたものです。大変立派な施設で、渋沢の出生から経済界・官界での多大な功績までが、豊富な資料の展示により感動させられました。渋沢栄一は、1840年埼玉県深谷市の農家に生まれましたが、幅広い勉学で視野を広め、徳川慶喜にも仕え、大蔵省にも勤務しましたが、第一国立銀行(現みずほ銀行)の設立に携わり、更に非常に多くの有力会社の設立・運営を行い、昭和6年に死去しています。渋沢の業績は実に顕著なものがあり、本当に感激させられました。

渋沢資料館玄関 渋沢資料館を見る一行

★ここから更に「飛鳥山博物館」と「紙の博物館」を見学する予定でしたが、時間の関係で残念ながら割愛しました。以上で本日の散策は終了し、王子駅南口で解散となりました。その後希望者のみで、王子駅前の大衆酒場「喜多樂」で懇親会を実施しましたが、本日の感想等で大いに談笑し、疲れも吹き飛びました。

☆喜多楽で懇親会

★今回の散策は、公園・神社・博物館とやや多面的となりましたが、それぞれに面白いことが多く、特に博物館では大いに知識の吸収ができました。ただ、季節に似合わない暑さが一同を悩ませたのが残念です。山本浩さんの名解説と、佐藤俊雄さんのユニークな資料は素晴らしいものでした。今後も引き続き、楽しく無理のない散策を企画したいものです。(報告・滝沢公夫、写真・荒木彌榮子、☆印は国友康邦、)

 [参加者] 荒木彌榮子、石井道彌、石井夫人、伊藤順蔵、伊藤徹、小川浩史、小平道彦、梶川允、梶川夫人、国友康邦、小林久子、佐藤俊雄、鈴木昭助、滝沢公夫、土井洪二、馬場正彦、堀田耕也、村山正己、山本浩、横田康平 以上20名


[第10回ニモク散策の会] (品川を巡る 2012.5.26.)

★5月26日、ニモクサロン会員15名は、京浜急行北品川駅に集合。やや暑いながらも好天に恵まれた中、ゆっくりと散策を開始しました。駅からすぐのところで「品川宿」に入りましたが、そこはかとなく旧宿場の雰囲気が漂ってきます。まず目についたのは、「土蔵相模跡」の標識です。このあたりでは有名な土蔵造りの妓楼の跡といいます。

土蔵相模跡 旧品川宿場の雰囲気が残る

★ここ「品川宿」は、東海道五十三次の起点日本橋から二里、最初の宿場ですが、鎌倉時代以降注目されてきました。本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠屋112軒を持ち、江戸4宿(千住・板橋・新宿・品川)の中ではトップの規模を持っていたといいます。また、宿泊地というよりも、江戸の玄関口として送迎者で繁盛し、行楽地、歓楽地の性格も持っていたようです。現在、地元商店会で宿場の雰囲気の保存と復活に努力中。

★先ず近くの「善福寺」に立ち寄ります。まことに広大な閑散とした寺で見所も少ないですが、鎌倉時代後期創建の時宗の寺です。唯一、土蔵造りの本堂入り口にある漆喰鏝絵が素晴らしかったです。江戸末期の入江長八の作品といいます。

善福寺門前 善福寺境内
入江長八漆喰作品1 入江長八漆喰作品2

★次に「一心寺」。別称は、品川成田山不動尊。狭いながらも江戸風情が漂っています。江戸末期に井伊直弼が開いたといいます。江戸33観音の30番札所になっているほか、東海七福神の寿老人を祀っております。

一心寺30番札所 一心寺
本陣跡 本陣跡明治天皇記念碑

★すぐそばに、「本陣跡(聖跡公園)」があります。まことに広大な、がらんとしたところです。品川には、当初南北それぞれに本陣があり、参勤交代の際等に使用されてきましたが、南品川は廃止され、ここ北品川のみが残り、明治天皇の行在所にもなっていましたが、明治5年の宿駅廃止に伴い廃業。昭和13年に聖跡公園として開園しました。現在多くの記念碑があるのみです。

★ここで品川宿から別れ、「荏原神社」へ。ここは品川宿の元総鎮守で、大変な格式が感じられます。和銅2年(709)、大和の丹生川上神社から竜神を勧請して創建されたもので、本殿の屋根の両側から龍が顔を出していて面白いです。源氏・徳川等の武家からの尊崇を集めたといわれます。社殿は江戸末期のもので、扁額は三条実美の筆によります。ここには東海七福神の恵比寿様が祀られています。

荏原神社恵比寿様 荏原神社子連れ狛犬
荏原神社本殿屋根の龍 荏原神社・三條実美扁額

★更に、車両の通行頻繁な第一京浜に沿った「品川神社」へ。入口に東海七福神の大黒天が祀られていますが、大変巨大なものです。更に、大鳥居には登り・降りの龍が彫刻されており、大変特徴があります。この神社は、文治3年(1187)源頼朝が安房の国州崎大明神を勧請して創建されたものといいます。その後も徳川氏の篤い庇護を受けてきたとのことです。

品川神社大黒天 品川神社龍の彫刻

★境内は広大で、見所は沢山あります。特に入口階段近くにある「品川富士」は、小さいながらも急な階段を登り、頂上からの眺めも良く大変興味深いものでした。当初明治2年に造られ、大正11年に国道拡張のため近くの現在地に移転したものといわれます。また、本殿の裏手には、板垣退助夫妻の立派な墓石と、「板垣死すとも自由は死せず・・」という名言を記した大きな石碑があり、このような場所に大事なものがあることに本当に驚き、また感動しました。

品川富士. 品川富士頂上にて

★次に、第一京浜から西に入り、「東海寺」に行きました。ここは、三代将軍家光が名僧沢庵のために寛永5年(1638)に建てた臨済宗大徳寺派の寺です。大変広大な寺域を誇っていましたが、没落して現在は狭小な寺となっています。世尊堂は昭和5年の建立。本尊の釈迦三尊は和歌山根来寺から寄進されたものといわれます。梵鐘は元禄5年のもの。境内には原爆犠牲者慰霊碑と広島・長崎被爆石があり、本当に胸を打たれます。

品川神社裏板垣退助碑 品川神社裏板垣退助墓所
東海寺梵鐘 東海寺原爆犠牲者慰霊碑

★更に、東海道線のガード下を潜り、「沢庵和尚の墓」です。線路脇の小高い台地に、自然石の簡素な墓がありました。沢庵漬けは沢庵の創製といわれ、三代将軍家光が殊のほか賞味したといわれます。すぐ近くには、江戸時代の国学者・賀茂真淵等の墓もありました。

