いなほ随想

第二集


親父キャンプ IN アメリカ
〜モーターホームの旅〜

小林勝行(50社会)

★初めてキャンプをしたのは、中学1年の時である。同級生数人と弟を連れて秋川渓谷の十里木で2泊3日のテントを張った。それから45年、いまだに50代も半ばを過ぎた親父ばかりで、年数回だがキャンプをしている。

★3年前(06年)の話になるが、ゴールデンウイークを利用して小学生(小平第五小)の時からの友人たち5人でアメリカにオートキャンプに行った。ユタ、アリゾナ、ネバダの各州にある6つの
国立公園とモニュメントバレーを巡る6泊7日、全行程約2300キロの親父キャンプである。

深く真っ青な空が広がるラスベガスでモーターホーム(キャンピングカー)を借りてキャンプが始まった。 
モーターホームは、ソファー、テレビ、冷凍冷蔵庫・電子レンジを備えたキッチン、トイレやシャワーなども完備しており、大人五人がベッドで寝ることができる。キャンプ場のRVパークでは車に備えられた配管・配線を上下水道、電気のライフラインに接続することができ、不自由なく生活ができる。車両の左側をスライドアウトして室内を拡げることもできて、一つの家を丸ごと車にしたようなものである。

モーターホームと筆者

緑のないラクダのこぶのように連なる茶色の山々、ブッシュの平原、地平線まで続くまっすぐな道、赤い土の荒漠たる砂漠、西部劇で見ていた大自然の中を、この車で長駆した。ザイオン国立公園の迫力ある岩山、ブライスキャニオンの奇妙な形の土柱、アーチーズのリング状の巨岩、奇岩、妖岩、モニュメントバレーの大平原に土煙を上げるトルネード、アンテロープキャニオンの幻想的な洞窟、レークパウエルの群青色の湖、グランドキャニオンの深く巨大な谷と壮大な眺望、訪れた地の自然の作る不思議な造形は、日本にはない風景であった。 

砂漠に点在するネイティブアメリカンの質素な住宅からは、この国が長く抱える宿題も窺がえた。 5人の親父が自炊しながらアメリカの砂漠を疾駆した6日間だった。さて、今年の夏も、いつものメンバーでキャンプに行く。(09.8.24.投稿)
 


早慶戦の思い出
〜45年ぶりの「紺碧の空」〜

栗原政博(39政経)


★今年(09年)春の早慶戦第2試合で、45年振りに再会した先輩達と肩を組み「紺碧の空」を歌った。お互い想い起すのは、昭和35年秋の早慶6連戦だ。私が1年生の時だった

45年ぶりに再会した先輩と共に(左端が筆者)

★制服制帽に身を固めて春の早慶戦を体験した私は、一人前の早稲田マンになった積もりになっていた。秋のシーズンが始まるや待っていましたとばかりに、第1戦から神宮通いが始まる。なんと想像すら出来なかった驚異の6連戦が幕を開けたのだ。

★優勝決定戦からは、試合が終わると次の試合のために徹夜覚悟で並ぶ。翌々日まで続く日もあった。翌朝母が差し入れてくれた海苔巻きを仲間と分け合って食べた。着替えまで付いていた。思えば、親子で早慶戦狂いをしていたわけだ。

★興奮と感激が毎日毎日津波のように押し寄せてきた。授業のことなど頭から吹っ飛び、優勝決定戦からはひたすら神宮球場に居続けた。その頃早慶戦があると休講になっていた記憶がある。何時の頃からか、そんな扱いはなくなっているようだ。応援歌や校歌を仲間と共に声高らかに歌うたびに、早稲田マンであることを自覚し、早稲田大学への熱き想いを高めていった気がする。

★早稲田大好き人間に磨きが掛かったのは紛れも無く早慶戦応援からだ。卒業後は御多分に漏れず神宮から足が遠のいた。そして、仕事人間を卒業した2006年。秋の第1試合、小平稲門会行事としての早慶戦応援ツアーに初めて参加した。久し振りに学生内野席で応援し、早慶戦への想いが呼び覚まされたようだ。その後この行事には全て参加するようになる。応援ツアーの戦績は3勝2敗、雨天中止が1試合あった。これからもこの行事に参加し続けて行きたいと願っている。(09.8.22.投稿)



わが「野球博物館」
〜珍品コレクション〜


鳥井守幸(29法)


★私の野球グッズコレクションと永年の野球マニアぶりが「スポーツニッポン」(09年2月3日付)と多摩のコミュニティー誌「ほのぼのマイタウン」(2・3月号)で紹介された。

★「花嫁選手」「ホームラン狂時代」など映画ポスター、戦後復活第一回東京六大学野球のガリ版刷りメンバー表、少年雑誌付録のユニホーム型紙、日米の野球カード、野球切手など昭和20年代の”懐かしき時代”のグッズが大半。会員の提箸喜雄氏(29政経)に寄贈頂いたサンフランシスコ・シールズ戦入場券も貴重な”お宝”だ。自宅とは別のマンションの一室にこれらを飾っているが、取材記者が”私設野球博物館”と名付けてくれた。

わが“野球マンション”で筆者

★スポーツ紙に紹介されて間もなく、WBC大会で日本が優勝するとテレビ局から「シールズ資料の提供を」の申し入れ。ほかになぜ公開しない?マンションの所在はどこ?とわずらわしいほどの反応があった。

★グッズ以外にも内外の野球雑誌、野球史、野球本数百点を揃えている。早大関係では、「飛田穂州選集(1〜6巻)」、「野球人国記」(飛田穂州)、「早稲田大学野球部史、大正、昭和版」(飛田穂州)のほか、河野安通志、橋戸頑鉄、伊丹安宏、外岡茂十郎各氏らの著作も大事なものだ。安部球場での”お別れ試合”(昭和62年)のグランドの砂、ロージンバッグは、米大リーグ、レジー・ジャクソン選手の使いかけかみタバコとともに、取材記者を面白がらせた”珍品”だ。(09.8.20.投稿)



野球考
〜ベースボールと野球の違い〜


馬場正彦(51教育)

★昨今では大リーグでプレーする日本人選手が多数います。私は10数年前、サンディエゴにいる友人に「パドレス」に入団させたい日本人がいるので調べてもらいたい旨の依頼をいたしました。その時の返答は「パドレス」の監督が「直ちに見てやる。選手はどこに居るのだ。」との事でした。このような事は今では考えられません。それは、スカウトが日本に常駐しているからです。そのアメリカの国技であるべースボールと日本の野球の違いを少々述べたいと思います。

早慶戦の試合を前にした斎藤祐樹投手と僚友(08.11.2.)