沢庵和尚のたくわん石型の墓石 賀茂真淵の墓

★ここから目黒川に沿って、第一京浜を渡ってしばらく行きますと、再び品川宿の通りに出ます。すると、まもなく「品川寺(ほんせんじ)」です。ここは、なんとも素晴らしい、歴史を感じさせる寺です。品川区内最古の真言宗醍醐寺派の別格本山で、大同年間(806−810)に開基されたといいます。そして、四代将軍家綱のときに大伽藍が築かれました。

品川寺山門 品川寺大伽藍

★入口近くには、江戸六地蔵第一番の巨大な地蔵があり、都の文化財になっています。また、パリ万博以降行方不明になっていた梵鐘が、その後スイスのジュネーブで発見され、返還されたそうです。返還に伴うお礼もあったようで、この縁から、品川区とジュネーブ市は姉妹都市となりました。ここには、東海七福神の毘沙門天もあり、ほかにも樹齢600年の大銀杏等見所は多いです。

品川寺江戸六地蔵 品川寺ジュネーブ市より返還の梵鐘.

★これで今回の散策は終了し、ジュネーブ平和通を経て近くの青物市場駅で解散。歩行距離は約4キロほどで、快い疲れという感じでした。その後、有志のみで「稲田屋品川店」にて懇親会を実施しました。

★今回の散策は、通常行く機会のない地域のもので貴重であり、宿場の雰囲気や数々の文化財にも触れて、大変楽しく充実したものになりました。山本さんと佐藤さんの名解説も好評でした。小川さんの設営された懇親会も、大変楽しく盛り上がりました。今後も楽しい散策を企画したいものと思います。(報告・滝沢公夫、写真・荒木彌榮子、山本浩)

[参加者] 荒木彌榮子、小川浩史、小平道彦、梶川允、栗原政博、小林久子佐藤俊雄、志村智雄、滝沢公夫、土井洪二、野村吉宏、馬場正彦堀田耕也、山本浩、横田康平   以上15名

 


[第9回ニモク散策の会・ワセ・スポ共催会] (向島界隈の社寺を巡る2012.4.15.)

★4月15日、「ニモク散策の会」と「ワセ・スポを愛する会」は、共催で、「早慶レガッタ応援」とレースの間を縫った「周辺の散策」を実施しました。両方の会員11名は、隅田川吾妻橋フェリー乗り場前に集合。好天の中、午前と午後のレースの間を利用して、向島界隈を主体とする寺社の散策です。

★先ず訪問したのは「真乳山聖天」(まつちやましょうでん)。ここは正式には待乳山本竜院といい、高さ9メートルの丘になっていますが、歴史を感じられる堂々たる寺。推古天皇の頃、一夜で丘が出現し、金竜が舞い降りたと伝えられます。また、旱魃に見舞われたときには、歓喜天が降臨し、人々を救済したといいます。大根を供えて良縁と夫婦円満を願う寺として、参拝者は犇めくように多く、また、庭園も素晴らしいものでした。

待乳山聖天からスカイツリー お供えの大根 待乳山聖天宝篋印塔
本堂前で集合写真

★次に「牛嶋神社」。ここは本所地区の総鎮守となっており、創建は平安前期の貞観2年といいます。もともと北の方にあったのが、昭和7年に隅田川堤の拡張のために現在地に移転したものといわれます。この付近は牧場であったため、牛嶋といわれるようになったとのことです。境内に狛牛があることと、撫牛があることが特徴で、特に撫牛はからだの悪い部分と同じところを撫でると治るといわれており、墨田区の文化財になっています。また、鳥居も大変特徴があり、格式の高さが伺えます。

狛牛 狛牛 神社前で説明を聞く

★続いて「三囲神社」(みめぐりじんじや)です。ここは旧村社で、境内に稲荷が沢山散在して壮観です。創立年代は不明ですが、出土した壷から神像が現れ、白狐がこの神像の周りを三回回って死んだところから、この名称になったといいます。また、三囲が三井に通じるところから、豪商三井氏が守護神として崇め、三越の本支店には分霊を祀っています。また、池袋三越の閉鎖により、同店の前にあったライオン像が移設され、三井邸にあった石造三柱鳥居も移設されています。境内には、隅田川七福神のうち「恵比寿」と「大黒天」が祀られているほか、句碑・歌碑等の石碑が大変多く、素晴らしい神社でした。

狛狐 三囲神社社殿 狛狐
三井家の石造三柱鳥居

★最後に「弘福寺」です。ここは江戸初期の延宝8年に鉄牛禅師が創建した黄檗宗の寺です。鉄牛は石見の出で、京都宇治万福寺の創建にも尽力しています。本堂は禅宗様式の堂々たるものです。森鴎外は、津和野藩主の菩提寺の関係から一時ここに埋葬されましたが、三鷹の禅林寺に改葬されています。また、隅田川七福神のうち、「布袋尊」を安置。

弘福寺禅寺本堂 境内からのスカイツリー
言問団子の店

★以上で、早慶レガッタ応援の間を縫った散策は終了しました。やや慌しい面もありましたが、空いた時間の有効利用にもなり、大変充実したものになりました。山本さんの説明も大変好評でした。また、大黒家別館の特色ある天丼の昼食も好評でした。今後、このような共催行事も企画していきたいものと思います。(報告・滝沢公夫、写真・荒木彌榮子、国友康邦、山本浩)

 [参加者] 荒木彌榮子・国友康邦・栗原政博・滝沢公夫・野村吉宏・馬場正彦・山本浩・荒木の友人(高橋・草住・片岡・馬庭) 


[第8回ニモク散策の会] (南千住〜吉原巡り 2012.3.24.)

◆「コツ通り」からスタートして

★3月24日、ニモクサロン会員13名は、JR常磐線南千住駅に集合。生憎不安定な天候の中散策を開始しました。先ず、駅から数分のところにある「小塚原回向院」に行きました。ここは、前々回に訪問した「両国回向院」の別院です。鈴ヶ森とならぶ小塚原刑場での刑死者供養のため、両国回向院の住職が1667年に創建したもので、吉田松陰・橋本左内等の著名人が葬られています。また、杉田玄白等による腑分け(解剖)の記念碑もあります。かなり広大な境内で、痛ましい歴史もひしひしと胸に迫りました。悲惨な吉展ちゃん事件の地蔵も入り口にありました。前の道路は、骨が沢山埋まっていたことから、「コツ通り」と呼ばれています。

[小塚原回向院]
小塚原回向院正面口 罪人の腑分けで作られた「解体新書」のモニュメント 刑死者の墓や碑が並ぶ境内
吉田松陰墓 橋本左内(景岳)墓 高橋お傳墓.
鼠小僧墓 吉展地蔵(左奥)

★次に、すぐそばの「延命寺」です。ここは刑場跡で、昭和57年に常磐線の工事に伴い回向院から分離されました。1741年に建立された首切り地蔵が有名で、3.6メートルの巨大なものですが、東日本大震災で首が転げ落ちて、無残な状況に胸が痛みました。

延命寺に立つ小塚原刑場跡の表示板 台座(右)と落ちた地蔵首

★ここから、常磐線の橋を渡り20分ほど歩きますと「浄閑寺」です。この寺は、1855年の安政大地震のとき、多くの遊女が投込み同然に葬られたため、「投込寺」ともいわれます。なんともいえない哀れさが漂っていますが、寺自体は比較的大規模です。永井荷風が頻繁に訪れたといわれ、墓地の奥に歌碑がありました。

浄閑寺の由来を説明する山本さん 遊女が葬られている新吉原総霊塔 永井荷風の歌碑

★ほど近いところに「目黄不動(永久寺)」があります。なんとも寂しい雰囲気ですが、本堂は鉄筋コンクリート造りで、奥のほうに不動明王がみえました。ここは江戸五色不動のひとつで、三代将軍家光が寛永年間に指定したものです。不動信仰は、密教が盛んになる平安時代から広まったといわれます。なお、目黒不動は目黒区下目黒に、目白不動は豊島区高田に、目赤不動は文京区本駒込に、目青不動は世田谷区太子堂に、もうひとつの目黄不動は江戸川区中井にあります。

目黄不動尊で 目黄不動尊

★続いて10分ほどで「台東区立一葉記念館」です。この近くに一葉の旧居跡があり、地元民の熱意により昭和36年に開館、平成18年に立派に改築されたものです。一葉の生い立ち、作品原稿等貴重な資料が豊富に展示され、素晴らしい記念館でした。一葉は、この地旧竜泉寺町で一時小間物店を営んでいましたが、うまくいかず、本郷の菊坂に転居。「たけくらべ」「にごりえ」等の名作を残して24歳で亡くなっています。

樋口一葉旧居跡 一葉記念館

★次にすぐ近くの「飛不動」です。ここは、1530年に創建された修験系天台宗の単立寺院です。創建後、住職が不動明王を背負って奈良の大峯山に行ったところ、不動だけが空を飛んで帰ってきたところから、空飛ぶ不動として信仰されてきました。境内は特に見所はありませんが、航空関係や旅行関係の人々が多く訪れるようです。

飛不動 飛不動本堂

★ここから10分ほどで「鷲神社」(おおとりじんじゃ)です。天日鷲命と日本武尊を祀る古社で、境内は広大。11月の酉の市の時は大混雑しますが、平常は殆ど人影のない静けさでした。いずれにしても、高い社格が感じられました。

おおとり神社で記念撮影

◆いよいよ旧吉原遊郭の跡地巡りへ

★すぐそばから、いよいよ「吉原」地区に入ります。この地区は、入り口付近は見通しの利かないように曲がった道路になっていますが、全体的には碁盤の目のようにきちんとした区割りになっています。もともと徳川家康の隠居地である静岡に公認の遊郭があり、1617年には江戸でも許可されて、今の人形町に遊郭が誕生しました。しかし、1657年の明暦の大火で遊郭は全焼し、浅草の田圃の中に移転を命じられて、埋め立てによって現在の吉原になりました。全体的にやや台地になっています。

吉原の町並み

★その後、明治末の吉原大火や関東大震災・東京大空襲でも全焼と復活を遂げてきました。戦後は、売春防止法や風俗営業法等により火が消えたようになっていましたが、現在はこの地区限りの特例措置により、全国のソープランド1,400軒の一割以上にあたる150軒ばかりが軒を連ねています。客引きは禁止されていますが、声をかけられることはあり、極めて独特な雰囲気を持つ地域です。

★吉原で先ず行ったのは「吉原弁財天」です。ここは次に行く吉原神社の奥宮となっています。もともとこの地には弁天池がありましたが、関東大震災で遊女500人が飛び込み溺死しました。この供養のため、大正15年に巨大な観音像が建立されましたが、本当に美しく素晴らしいものです。

吉原弁財天観音像 吉原弁財天宮でガイドをする滝沢さん

★そして、すぐそばの「吉原神社」に参拝。ここは明治8年、この地に祀られていた5つの稲荷を合祀して開基し、昭和10年には弁財天も合祀して浅草七福神のひとつとなったものです。小規模ながら独特の雰囲気のある神社でした。

白い目の狛犬 赤い目の狛犬
吉原神社 なんとも艶冶な弁財天さま

◆胸ときめかして吉原大門を潜り、帰りは未練の見返り柳

★いよいよ吉原の入り口にあたる「吉原大門」(よしわらおおもん)です。ここはもともと吉原遊郭への唯一の出入り口であり、遊女の逃亡も防いだといわれます。江戸時代には木造のアーチ型楼門がありましたが、明治時代に鉄門になり、その後の関東大震災の際に撤去されてそのままになっています。入り口の脇には「見返り柳」があり、遊び帰りの客が名残惜しく見返ったといいますが、現在のものは6代目といわれ、大変小さく、また場所も移動しているらしいです。

★大門の前には昔は水路があり、舟でやってくる客も多かったといいます。現在は埋め立てられて昔の面影はありませんが、土手通り・日本堤等地名は残っています。また、大門前の土手通り向こう左側には、「中江」という桜肉店と「いせ屋」という天麩羅屋があって、珍しく江戸時代の老舗の雰囲気を保っています。

見返り柳跡 いまに名を留める土手通り 桜鍋の店「中江」(中)と天麩羅の「いせ屋」(右)

★これで、独特の雰囲気を持つ吉原地区を出て、余韻を楽しみながら地下鉄浅草駅に向かいました。途中、「浅草浅間神社」に立ち寄りましたが、ここは小高い丘になっていて、「浅草富士」ともいわれます。真ん前には富士小学校がありました。そして、無事浅草駅に着いて、5キロに及ぶ散策は解散となりました。

浅草富士浅間神社 富士小学校

◆後は超高層ビヤレストランでスカイツリーを肴に飲むだけ

★その後、有志11名で懇親会を行いました。会場は、アサヒビールビルの最上階にある、素晴らしい展望を楽しめる「ラ・ラナリータ」で、旨い生ビールとコースのイタリア料理を楽しみながら、目の前に聳えるスカイツリーに大感動し、大変充実したひとときを過ごしました。

吾妻橋より隅田川越しにスカイツリーとアサヒビールビル レストランからのスカイツリー 隅田川を見下ろして
ビヤレストラン「ラ・ラナリータ」で生ビールを待つ 料理はまだだが、まずは乾杯!