★「ベースボール」と「野球」と言ったのには、それなりに大きな違いがあると思われるからです。まず、カウントがアメリカではボールからストライクの順で、日本は逆です。これはどうもアメリカは打者有利、日本は投手が有利と考えている向きが有ります。そして、打者はアメリカでは投手と一対一の戦いをして打ち崩す事を考え、日本の打者は何とかして、投手に数多く投げさせ、何とか塁に出る事を考えていると思えます。

★日本ではノーアウトでランナーが出ると、すぐに、送りバンドをしてワンアウトを取られても、スコアリングポジションに走者を送り、少ない安打で得点し投手力で逃げ、勝ちを狙う様に思われます。アメリカではワンアウトを取られることを望まず、打者が更に安打してくれるだろう。又、その次の打者も安打して、投手をノックアウトしてマウンドから引きずり降ろして、次の投手も打ちたいと思っている様にも思えます。アメリカは一人の打者が安打したものだから他の打者も打てるだろう。日本はそんなに安打は打てないと思っている様です。 

★スターティングメンバーでは、大リーグはシーズン初から終り迄だいたい同じメンバーで打順も変えません。七番、八番打者が三割を打ち、クリーンアップが二割六〜七分でもそのままシーズンを通しますが、日本では、7番、8番打者が3割を打っていると、6番、5、4番、3番と打順を上げたりします。それはまだベンチ(監督、コーチ等のスタッフ)が、選手の力量を見極める力がなく、自信もないからでしょう。 

★ヒットエンドランはどうだろうか。日本では難しいプレーなので、クリーンアップしか出来ないと思っています。アメリカではホームラン打者が少ない場合は、打者全員がヒットエンドランを使います。一塁ランナーは打たれた打球で必ず三塁迄走ります。一塁、三塁に走者を置き、更に、一塁走者と打者でヒットエンドランを行います。打者全員に走力が無いと成功しません。日本では、クリーンアップに走力がなくても務まりますが、大リーグでは走力のない選手はベンチにも入れません。  

★ファンはどうだろうか。日本のある大事な決勝戦で、投手が8回まで完全試合をしていました。9回になると投手交代が有りました。色々考え方は有るでしょうが、野球を良く知っているアメリカのファンは大ブーイングでしょう。日本のファンは大拍手でした。あんなすごい記録は今後いつ出来るのでしょうか。ファンの考え方でも日本はまだまだでしょう!(09.8.18.投稿)



私の戦争体験
〜千葉県松戸で迎えた3月10日の東京大空襲〜


滝沢公夫(30法)

★戦後64年目の終戦記念の月を迎え、未だに苦しむ広島・長崎の原爆被災者の姿を見るにつけ、核廃絶と反戦の誓いを新たにするこの頃です。私は幸い、危ういところで徴兵の年代からは外れましたが、戦時中のつらい経験の思い出は消えることがありません。

迫る食糧難と満蒙少年義勇団への友の参加

★戦時中、私は千葉県松戸町(現在松戸市)の国民学校に在籍していましたが、日を追って食料事情は悪化し、昭和20年の6年生当時には、弁当としては薩摩芋程度しか持参できませんでした。たまに蝗をとって、炒って持参することもありました。とにかくいつも腹を減らしていましたが、これは誰でも同じことでした。

★ある日、軍の上層部から、満州の前途洋々たることの説明があり、同級生数名が応募しました。そして、校庭で全校生徒による歓送会がありましたが、何となく胸騒ぎがしたことを覚えています。結局、戦後になっても行方不明となり、心に大きな傷を負ったままです。

空襲の恐怖

★松戸町は、千葉県といっても江戸川沿いで東京と接しています。毎晩のように東京が爆撃される轟音とともに赤い炎が立ち上がり、昭和20年に入ってからは、特に物凄く、寝ていられませんでした。3月10日の大空襲では、一晩中真昼のように明るくなり、世の末という感じで震えていました。

焦土(右上は隅田川、手前のドームは国技館) 焼夷弾で焼け野原に
1945年3月10日の空爆直後、米空軍が撮影 石川光陽氏撮影(当時、警視庁カメラマン)

★B29の来襲はひどく、近くの高射砲の発射と合わせて戦場のような雰囲気でした。それでも、翌日には爆弾等の破片を拾って、密かにコレクションのように持っていることもありました。

進学と学徒動員のつらさ

★昭和20年4月、私は柏町(現在柏市)の旧制東葛飾中学に進学しました。当時、常磐線は松戸までしか電車がなく、柏には汽車で通学しましたが、大変な混雑で客車には乗れず、主に炭水車の上に乗りました。途中でB29に機銃掃射されたこともあります。

★学校は軍事教官による教練が主体で、往復びんたを何回食ったか知れません。竹槍の訓練もありました。そのうち、軍に動員されて、茨城県取手町(現在取手市)の駅前にあった沼を、弾薬庫建設のために埋め立てるための工事にあたりました。毎日もっこ担ぎで大変苦しかったです。ただ、昼飯に、全く食べたことのない白米の握り飯が出たことは、唯一で最大の楽しみでした。

終戦と転校の混乱

★8月15日の終戦の日、これからどうなるのだろう、という不安はありましたが、それよりも、やれやれ今までのような苦労はしないで済むかな、という一種の期待の方が大きかったように思います。9月になって、余りの食料難のため、父親の出身地である長野市に転居することになり、私は旧制長野中学に転校しました。しかし、ここでも戦後動乱期で、しかも戦災も受けており、甘いものではありませんでした。

★相変わらずの食料難と、質実剛健の校風から、厳しい環境にはありました。教科書の墨塗りや蔵書の選別等嫌な経験や、新憲法の発布等の激動もありました。しかし、この中学での収穫も大きく、途中で新制高校としての長野高校に切り替わり、現在も東京で隔月に同期会を実施する連携の良さを維持しています。

そして小平へ〜平和への祈り〜

★昭和26年、私は早大第一政経に進学し(途中で第一法に転部)、同時に小平町(現在小平市)に転居しました。もうこの頃になると戦後の色彩は薄くなっていましたが、安保問題等で大荒れのこともありました。

★私の戦争体験は、従軍したり、戦災にあった人達に対比すれば、本当に生ぬるいものといえますが、私なりにある程度の苦労もし、戦争への怒りと平和への希求は強いものがあります。人間社会は、古代から戦争が絶えず、世界平和の達成が如何に困難かを感じさせられますが、唯一の被爆国である日本が、絶えず国際社会に働きかけ、積極的な役割を果たすことが真に望まれます。終戦記念月を迎えて、平和への祈りを捧げたいと思います。 (09年8月7日投稿)




私の戦争体験
〜64周年の終戦記念日に寄せて〜


松谷富彦(36文)

私の戦争体験の実感は、国民学校(小学校)の2年生から始まります。昭和19年11月14日の武蔵野市(当時は北多摩郡武蔵野町)の中島飛行機工場爆撃から本格的な米軍機の東京空襲が始まりました。「空襲警報発令」のたびに庭の防空壕に防空頭巾を被って駆け込み、空爆の地響きに息を殺す時間が次第に増えていきました。

父が中国大陸へ出征した後、幼い子供3人(長男の私と3歳の妹、そして生後間もない乳飲み子の弟)を抱えて世田谷の留守宅を守っていた母は、自分の実家がある岐阜に疎開を決意。私の2学期の終了を待って、母子4人は危なくなった東京を脱出し、安全と思われた岐阜に移ったのでした。  


昭和20年が明け、私が2年生の3学期に編入した疎開先の国民学校は、間もなく校舎の半分が兵舎に変わり、兵隊さんとの同居生活になりました。授業時間が少しずつ削られて、その分、栄養源確保のイナゴ獲りの時間が増えて行きました。「イナゴ3匹で卵1個の栄養がある」と先生に言われ、懸命に獲ったのを思い出します。

◆艦載機グラマンの機銃掃射とパイロットの笑う顔

★3年生になって2カ月ほどすると、教室の授業は点在する鎮守の杜での分散授業に変わり、小学生にも戦争の逼迫が肌で感じられるようになっていきました。このころ子供心にも心底「殺される!」と思った出来事が、64年経ったいまも鮮明に甦ってきます。

★鎮守の社の分散授業から下校するため、炎天下の藪川(根尾川下流の呼び名)の堤防道を歩いていると、警戒警報のサイレンが空襲警報に変わりました。身を隠す木陰もない場所から早く集落に辿り着こうと速足で急ぐ私の背後からプロベラ音が近づき、前方の河原に機銃掃射の音と土煙が走りました。

米軍艦載戦闘機グラマン6F6ヘルキャット
Wikipediaより転借

★思わず顔を上げると、藪川の川面に沿って艦載機のグラマンが超低空で飛び過ぎるところで、風防ガラス越しにパイロットが私を見ながら笑ったのがはっきりと分かりました。数機の編隊の1機でした。機銃掃射は、一人歩いている子供をびっくりさせ、からかうためだったのでしょう。ダダダダッという掃射音と線状に走る土煙に生きた心地のしなかったことと、敵機のパイロットが笑った真夏の情景が走馬灯のように浮かんできます。ちょうどいま小学4年生の孫坊主より1学年下のときの体験でした。

◆襲いかかる「B29」135機、岐阜市は灰燼と化す

 鎮守の杜の野外教室に通う日々が続いていた昭和20年7月9日夜遅く、空襲警報発令から間もなく東の方向の夜空が真っ赤に燃え、地鳴りのような音が連続して聞こえ始めました。私たち母子は、灯火管制で真っ暗な町並みから少しでも離れるために防空頭巾を被り、私は水の入った大きな薬缶を抱えて、はるか遠くに赤々と燃える空を背に夜道を野壷(肥壷)にはまらないように気を付けながら避難の流れに従っていました。熱気が東から襲ってくる中での逃避行でした。

★私たち母子が疎開していた町から東へ10数kmの距離に位置する岐阜市は、この夜135機のB29の空襲で文字通り灰燼に帰しました。資料によると米空軍は、東京、大阪、名古屋などの大都市、大工場の空襲が一通り終わり、標的を中小都市に向けた中でのオペレーションでした。ねらいは、@「こんな町までやられるようになっては」と国民の戦争意欲を喪失させること。A中小都市の産業の破壊――だったということです。

長距離戦略爆撃機B−29
フリー百科事典「ウィキペディア」から転借

◆記録が語る凄惨な地獄絵

★ 「B29から投下される焼夷弾による津波のような攻撃で全市が燃え上がるのはあっという間だった」と記録されています。その凄まじい様子を記したホームページ「岐阜平和通信」から「岐阜空襲のあらまし」の記述を少し引用させていただきます。