★今回の散策は、滅多に行く機会のない経路のため新鮮であり、数々の得難い経験をして楽しかったです。山本さんの解説と佐藤さんの資料も素晴らしいものでした。今後も楽しい散策を企画したいと思います。(報告・滝沢公夫、 写真・荒木彌榮子、国友康邦、山本浩) 

 [参加者] 荒木彌榮子・伊藤順蔵・小川浩史・国友康邦・栗原政博・小山雄一・佐藤俊雄・滝沢公夫・土井洪二・中村泰三・野村吉宏・馬場正彦・山本浩


[第7回ニモク散策の会(イチモク改め)] (深川七福神巡り 2012.1.14.)

★この日、ニモクサロン会員15名は、地下鉄森下駅に集合。本年の運気向上を願って、寒中ながら好天に恵まれた中散策を開始しました。

★深川七福神は、江戸時代の創設ながら、関東大震災と戦災で焼失した寺社が多いため長期間中断し、昭和45年に再開したばかりの比較的新しい七福神ですが、それぞれに見所が多く、5キロという比較的長距離の行程ながら退屈することはありませんでした。

★先ず、森下駅に近い「深川神明宮」(寿老人)。ここは深川で最も歴史のある神社です。大阪摂津の国の深川八郎右衛門がこの地を開拓し、1596年に伊勢神宮の分霊を祀って創建したものといわれます。そこで、この地一帯が、徳川家康の命により深川と命名されたそうです。「寿老人」は境内の「寿老神社」に安置。かなり規模の大きな神社で、幼稚園も併設されています。

スタートの深川神明宮で 寿老人

★次いで、「深川稲荷神社」(布袋尊)。ここは1630年の創建で、歴史はあります。船大工の住んでいた町の稲荷で、現在は無住です。布袋尊は、石造の立派なものがあります。ここから、やや距離の離れている「龍光院」(毘沙門天)へ向かいました。途中に「清澄庭園」や「深川江戸資料館」がありますが、時間の関係で、残念ながら割愛です。

★龍光院は、1611年に馬喰町で創建されましたが、火災により1682年に現在地に移転。しかし、太平洋戦争で焼失して昭和50年に再興という多難な歴史を持っています。毘沙門天は、木彫りの立派なものです。

龍光院の毘沙門天

★次に、「間宮林蔵」の墓の前を通り、「円珠院」(大黒天)です。ここは、享保年間(1730)に旗本氷見甲斐守の娘が創建。深川の大黒天として有名になりました。木造のもののほか、狭い境内には石造の大黒天もあります。

円珠院 破顔大黒天石像

★続いて、「滝沢馬琴出生地」の前を通り、「心行寺」(福禄寿)へ。ここは、1616年八丁堀に創建され、1633年現在地に移転した名刹です。関東大震災と戦災で焼失し、昭和42年に再建された豪壮なもの。福禄寿は、昭和50年新築の六角堂に安置されています。ついでに、隣接した寺の閻魔堂を拝観しましたが、恐ろしい顔でした。

滝沢馬琴出生地の案内板 心行寺の門前で予備知識を受ける
福禄寿石像と記念撮影 心行寺六角堂
閻魔堂 冬木弁財天

★いよいよ終わりに近づき、「冬木弁天堂」(弁財天)。ここは、木場の材木商・冬木弥平次が1705年弁財天を安置して創建。関東大震災で焼失して昭和28年に再建されたものですが、極めて狭小なものです。

★そして、最後の「富岡八幡宮」(恵比寿神)。ここの境内は広大で、本殿も巨大。「深川の八幡さま」として広く親しまれています。1627年、当時永代島といわれた小島に創建され、その後付近一帯が埋め立てられて現在に至っています。恵比寿神は、本殿西方の小さい社殿に安置。

富岡八幡宮 恵比寿宮は大黒宮と共

★富岡八幡宮の境内および隣接地には、数多くの記念碑・像・橋や深川不動等があり、全部を隈なく見て回るのは困難ですが、主なものは見ました。横綱力士像は、現在の横綱まで揃っていて、とても素晴らしいものでした。ここが江戸勧進相撲の発祥地のため、このような碑ができたようです。天皇御製碑は、昭和天皇が終戦時に詠まれたもので胸を打ちます。八幡橋(旧弾正橋)は国指定重文で、珍しい明治の鉄橋です。伊能忠敬像は、全国の測量に出かけるときは必ず富岡八幡宮に参拝していた、という気構えが伺えました。

伊能忠敬像

★深川不動は、元禄時代から、富岡八幡の別当寺院永代寺として成田不動の出開帳が行われて賑わっていましたが、明治の神仏分離により永代寺は廃止され、明治14年に新築して深川不動となったもので、常時大変な人出です。

深川不動新社殿 横綱力士碑
滝沢馬琴出生地の案内板(江東区平野一丁目) 重要文化財旧弾正橋(八幡橋)

★これで今回の散策は終わり、門前仲町の「深川浜」で懇親会となりました。大衆的な「深川めし」専門店で、大衆酒場を兼ねた特色ある店ですが、飲み放題で大変盛り上がり、長距離の散策の疲れもすっかり吹き飛びました。

[仕上げは「深川浜」で懇親会]

★今回の散策は、今年の運気向上を願っての「七福神めぐり」でしたが、それぞれの寺社の特徴が楽しく観察できました。また、途上に寺が非常に多いことや下町情緒のある地域環境も体験できて、総体的に大変楽しい散策となりました。山本浩さんの名解説と佐藤敏雄さんの資料も大変好評でした。今後も楽しい散策企画をしていきたいと思います。(報告:滝沢公夫  写真:山本浩・国友康邦)

 [参加者] 伊藤徹・大野照蔵・小平道彦・梶川允・国友康邦・小林久子・小山雄一佐藤敏雄・滝沢公夫・土井洪二・野村吉宏・馬場正彦・堀田耕也・山本浩・横田康平


[第6回イチモク散策の会] (両国界隈を歩く 2011.11.19.)


★この日、イチモクサロン会員15名は両国駅に集合、生憎の激しい雨天の中、小止みになることを願いつつ散策を開始しました。

★先ず、「船橋聖一生誕地」という石碑の前を通り、「旧安田庭園」へ。ここは、元禄4年(1691)足利藩主(後に丹後宮津藩主)本庄氏の下屋敷として造営され、その後安政年間に、隅田川の水を引き込んだ回遊式庭園に改造されたものです。小規模なものですが、なかなか趣きのある素晴らしい庭園でした。現在隅田川からの取水は停止されておりますが、設備はそのまま残っています。

船橋聖一生誕地の碑 安田庭園(後ろは国技館)
安田庭園 安田庭園の旧隅田川取水口

★続いて「東京都慰霊堂」に行きました。関東大震災当時、この付近一帯は旧陸軍被服廠跡地として更地になっていたため、38,000人もが避難してきていました。そこに竜巻が起こって大半の人々が焼死してしまいました。この人々の慰霊のため、昭和6年にこの慰霊堂が建設されました。その後の太平洋戦争の犠牲者も祀られています。三重塔様式の豪壮で、とにかく特色ある建物です。内部には震災の写真の掲示のほか、蝋燭や線香による祭壇も設けられていて感動的でした。

東京都慰霊堂 東京都慰霊堂
東京都慰霊堂・子供たちの慰霊碑 東京都慰霊堂・子供たちの慰霊碑

★その足で、すぐそばの「復興記念館」へ。ここは、関東大震災と太平洋戦争にまつわる数々の写真・絵画・遺品等が膨大に展示されており、特に遺品については大変胸の痛むものが多くありました。実に貴重な資料が揃っている記念館でした。建物は昭和6年、慰霊堂とあわせて建築されたものだそうです。

復興記念館 復興記念館内の展示物

★次は「回向院」。ここは明暦3年(1657)に開基された浄土宗の寺です。敷地は実に広大でした。明暦の大火(振袖火事)で犠牲になった10万人あまりの人を葬るため、将軍から土地を与えられ、御堂が建てられたのが始まりといわれます。人だけでなく、動物全般にも対象を広げ、現在もペットの葬儀を積極的に受け入れ、卒塔婆が多く存在します。また、江戸後期から興行相撲の場所となり、旧国技館のできる明治42年まで続きました。一方、境内には、鼠小僧次郎吉の墓等見るべきものがたくさんありました。

回向院 回向院・鼠小僧像の前で

★続いて、吉良邸跡へ向かいました。ここは元禄15年12月14日、赤穂浪士が討ち入りした場所です。吉良上野介は、鍛冶橋に屋敷を拝領していましたが、刃傷事件のあとあだ討ちを恐れる幕府に召し上げられ、ここ本所松坂町の屋敷を拝領しました。しかし、実際に住んでいたのは討ち入りまでの1年半程度の期間でした。現在の吉良邸跡は30坪足らずで、当初の2,500坪のごく一部です。昭和9年、町会有志がこの地を買い取り東京市に寄付し、さらに昭和25年に墨田区に移管されたそうです。「首洗い井戸」と「なまこ壁」が、当時を偲ばせてくれました。

首洗い井戸の前で 吉良上野介像

★これで今回の散策を終わり、「芥川龍之介生育地」の看板の前を通って両国駅に戻りました。雨は依然として激しく降っていました。

★最後に秋葉原駅で下車し、懇親会場の「稲田屋秋葉原店」に向かいました。ここは小川浩史さんが特別に設営してくれた素晴らしい店です。鳥取県の海の幸や地酒を囲んで、今日の成果や各種のことに話題が広がり、大変盛り上がりました。激しい雨天の中の苦労も吹き飛んでしまう熱気となりました。あっという間に時間が経過し、楽しい雰囲気の中で解散しました。今後も、楽しい散策を企画していきたいと思っています。

懇親会場で

(報告: 滝沢公夫、写真: 荒木彌榮子・国友康邦・山本浩)

 [参加者] 荒木彌榮子・伊藤徹・小平道彦・梶川允・梶川夫人・国友康邦・栗原政博・佐藤良三・志村智雄・滝沢公夫・土井洪二・野村吉宏・村山正己・山本浩・横田康平 


[第5回イチモク散策の会](目黒界隈を歩く 2011.10.1.)

2011年10月1日、イチモクサロン会員18名はJR目黒駅に集合しました。今回の参加者数は今までの最高で、古刹の集まる目黒への関心の高さが窺える会となりました。好天のなか早速行動を開始。

★まず行人坂という急坂を降り、「大円寺」に参詣しました。この寺は江戸初期の開基で、明和大火の火元となったところです。この火事は、明暦大火(振袖火事)に並ぶ大火でした。境内には、供養のための五百羅漢像が五百二十体ほどあって圧巻であり、都の有形文化財に指定されています。その他にも各種仏像等の見所が多かったです。特に「とろけ地蔵」は面白かったです。ただ、重文に指定されている釈迦如来像は通常拝観できず残念でした。

行人坂を下る 大円寺
大円寺五百羅漢 とろけ地蔵

★なおこの寺は、八百屋お七の情夫・吉三にゆかりがあり、出家した吉三は「西運」と称してこの寺に居たそうです。境内に記念碑もあります。狭いながらも面白い寺でした。

大円寺の境内にある吉三(西運)の記念碑

★更に急坂を降り、「五百羅漢寺」に行きました。ここは昭和五十六年に近代的なビルに生まれ変わっていますが、もととも元禄年間に江戸の本所で開基され、明治四十一年に現在地に移転した浄土宗系の単立寺院です。本尊は釈迦如来。五百羅漢像は、開基した松雲師が独力で作成したもので、現在も、その他の仏像とあわせて三百五体が残っていて、実に壮観でした。いずれも都の有形文化財に指定されており、その他にも見所の多い寺でした。最近は、ビル内の墓地販売等商売にも大変熱心のようでした。

五百羅漢寺 五百羅漢寺の境内
五百羅漢寺 五百羅漢

★続いて、すぐそばの「成就院」に行きました。ここは、目黒不動の開祖・慈覚大師が創建した天台宗の寺で、本尊の薬師如来が三匹の蛸に支えられていますので、「蛸薬師」とも称します。また、徳川二代将軍、徳川秀忠の側室・お静が奉納した「お静地蔵」も有名です。なお、お静は、会津藩祖・保科正之の生母となった女性です。とにかく歴史を秘めた由緒深い寺でした。

成就院(別称:蛸薬師 お静地蔵

★それから、目黒不動(瀧泉寺)に参詣しました。大変規模の大きい寺で、大同三年(808)慈覚大師により創建された、天台宗の関東最古の不動霊場です。また、江戸三十三観音霊場の結願寺でもあります。水掛け不動・大日如来・観音堂等見所が多く、多くの参詣者や観光客で賑わっていました。なお、ここは、目青不動・目黄不動・目白不動・目赤不動とともに、江戸五不動のひとつです。