  <岐阜駅周辺への第一撃につづき、キラキラと花火のように降ってき、ドーンと鈍い地響きとともに一面に火のついた油を飛び散らす焼夷弾は、柳ヶ瀬(筆者注:市内有数の繁華街で美川憲一のヒット曲「柳ケ瀬ブルース」で知られる。)の周辺部、金神社、明徳国民学校周辺から真砂町や本郷町あたりに集中。この中を人々は西へ西へと逃げようとしたが、金神社の森は熱風に煽られて竜巻のように燃え上がり、凱旋道路も廊下に油を流したように地面に火が走り、道路を横切ることもできない状況になった。>

焦土と化した岐阜市街地(HP「岐阜平和通信」から転借)

  <直撃弾を受けて無残に即死した子供、背に負った瀕死の父親を捨てて逃げざるを得なかった青年、目が見えず遠くに逃げられず近くの防空壕に入って焼け死んだ人、…雷のとどろくような空の下を人々は必死に逃げた。>

都市空襲で焼夷弾を投下するB29
フリー百科事典「ウィキペディア」から転借

◆衣服が焼け焦げ、煤に汚れた被災者の列

記録によると、この夜の空襲による死者は約900人、負傷者約1200人、焼失家屋は全体の約50%の約2万戸、住む家を失った人は約10万人で市民の約60%にあたりました。

★夜が明けると、私たちが疎開していた町の東西に伸びる通りは、衣服が焼け焦げ、顔も手も煤だらけになった人々の疲れ果て、放心した姿の避難の列が途切れることなく続きました。それは1週間近くつづいたと思います。

★私たち母子が借りていた和菓子屋の奥の隠居部屋と庭続きに外科医院があり、焼夷弾で焼かれた若い女性の重症患者が収容されました。痛みを和らげる手立てもなく、「痛いよー」「痛いよー」と終日聞こえてくる患者の悲鳴。しかし、2日目、3日目と日を経るうちに絶叫は次第に小さくなり、いつの間にか聞こえなくなっていました。

 ◆広島と長崎に新型爆弾が落とされた!

★岐阜市の市街が瓦礫に変わってから1ヶ月後の8月6日、国民学校3年生の私は、大人たちが「きのうB29から広島に新型爆弾が投下され、街が全滅したようだ」と話しているのを聞きました。間もなく大人たちは、新型爆弾を「ピカドン」と呼ぶようになりました。たった1発で即死者約14万人、負傷者約27万人という人類初の惨禍を引き起こした原子爆弾の投下を私は最初にこんな形で知らされたのでした。

★そして、同胞の悲劇がこの1発で終わらず、わずか3日後、2発目の原爆が米空軍のB29によって長崎市の上空で炸裂、7万4千人の生命を一瞬にして奪ったことを「長崎にも新型爆弾が落とされた」という形で小学生の私は知ったのでした。(09年8月6日投稿)

原爆ドームの前に立つ筆者
59周年平和祈念式の04.8.6.撮影

[お断り]上記の2編に続いて、小平稲門会会員のみなさんから[私の戦争体験]の原稿が次々に寄せられています。このため新たに[いなほ随想特集 私の戦争体験]のコーナーを開設いたしました。私の戦争体験 をクリックするとページが開きます。



私のヒロシマ・ノート
〜64周年の原爆記念日に寄せて〜


松谷富彦(36文)

私たち日本国民は、人類史上初めて、そして唯一の原子爆弾被爆国の人間として、今年(09年)8月6日(広島)と9日(長崎)に64周年の原爆記念日(原爆忌)を迎えました。

★オバマ大統領は今年4月、訪問先のチェコの首都プラハでの演説で「アメリカは、核兵器を使ったことがある唯一の核保有国として、行動する道義的責任がある。核兵器のない世界に向けて具体的な方策を取る」と原爆を攻撃兵器に使用したアメリカの最高権力者として、初めて使用国の道義的責任を口にし、核廃絶を目指すことを約束しました。

★私は、5年前の04年8月6日、機会を得て広島を訪れ、59周年の原爆記念式典と原水爆禁止ヒロシマ大会に参加、改めて原爆の惨禍を実感しました。世界的に核廃絶の流れが加速することを願い、「ノーモア・ヒロシマ」の風化を懸念する一人として、5年前にしたためた“私のヒロシマ・ノート”を披露させていただきます。(写真は筆者撮影)

原爆ドーム 元安川越しに原爆ドームを望む

被爆モニュメントの前での違和感

★これまでにも仕事などで広島を訪れる機会があり、原爆ドームや広島平和記念資料館には何度か足を運んだ。原水禁ヒロシマ大会に参加する機会を得て、被爆モニュメントに再会した私は、少々違和感を感じていた。資料館の陳列が、訪れるたびにスマートになり、生々しさが薄れているような気がしたのだ。

★陳列されている惨禍の遺品の一つ一つの放つインパクトに変わりはないのに何かソフトになっている。私の抱いた違和感を解くカギが、2日目の夜に会った被爆者、下原隆資さんの話の中にあった。

資料館のごちゃまぜ人形 

★「みなさん、資料館に行かれたとき、原爆の熱線で皮膚のとろけた両腕を前に突き出した被爆人形を見たでしょう。私らは、あれをごちゃまぜ人形と呼んどるんですよ。爆心地から1,500b以内にいた人は、露出していた肌がどこもかしこも人形の腕のようにとろけたんです。人形は服を着ていますね。服が燃えなかったのは2,000b以上はなれた場所にいた人。あの人形の顔には、火傷がなかったでしょう。それは爆心から3,000b以遠にいた場合なんですよ。両腕が人形のようにとろけた被爆者は、顔も無残にとろけ、服は燃え、裸になっていたんです」