目黒不動山門 山門で記念写真に納まる
目黒不動境内の水掛不動 目黒不動大日如来
目黒の街を歩く 目黒雅叙園前を歩く

★ここから、趣きを変えて、東京都庭園美術館に行きました。ここは、昭和八年建造の朝香宮邸を昭和五十八年に美術館として公開したものです。アールデコの建物自体すべてが美術品であり、大変素晴らしいものですが、当日は休館で本当に残念でした。しかし、庭園には入園でき、芝生・日本・西洋に分かれた素晴らしい雰囲気を十分楽しむことができました。

東京都庭園美術館 同美術館

★これで散策は終了し、稲田屋新宿西口店で懇親会となりました。小川浩史世話役のご好意により、素晴らしい山陰の珍味と地酒の飲み放題で大いに盛り上がりました。

稲田屋新宿西口店で懇親会 同懇親会

★今回の散策は比較的コンパクトでしたが、素晴らしい古刹と庭園巡りで、中身の濃いものになりました。山本浩・佐藤敏雄両世話役の、懇切で楽しい解説も大変好評でした。今後も皆さんのご意向を汲み取りながら、楽しい充実した散策を企画して行きたいと思います。 (報告・滝沢公夫、写真・荒木彌榮子国友康邦・山本浩)               

 [今回の参加者] 荒木彌榮子・伊藤順蔵・伊藤徹・小川浩史・梶川允・国友康邦栗原政博・小林久子・坂本哲之助・桜井英夫・佐藤敏雄・滝沢公夫・土井洪二・野村吉宏・穂積健児・峯岸敏雄・山本浩・横田康平(茶色表示は世話役)


[第4回イチモク散策の会](谷中・根津・千駄木を歩く)

★2011年5月14日、イチモクサロン会員12名は、JR御茶ノ水駅に集合、好天に恵まれた中ゆったりと散策を開始しました。地下鉄新御茶ノ水駅から根津駅まで乗車し、先ず「根津神社」に参詣しました。

午前10時、御茶ノ水駅集合

★日本武尊に遡る歴史を有する根津神社の社殿は、五代将軍綱吉が、六代の家宣の世継ぎ決定の際、1706年に造営されたものですが、すべての建物が現存し、国の重要文化財になっているだけあって、権現造りは素晴らしく、しばらく感慨深く見とれました。ただ、名物の躑躅は既に花が終わっていて、とても残念でした。

根津神社で説明を聞く 根津神社拝殿 神社展望台で

★続いて、参道にある「金太郎飴本舗」に行きました。東京で最古の金太郎飴の店で、各種の飴が楽しく、それぞれ好みのものを求めたりしました。

★ここから坂道を登って、「大名時計博物館」に行きました。古い民家風の小さな博物館ですが、陶芸家の上口愚朗が収集した、大名お抱え時計職人による和時計を50点ばかり展示しており、大変珍しいものが多く、素晴らしかったです。

大名時計博物館で

★更に坂を下り、「へび道」を歩きました。もともとの河川を暗渠にしたもので、蛇のように曲がりくねっていて、誠に特異な、奇妙な感覚を持つ道路でした。

へび坂を往く

★ここから少し坂を上ると「いせ辰本店」があります。珍しい各種民芸品を取り揃えており、特に江戸千代紙が素晴らしかったです。

いせ辰の前で

★ここで、やや暑さを感じるようになりましたので、志村会員のなじみの喫茶店で小休止をしました。冷たい飲み物で元気を回復、再び散策を続けました。

冷たい飲み物で元気回復

★次に行ったのは「全生庵」です。山岡鉄舟が明治16年に建立した臨済宗の寺で、堂々たる本堂です。ここには、ゆかりのある三遊亭円朝の墓所もあり、幽霊画も所蔵しておりますが、幽霊画の公開は8月に限られているため残念でした。

全生庵で

次いで、すぐそばにある「大円寺」に行きました。ここには、浮世絵師・鈴木春信の碑と、彼が錦絵に描いたことによって、江戸三大美人のひとりといわれるようになった「笠森おせん」の碑があり、感慨深いものがありました。

笹森おせんと鈴木春信の案内板

★続いて、坂を下り「よみせ通り」を行きますと、いよいよ「谷中銀座」です。下町情緒たっぷりの、懐かしい感覚の活気ある商店街で、小さな店が70軒ばかり連なっています。ここで、それぞれ「焼きかりんとう」や「コロッケ」「竹細工」等、多くの楽しい商品を見繕って買い求めました。

谷中銀座入り口 肉屋さんで買い物

★谷中銀座の日暮里寄りには、階段になった道路「夕焼けだんだん」があります。ここからの夕焼けが素晴らしいことから名づけられたようですが、最近はビルが増えて、展望が悪くなったのは残念でした。この付近は、猫が多く見られます。

階段道路「夕焼けだんだん」

★ここで、「佃煮・中野屋」に立ち寄りました。当地で有名な老舗で、それぞれに好みのものを買い求めました。

佃煮の中野屋で

★次に、多くの有名人が葬られている「谷中霊園」を参詣する予定でしたが、時間の関係で残念ながら省略し、「天王寺五重塔跡」に向かいました。この塔は1644年に建立され、1791年に再建された名塔でしたが、昭和32年の心中放火事件で全焼してしまいました。現在塔跡のみが史跡として残っています。幸田露伴の名作「五重塔」のモデルとなっている塔で、再建が進まないのは残念です。

★続いて、すぐそばの「天王寺」に参詣しました。これは、もともと室町時代に創建された感応寺という日蓮宗の寺でしたが、江戸初期に天台宗に改宗し、天王寺と称しました。江戸時代には富くじを発行していたこともあります。阿弥陀如来と毘沙門天が本尊ですが、境内にある1690年に建立した釈迦如来大仏は、なかなか見ごたえがあり、区の有形文化財になっています。

天王寺五重塔跡を見る 天王寺前で 釈迦如来大仏

★ここで、すくそばの日暮里駅から鶯谷駅まで乗車し、懇親会場の「笹の雪」に到着しました。ここは子規も通った由緒ある豆富専門店で、老舗の貫禄は十分でした。次々に出される豆腐料理の旨さに満足し、飲み物も次第に進んで、大変盛り上がりました。

「笹の雪」 店内の座敷で まず一品
食事の後、記念写真に納まる

★その後、すぐそばにある「子規庵」に行きました。3時40分の入場制限時刻寸前でしたが、比較的ゆっくりと参観できました。ここは子規が明治27年から35年の死亡まで住み、その後も母親と妹が亡くなるまで住んでいましたが、昭和20年に戦災で焼失、25年に門弟によって再建されたものです。大変忠実に再現されており、都文化史跡に指定されています。