★あの被爆モデルの人形が資料館に陳列されることになったとき、下原さんら被爆者たちは人形の被害表現のごちゃまぜを指摘し、訂正を館側に求めた。   

「むごすぎたら見学者が来ん」  

★当時の館長は「ごちゃ混ぜは承知している。顔まで腕と同じように表現したら,むごたらしすぎて見学者が来んようになる」と答えたという。

★「そう言われて、私たちは引き下がりましたが、あれでもむごたらしいですが、ほんとうの被爆の姿はもっともっと目をそむける悲惨なものだったのです」とこめかみから唇にかけて大きな裂傷の跡を持つ下原さんは静かに説明してくれた。私が抱いた違和感は、そんなソフト化の配慮にあったのだ。   

心を捉える『ヒロシマー原爆の記録』  

★参加した分科会で、被爆直後の人々を36_フィルムで撮影した30分のビデオ『ヒロシマー原爆の記録』を見た。日本人カメラマンが写したこの生々しく、むごいフィルムの存在を知ったアメリカ軍は、ただちに没収したのだが、押収される前に密かにコピーされた一本のフィルムが占領から解放された後、関係者の努力で優れたドキュメンタリー作品となって、いまも多くの人々に核兵器の惨禍をストレートに伝えている。

★故宇野重吉の淡々としたナレーションで展開される被爆者の悲惨には、手が加えられておらず、そのことが見る者の心を一層強くとらえることを、ソフト化を配慮する人たちに訴えたい。悲劇をくりかえさないためには、悲惨から顔をそむけてはならないと思う。     

原爆死没者慰霊碑(奥に原爆ドームを望む) 原爆の子の像

歴史年表に風化させてはならない      

★私はいま、ヒロシマ、ナガサキを、日本が近代国家として大国ロシアに初めて挑んだ日露戦争とダブらせている。1904(明治37)年2月から1年2ヶ月余りの戦いだったが、戦力劣勢の日本軍が革命前夜のロシア軍の足並みの乱れに助けられ、辛うじて勝ちいくさとなった戦争である。

★日露戦争の終結59周年は、1964(昭和39)年、東京オリンピックが開催された年だった。そのとき28歳の私にとって、日露戦争は自分が生まれる遥かな昔、明治時代の歴史年表に風化していた。

★幸運な勝利で終わった日露戦争に較べて、世界初の原爆被爆の惨禍を体験したヒロシマの記憶は、いまなお生々しい。だが、歳月の経過の中で風化は確実に進んでいる。ヒロシマ、ナガサキが人々に痛みを想像させない歴史年表になったとき、過ちが再び繰り返されることを私は恐れる。  

★59年前の暑い夏の記憶は、ありのままを次の世代にかならず伝えて行かなければならない。その思いを改めて強くしたヒロシマへの旅だった。(04年8月13日 記)

59周年原爆記念日式典の会場を埋めた参加者たち(平和公園で)

被爆者の言葉から

◆ 山城光明さん(72歳)=中学1年(13歳)のとき学校に立ち寄り被爆。

★カタカナのヒロシマが、だんだん影が薄れていくような気がします。そして、漢字の広島になっていく。(被爆後の広島に使っている)カタカナのヒロシマを、戦後を終わらせようとするものが働いているとしたら…。雁垂れに黄と書く戦前の廣島に戻っていく、不気味な大きなものが動いていないでしょうか。『戦争が終わって59年過ぎた』という言葉を聴いたら『たったの59年しか経っていないじゃないか』と繰り返してほしい。

◆下原隆資さん(74歳)=中学3年(15歳)のとき爆心地から1500mの地点で被爆。被爆の1週間後に実家のある能見島に8人が戻ったが、下原さんを除く7人は間もなく死亡。

★「お前は放射能を出すから向こうへ行け」と言われる差別が10年続きました。大阪の会社に就職しようと面接試験を受けたとき、顔の傷跡のことを訊かれ、被爆したと答えたら「うつる」という理由ではねられました。就職だけでなく、結婚でも被爆者差別は続いたんです。

◆ 広島発言(平和行進ボランティアの男性)

★今年も原水爆禁止大会に子供たちが参加していますが、ヒロシマ行進でやって来る子供たちに休憩のために学校の施設を借りようとすると「学校は政治に中立でなければならないので、使用は許可できない」と断わられるケースが毎年増えています。平和教育が偏向教育と言われる時代になってきました。私たちすべてが被爆者と思った方がいいのです。放射能物質をすべての人が体に蓄積しているのですから。

<04年8月4日〜6日の広島平和集会で会った原爆被爆者、集会参加者の発言からメモした。>
                                                                (09.8.4.投稿)




〜わがまちの宝物〜
小平の母なる川『玉川上水』


西村 弘(35教育)

市内を東西に流れる玉川上水は、水の乏しい江戸の飲料水として開削された人工の上水道である。(今でも羽村から小平監視所までの12キロは上水道)、江戸幕府ができて50年後の1653年(明暦の大火の頃)に玉川兄弟により工事が開始され、わずか8ヵ月あまりの突貫工事だった。

玉川兄弟の像(羽村取水堰で)

★幾度かの失敗の後、ようやく多摩川の水を羽村で取水し、四ッ谷大木戸(新宿区)まで全長43キロ、落差92メートルをブルドーザーもショベルカーもない時代に大変な難工事であったと思う。世界に誇れるすばらしい土木工事であった。(2003年、土木遺産として国の文化財指定)


★この玉川上水の開削のもう一つの目的は、当時荒漠たる武蔵野原野に水を供給し、人が住めるようにすることでもあった。原野を開拓し、新田開発村をつくり、農業を振興し、年貢の徴収範囲を拡大することでもあったのだ。玉川上水の水は、江戸半分、分水半分と言われ、武蔵野台地に分水網(多い時には33分水)を張り巡らせ、人の住める条件を整えたのである。

多摩川の水を取り込む羽村取水堰(東京羽村市) 取水された水は堰の水門(手前)から玉川上水へ

★玉川上水が開削されてわずか3年後の1656年、小川九郎兵衛は、いち早く幕府に新田開拓の願いを出し、玉川上水からの小川分水の取水と開拓許可を得た。このことにより近くの狭山丘陵などから人が移り住むようになり、今の小平の原型ができあがった。伝説では、小川九郎兵衛が最初に開墾の鍬を入れたのが「石塔が窪」と言われている。鎌倉街道と青梅街道が交差するところから鎌倉街道を北に100メートルばかり入った所である。

★玉川上水は、まさに小平の生みの親であるともいえる。玉川上水には開削当時から上水路でもあり、清潔と美観を保つ上から、松や杉が多く植えられた。そして、享保年間、8代吉宗の頃、今の小金井橋を中心に延々6キロの区間に桜が植えられた。桜の葉や実に解毒作用があるとか、また、花見客に両岸が踏み固められ崩れを防ぐからともいわれている。また、一説には花見客で賑わうことで周辺新田村の繁栄につながるからともいわれている。天保年間、第11代将軍家斉の観桜もあって以来関東随一の桜の名所にもなった。

★350年たった今では、かっての面影が無くなり雑木が生い茂る状態になった。しかし、今でも開渠のまま残る羽村から杉並の浅間橋までの30キロの部分は、雑木林と水が動物・植物の生活空間として生態系が良く保存されている緑の回廊(コリドール)である。特に、小平部分は、その状態が比較的多く残っているところである。

取水堰から東京都水道局小平監視所まで12kmを流れてきた
上水道用水は、水道管で東村山浄水場へ。小平監視所から下
流の玉川上水は、多摩川上流下水処理場で処理された中水道
用水を放流し、都心へ向かう。(写真は小平市中島町の放流点)
小平監視所放流点の上水小橋から玉川上水の下流を望む


本稿の写真は、松谷富彦さん(36文)提供

★春は、淡い薄緑の美しい若葉の中。夏は、濃い緑と変わり、強い日の光を遮り、ひんやりとした空気が流れる。秋は、紅葉、落ち葉、木漏れ日の中をカラカラと落ち葉を踏みしめる。冬は、雑木林は葉を落として冬の寒風にさらされながらも木枝は健気に揺れている姿。四季折々に、私たちを楽しませてくれ、玉川上水沿いの道を歩けば四季折々に新しい出会いがある。
多くの市民の皆さんが憩いや健康づくりや交流の場として、楽しんで利用しているところである。何回訪ねても、飽きることはない。その都度、新しい発見があるところである。まさに、我が町の宝物である。(09年8月1日投稿)



万葉集の魅力



滝沢公夫(30法)

★私が万葉集の虜になったのは、今から15年近く前、第一・第二の職場を退職し第三の職場に移った頃でした。直接のきっかけは、所属していた短歌研究会でテーマとして取り上げたことと、高校時代の同級生に同好者が居たことが大きな要因でした。丁度その頃は、仏塔巡りにも積極的に取り組んでいて、両者掛け持ちの多忙さを感じながらも、大変やり甲斐もありました。当時ほどではないにしても、現在も引き続き愛好し続けています。万葉集関係の所蔵書籍も増えてきて、既に200冊近くになってきています。
 

[蒲生野](滋賀県)

あかねさす紫野行き標野(しめの)行き野守は見ずや君が袖振る (額田王 巻1−20)

むらさきのにほへる妹(いも)を憎くあらば人づまゆえに吾恋ひめやも (大海人皇子 巻1−21)

Oこの両歌は、天智天皇の妻である額田王と、後の天武天皇である大海人皇子が、近江の蒲生野での薬狩り行事の際に交わしたものといわれる。現在、この付近は歌碑等が良く整備されている。

★万葉集は、全20巻に4,516首を収録していますが、時代としては、一部に仁徳天皇の皇后・磐姫の古い歌もあるものの、概ね舒明天皇の629年頃から、大伴家持の759年頃までの約130年間の歌が収められているとみられます。

★今から1,200年余り以前のこれだけの歌が収録されている歌集は極めて異色であり、大変貴重な文化遺産だと思います。作者は、天皇から庶民に至るまで層が大変厚く、また各巻はそれぞれ内容に特色を持っています。また、地域的には、東国から筑紫までに及び、全国の大半が舞台になっております。

[佐保路・佐紀路](奈良県)

かくばかり恋つつあらずは高山の岩根し枕(ま)きて死なましものを  (磐姫皇后 巻2−86)

O仁徳天皇の妻である磐姫皇后は、嫉妬深い人であったといわれるが、強い愛情の人でもあった。付近には古墳や古寺が多く、歴史を感じさせる。

[安騎野](奈良県)

東(ひむがし)の野にかきろひの立つ見えてかへり見すれば月西渡(かたぶ)きぬ (柿本人麻呂 巻1−48)

O当地「かぎろいの丘公園」からの展望は素晴らしい。早朝の日の出と月の入りの素晴らしい情趣を歌ったものといわれる。

[二上山](奈良県)
うつそみの人なる吾や明日よりは二上山(ふたがみやま)を兄弟(いろせ)とわが見む 
                                       (大来皇女 巻2−165)

O天武天皇の子である大津皇子は、文武ともにすぐれていたが、密告により処刑され、大阪府との境界に聳えている二上山に葬られた。伊勢の斎宮であった姉の大来皇女が、嘆き悲しんで歌ったものである。

★最終歌「新(あたらしき年の始(はじめの初春の今日降る雪のいや重(吉事よごと」(巻20−4516)が大伴家持の作であることから、同人が全体を編集したものともいわれています。しかし、以降の歌が全く無く、突然沈黙していることに、大伴家持のその後の多難な境遇と併せ考えると、大変疑問も生じてくるところです。

[足柄山](神奈川県)
足柄の御坂(みさか)に立(た)して袖振らば家(いほ)なる妹は清(さや)に見もかも (作者不詳 巻20−4423)