★この狭い住宅で、脊髄カリエスに苦しみながらも多くの同志・門弟が集まり、句会・歌会に励んでいたことが偲ばれ、深い感動を覚えました。次の絶筆三句は胸を打ちます。

      糸瓜咲いて痰のつまりし仏かな

      痰一斗糸瓜の水も間にあはず

      をととひの糸瓜の水も取らざりき

子規庵の見学を終えて スカイツリーを見つつ日暮里駅へ

★これで、今回の散策は終了し、鶯谷駅で解散しました。今回の散策は、やや長距離となり、途中坂道もありましたが、天候にも恵まれて、一同ゆったりと楽しく散策できたと思います。特に神社・寺・博物館・商店街等大変バラエティに富んだ内容で、学ぶべき点も多かったです。懇親会場も素晴らしかったと思います。また、山本・佐藤両世話役の分かりやすい解説は、大変好評でした。今後も皆さんのご意見を聞きながら、楽しい散策を企画したいと思います。   (報告・滝沢公夫、写真・荒木彌榮子&山本浩)

 (参加者) 12名
荒木彌榮子・伊藤順蔵・小平道彦・小林久子・佐藤俊雄・志村智雄・志村洋子・滝沢公夫・土井洪二・野村吉宏・山本浩・横田康平 (茶色は世話役)


[第3回イチモク散策の会](日本橋・人形町の七福神めぐり)

2011年1月22日、イチモクサロン会員10名は三越本店前に集合。寒中ながら好天に恵まれた中、本年の運気向上を願って七福神巡りを開始しました。多くがビル街の中にあり、土曜日のため人通りが殆どなく、静かな雰囲気に包まれていました。

★一番目に訪れたのは、宝田恵比寿神社(恵比寿神)です。本当に可愛らしい神社でした。当初は、現在の皇居前にあった宝田村の鎮守だったとのことです。御神体が左甚五郎または運慶の作といわれているのは、一寸疑問に思いました。

宝田恵比寿神社(恵比寿神)

★二番目は、椙森(すぎのもり)神社(恵比寿神)です。太田道灌が京都・伏見稲荷神社を勧請したものといわれます。ここは、江戸時代に富籤を発行したことで有名で、境内には富塚があります。比較的規模が大きい神社で、一同は本年の宝くじの当選を祈りました。

椙森(すぎのもり)神社(恵比寿神) 富塚
江戸富札

★三番目は、笠間稲荷神社(寿老人)です。江戸時代中期に茨城の笠間稲荷神社を勧請したものといわれ、たたずまいも似ているように思いました。

笠間稲荷神社(寿老人)

★四番目は、末広神社(毘沙門天)です。旧吉原遊郭がこの地にあって、産土神として信仰されていたとのことで、芸者組合の奉納石もあります。小さいながら趣き深い神社です。社殿改装の際に、めでたい扇が発見されたため、この社名がついたとのことです。

末広神社(毘沙門天)

★ここで、甘酒屋が多い甘酒横丁を通りましたので、甘酒を楽しみながら休憩しました。程よい甘さが疲れを忘れさせてくれました。ここばかりは大変賑わっていました。

甘酒を飲んで一服

★五番目は、松島神社(大黒神)です。ビルの一階にあり、比較的大きいものの、趣きにはやや欠けるように感じられました。ここは、もともと入り江の小島であり、松が茂っていたことでこの名称になったようです。

松島神社(大黒神)

★六番目は、水天宮(弁財天)です。ここは安産・子授け祈願が有名で、飛びぬけて大規模な神社です。参拝者も極めて多く、土産物屋も賑わっています。もともと福岡の久留米藩有馬家の屋敷神でしたが、江戸時代に分霊されたものということです。お孫ちゃんの為にと真剣に手を合わせている3人の姿が微笑ましかったです。

水天宮 水天宮の弁財天堂

★七番目は、茶の木神社(布袋尊)です。もともと千葉・佐倉藩大老の堀田家の中屋敷に祀られた稲荷が祭神といわれ、周りを茶の木が取り囲んでいたためこの名がつき、火伏せの神として崇められてきました。本当に可愛らしい社殿でした。

茶の木神社(布袋尊)前で記念写真

★最終の八番目は、小網神社(福禄寿・弁財天)です。網師の翁を稲荷大神として勧請したものといいます。現在の社殿は昭和四年に造営されましたが、戦火も免れて、現在日本橋地区に残されている唯一の木造神社建築です。権現造りの素晴らしい社殿で、緑青が一面にふいた銅板葺きの屋根が実に美しく、歴史も感じられました。五角形の神楽殿も、大変珍しいものです。七福神巡りの最終の神社にふさわしく、印象深いものになりました。

小網神社(福禄寿・弁財天)と右は五角形の神楽殿

★ここから懇親会場である「稲田屋日本橋店」に向かいました。高島屋のすぐそばにあり、小川浩史世話役の好意により、鳥取の海の幸や銘酒等が豊富に用意されていて、大変楽しく盛大なものになりました。社長さんも稲門であり、丁寧なご挨拶を戴き、恐縮しました。

稲田屋日本橋店 懇親会の前に記念のショット

★今回の日本橋・人形町七福神巡りは、わが国で最も歩く距離が短いといわれるものですが、ゆったり歩くには最適のものでした。神社の規模や雰囲気はそれぞれ異なっていて、変化を楽しむこともできました。また、歴史や下町の情緒を感じることも多かったです。それに最後の懇親会は素晴らしいものでした。今後も楽しい散策を企画したいものです。(報告・滝沢公夫、写真・荒木彌榮子)

[参加者]荒木彌榮子、伊藤順蔵、栗原政博、佐藤俊雄、佐藤良三、滝沢公夫、土井洪二、野村吉宏、馬場正彦、横田康平 (茶色の名前は世話役)


[第2回イチモク散策の会](御茶の水・湯島界隈を歩く)

★2010年11月26日、イチモクサロン会員12名は、JRお茶ノ水駅に集合、絶好の日和の中散策を開始しました。まず向かったのは、駅のそばにある「ニコライ堂」。ロシア人が建立したギリシャ正教の教会ですが、荘厳な造りと内部のイコン(聖像画)やステンドグラスに感動し、全員で蝋燭を捧げて拝礼しました。信者の人の心温まる説明も素晴らしかったです。歴史からみても、国の重要文化財に指定されているのは肯けるのでした。


 聖橋(右はJRお茶の水駅ホームの中央線電車)

ニコライ堂

★続いて、神田川に架かる「聖橋」を渡りました。ニコライ堂と湯島聖堂を結んでいるため、この名がついたとのことです。この辺は、駿河台と湯島台がつながっていて神田山といわれていましたが、江戸時代初期に江戸城防衛のために掘削されて神田川になったものと知り、歴史を秘めているのに驚きました。

★聖橋を渡ると、「湯島聖堂」です。徳川5代将軍綱吉が孔子廟として建立したもので、その後幕府の昌平坂学問所や明治の文部省・高等師範・女子師範を経てきているだけに、境内は全体に学問の府としての雰囲気が漂っています。土曜・日曜のみ開かれる大成殿(孔子廟)が見られなかったのは残念でしたが、巨大な孔子像や、楷書の語源となった、中国から移入された珍しい楷の木に、感動しました。

湯島聖堂(孔子廟)に入る一行

聖堂孔子像と伊藤会長

湯島聖堂の楷書の木 
枝や葉が整然としているので
楷書の語源になったという。

★それから、すぐそばにある「天野屋」で名物の甘酒で休憩しました。江戸時代からの老舗ですが、地下の麹室で造った甘酒は格別の味で、一同満足しました。ただ、麹室の見学を断られたのは残念でした。

神田明神入口の老舗「天野屋」甘酒で有名

次は、「神田明神」に参拝しました。江戸総鎮守として、神田祭の壮大さは有名。平将門・大黒さま・恵比寿さまの三神が祀られており、さすがに巨大で、歴史も感じられる一方、庭園等の新しい取り組みも感じられました。ここから東京スカイツリーが遠望できたのも感動で、一同見とれていました。

神田明神 神田明神の境内からスカイツリーを望む
拝殿前で記念撮影

★ここから急坂を一旦降りて登っていくと、「湯島天神」です。菅原道真を祀っているため、受験期の参拝者の殺到と、境内に300本ある梅の花が有名ですが、現在は菊花展が開かれていて、薄暗くなった中、静かに大いに楽しみました。

湯島天神 湯島天神

★湯島天神の急な男坂の石段を降ると「心城院」です。ここは江戸33観音・第7番札所で、「湯島聖天」ともいいます。明治の神仏分離で、湯島天神から独立したものです。本尊は十一面観音で、歓喜天も祀られています。境内の柳の井戸が、関東大震災の、時、住民の命を守ったといわれています。全体に、札所特有の暖かい雰囲気の感じられるお寺でした。

湯島聖天(心城院)

★これで本日の散策は終わり、小川浩史世話役のご好意による「湯島ホルモン 良ちゃん」で、盛大に打ち上げを行いました。数々のホルモン料理をつつきながら、大いに飲み、本日の成果を語り合うなど、大変盛り上がりました。

[湯島ホルモン焼き店「良ちゃん」で打ち上げ]

★今回の散策は、日常通りかかる都心の場所であっても、案外奥深いものや自然の景色や歴史を持っていることを認識させられました。特に、キリスト教・仏教・神道の関係施設を巡ったことは意義深いものであったと思います。そして、何より良かったのは、最後の「湯島ホルモン」での盛り上がりです。今後も楽しい散策が持続できればと思います。(報告・滝沢公夫、写真・国友康邦・荒木彌榮子)

[参加者]参加者荒木彌榮子、伊藤順蔵、小川浩史、国友康邦、栗原政博、小山雄一、佐藤俊雄、佐藤良三、滝沢公夫、馬場正彦、山本浩、横田康平)   



[第1回イチモク散策の会](築地・月島・佃を歩く)


★イチモク倶楽部会員10名は、2010年9月30日、高田馬場に集合し地下鉄で築地にて下車、生憎の雨天の中ぶらり散策を開始しました。先ず向かったのは築地本願寺。古代インド様式の巨大な本堂に驚き、更に堂内のパイプオルガンの珍しいことと、広島・長崎の原爆被害の写真の展示に感動しました。

築地本願寺
wikipediaから転借

★続いて、隣接する築地場外市場を巡りましたが、多彩な食材が溢れており、凄い活気です。江戸時代初期、築地埋め立ての際建立されたという波除稲荷神社を参拝。巨大な二頭の獅子頭と珍しい枝垂れ銀杏が印象に残りました。

築地場外市場
波除稲荷神社 獅子殿
wikipediaから転借 wikipediaから転借

★晴海通りに出て、かちどき橋の資料館を見学。ここは昭和15年に勝鬨橋の変電所として建設されたもので、各種展示物やビデオを楽しみ、懐かしかったです。勝鬨橋は、昭和45年まで開閉しており、都電も走っていたところです。当時の信号も残されています。ここからの隅田川の展望は素晴らしく、全員しばらく見とれていました。

かちどき橋
かちどき橋から月島方面を望む かちどき橋から築地市場方面を望む(中央は水上バス)
かちどき橋で記念撮影

★橋を渡ると、明治20年に埋め立てられたという月島です。もんじゃストリートを行きますと、いたるところに路地裏があり、下町のほのぼのとした情緒を感じることができました。また、もんじゃ屋が70軒もあると聞いて、驚かされたのです。

月島もんじゃストリート
wikipediaから転借

★ここから大阪と関係の深い佃に入り、住吉神社を参拝しました。この神社は、江戸初期、徳川家康に招かれて来た摂津国佃(現在の大阪市西淀川区佃)の漁師と同行した神職により、大阪佃の田蓑神社から分社したもの。鳥居にある扁額は、明治15年に製作された陶製の珍しいもので、区の文化財に指定されています。境内には神々しさが漲っていました。

★佃は、独特の雰囲気を持つ地域ですが、佃煮発祥の地でもあります。現在御三家といわれる3軒だけが営業していますが、参加者それぞれ、好みの品を楽しみながら買い求めていました。昭和39年完成の佃大橋にのぼりましたが、隅田川に沿う超高層ビル群をはじめとして、展望は抜群で、川の上流から下流まで一望にできます。しばらく感動の中に身を置いたのでした。ただ、見えるはずのスカイツリーが、雨のため全く見えなかったのは残念でした。

佃大橋から永代橋方面を望む

★これで散策は終わり、もんじゃ屋で打ち上げをすることになり、路地裏もんじゃ「もん吉」で、もんじゃを楽しみました。とても味が良く、店員のきびきびとしたサービスと相俟って大好評でした。今回の散策は、雨天の中でしたが、全員元気にぶらり歩きを楽しみました。バラエティーに富んだ内容のため、楽しい雰囲気で行動できたと思います。特に「もんじゃ」は大変楽しく盛り上がりました。これからも楽しい散策を企画したいと思います。(報告・滝沢公夫、写真印・国友康邦)

もんじゃ屋「もん吉」前で

(参加者)荒木彌榮子、伊藤順蔵、小川浩史、国友康邦、栗原政博、小山雄一、滝沢公夫、矢野九州男、山本浩、横田康平(以上10名)

♪BGM:Ripple[Gypsy]arranged by Ripple♪
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