O古代の東海道は足柄山越えであった。九州に旅立つ防人が、故郷を偲ぶ痛切な気持ちが伝わってくる。

★内容的には、概ね雑歌、挽歌、相聞歌等に分けられますが、天皇礼賛がある一方、庶民の生活、恋愛、自然等しみじみと胸を打つ歌が大変多いと思います。巻14の東歌の方言を含んだ情感たっぷりの歌、巻20の防人の家族への想い等は特に感動的だと思います。総体的には、ますらおぶり、素朴、純情等、その後の古今集等と大いに異なった歌風のものとなっております。中でも、恋歌が全体の7割近くに上っており、涙の出るような切々たる歌が多いのです。

[多摩川](東京都)
多麻川にさらす手作(てづく)りさらさらに何ぞこの児のここだ愛(かな)しき  (東歌 巻14−3373)

O現在も、青梅から狛江まで「調布」という地名があるが、多摩川は手織りの布を晒す場所であった。この歌は、布を晒す女性を愛情深く歌いあげている。歌碑は小田急線和泉多摩川駅近くにある。

[葛飾の真間](千葉県)

葛飾のままの入江にうちなびく玉藻刈りけむ手児名し思ほゆ (山辺赤人 巻3−433)

O二人の男に愛された、手児名という乙女の悲劇を歌ったもの。京成市川駅近くに手児名堂や歌碑があるが、古代はここまで海であったようだ。

★地域的には、大和周辺、山陰、越中、筑紫、東国等に分けられますが、やはり大和周辺が圧倒的に多くなっているのは当然とも言えましょう。万葉の故地には石碑等の表示が整っている場合が多く、探し当てるのは比較的簡単ですが、石碑そのものには何の価値もないでしょう。ただ、その地に立って遥かな万葉時代を偲ぶことで、胸の熱くなるような感動を味わうことができるのです。

[筑波山](茨城県)

筑波嶺に雪かもふらる否をかも愛(かな)しき児ろが布(にの)乾さるかも (東歌 巻14−3351)

O筑波山周辺の万葉歌は大変多く、万葉の里といえよう。現在の石岡市には常陸国府もあった。山頂も
山下も情緒深く、歌も素朴・純情である。

[高麗の里](埼玉県)

高麗錦(こまにしき)紐解き放()けて寝()るがへに何どせろとかあやに愛(かな)しき (東歌 巻14−3465)

O西武秩父線高麗駅から、彼岸花で名高い巾着田を目指していくと、巾着田の中央に歌碑がある。際限のない愛の切なさを歌い上げていて、心を打つ。

★私が訪れた場所はほんの一部にしか過ぎないのですが、現地に立ち、風土に接することにより、その時代に戻ったような、本当にしみじみとした感慨または感傷に耽ることができます。また、気分的にも、若々しい感覚を維持できるように思うのです。(09年7月3日投稿)

カンボジアを旅して
〜首都プノンペンとアンコール遺跡〜


中村泰三(41理工)
★カンボジアの首都プノンペンと世界遺産のアンコール遺跡のあるシェムリアップを今年(09年)3月に訪ねました。日本からの直行便はなく、ソウル経由の大韓航空でプノンペン入りし、シェムリアップからソウル経由で帰国。私にとって、気の置けない仲間4人での5泊6日の楽しく、有意義な旅でした。かんたんな旅行記です。

カンボジアの概要
面積 18万平方キロメートル(日本の約半分)  元首:ノドム・シアヌーク国王  首相:フンセン
人口 約1310万人(2003年)  宗教:約95%仏教徒 その他イスラム教
(クメール人90% ベトナム人5% 華人 1%)    言語:クメール語  雨季5〜10月乾季11〜4月

行動メモ
3/7(土) 成田発(13:55) ソウル経由プノンペンへ(KE704/689便) プノンペン着
22:40 (所要時間9時間45分)日本との時差2時間
3/8(日) プノンペン市内観光 シルバーパコダ、ワットプノン そしてポルポト虐殺で有名
なトゥール・スレン博物館等を見学
3/9(月) シェムリアップへ 高速バス(バス代$12)で移動  ホテル移動後
トンレサッフ湖の水上生活及び市内観光 
3/10(火)〜3/11(水) アンコール遺跡の観光
3/11(水) シェムリアップ発(22:40) ソウル経由成田へ(KE688/701便)  成田着3/12(木)
11:30  (所要時間:10時間50)

<カンボジア入国:首都プノンペン>


★深夜11時過ぎにプノンペン空港に到着、街中のホテル(ホリディヴィラ)まで20分程度、チェックイン。
無事到着を祝い、且つ明日からのカンボジアの旅が幸あることを祈念して祝杯。

王宮 独立記念塔
元首のシアヌーク国王の住まい 1953年、フランスからの独立を
記念して建てられた。

カンボジアあれこれ(1)

・1953年11月フランスから独立(シアヌーク国王時代)
・その後1970年代にポルポト政権による社会システムの破壊(3年8ケ月:200万近くの人々が犠牲に)
・ベトナム軍の侵攻とカンボジア内乱、そして国連UNTACの活動による和平の実現(自衛隊の初めての
 PKO参加)
・現在のカンボジアは社会的に落ち着いており、アンコール遺跡を求めて多くの外国人が訪問している。

メコン川の落合 国立博物館
トンレサップ川との合流点。雨季・乾季でトンレサップ川
の流れは反対になる。
シルバーパコタと称する国立博物館はクメール芸術の宝庫

<アンコール遺跡のシェムリアップ>

★3日目にプノンペンからアンコール・ワットを始めとしたアンコール王朝の栄華をしのばせる数々の貴重な世界遺産のあるシェムリアップに高速バスで約6時間の移動。国道ではあるが舗装はなく両側は延々と続く農地または牧草地、所々に高床式住居の集落が見られた。また道行く自動車は屋根上まで多くの人が乗り、バイクには5~6人も乗っての定員オーバー、カンボジアでは常識、我々はこの光景にびっくり。

★ここアンコール遺跡は、19世紀の中ごろフランス人によって発見されたが、9世紀から約600年もの間、インドシナ半島全域に栄華を誇った王朝であり大寺院がほとんど手付かずのまま今も密林の中に埋もれており、その広がりはカンボジア一国に限らずタイにもラオスにもベトナムにもクメール王朝の世界遺産が幾つも点在している。


アンコール・ワット(アンコール:都市 ワット:寺院)

・12世紀前半スーリャヤヴアルマン2世が建立したヒンズー教寺院で王の死後に仏教施設に。
東西1.5km 南北1.3km。三重の回廊と5基の塔を持ち、回廊周壁にはスーリャヴァルマン2世のクメール軍や天女アプサラを描いたレリーフがある。


アンコール・トム (アンコール:都市 トム:大きな)

・チャパ軍を撃破したシャヤヴァルマン7世によって12世紀末に築かれ、環濠と城壁に囲まれた城砦都市(環濠は大海、 城壁はヒマラヤ聖峰を表す)東西3km 南北3km.。アンコールトムの中心にあるバイヨン(Bayon)は仏教寺院、仏塔: 49、四面像:196(観世音菩薩、クメールの微笑みと言われている)

10基の仏塔 トンレサップ湖
聖池にも仏塔が写る有名なアンコールワットの光景 雨季に琵琶湖の30倍になる世界一の湖の水上生活
者の集落

バイヨンの微笑  自然の猛威
アンコールトムのバイヨンの観世音菩薩
(京唄子に似ている?)
ガジュマルが石にからみつき石を食べる猛獣
のようだ。

カンボジアあれこれ(2)

 ・田舎は高床式住居 電気/水道なし 子供は裸足
   ・教育6・3・3制 午前と午後の2交代制
   ・街全体がホコリッぽい、道端にゴミの山多し、何しろ余りに汚い感じ
   ・蛇・蟻などを食べる(日本の蟻と違い食用のあり、我々も食べたが食感なし、只びっくり)
   ・畑や田んぼで水牛を見かけるがかなり痩せている(食料に問題ありか?)
   ・日本語にもなったカボチャ、うどん(プノンペンの近くにウドン町がある)が有名
   ・3月と言えども暑くて湿気が多い(40度 90%程度)。ホテル内の冷気(20度)との差で体力消耗


朝日のアンコールワット 女神アプサラのダンス
朝日に映える仏塔 カンボジアの有名な踊り。指先を後に反り返したり、
片足のポーズに特徴がある。

カンボジアの旅を終えて

★なぜ1000年前に暑く雨季と乾季の此の地にアンコール遺跡が作られたか?現地を訪問して改めてどのようにしてこのような精巧なしかも構想力あふれた寺院が建設されたのか。このプロジェクト・リーダは、どんな人物だったのか。非常に興味のあるところであった。
  
★南の国カンボジアの地で地雷処理のため日本人が活躍している。また、アンコールワットの修復に従事している上智大の関係者も含め世界のあちこちで活躍する日本人が多く居る事を改めて知った。

★カンボジアを訪問するならば温暖な12月末〜1月末までの約1ケ月がお薦め。

★アンコール遺跡の理解には「ブラフマー神、シヴァ神、ヴィシュヌ神等のヒンドゥーの神々」と「ガルーダやマカラ等の架空動物」に関するクメール文化をちょっとかじって出かけるのが望ましい。

★4日目ぐらいから腹痛と下痢に悩まされた。暑さにやられ体力消耗した所で氷入りのビールの飲み過ぎが原因?(帰国後65歳の1人が腹痛と下痢、1人が下痢。病原菌はO1でした)。
  
★今回のツアーは男仲間4人の旅、ガイドを独り占め、ワゴン車1台であっちこっちと思いのまま。しかも気の合う男4人組、更に出張報告の義務のない旅は最高でした。(09年6月10日投稿)                            



イギリス公務員の公僕精神と大らかな社会保障制度
〜ロンドン駐在3年の私にも年金をくれる懐の深さ〜



小川浩史(35法)

★イギリス勤務を終え、1983年に帰国してから早くも26年。当時の邦銀ロンドン支店の次長仲間との付き合いは、帰国後もゴルフ、新年会などなど現在も続いている。著名人も多く、会合での話題には毎回事欠かない。

★3〜4年前の新年会でのこと。イギリスの公的年金が話題になり、出席者の一人が、すでにイギリスからの年金を受給している、と報告があった。この発言から、短期居住の外国人でも条件さえ揃えば、イギリス国の年金が受給可能と判明、居合わせたみんなで、それぞれ申請してみようということになった。

★申請先のイギリス社会保険庁の窓口は、確認できたが、肝心の社会保険番号が不明である。仕方なく、当時のことを思い出して書いた手紙を社会保険庁に送った。内容は、勤務した金融機関名、ロンドン滞在期間、時期、当時の住所、配偶者名など、それにイギリス国の運転免許証、入国査証などのコピーを添付し、「残念ながら社会保険番号は判らない」旨を書いたのである。

英国社会保険庁に出した照合状

★手紙の中で配偶者名を書いたのは、場合によっては私本人だけでなく、配偶者も受給対象になることもあると聞いたからである。また、イギリスの運転免許証は、満70歳まで書き換えなしで有効であり、かつ写真の添付もない。やれ車検だ、免許の更新だ、と行政の関与の多い我が国とは大違いである。

★欧米人の場合、確認事項はレターが通常であり、日本人のように口頭の約束で「言ったではないか」「言っていない」などのトラブルはない。現地雇いの社員が、年初、夏休みの休暇予定表を文書で提出するお国柄だ。

★とは言え、出したレターの効果に確信はなかった。ところがである。待つこと3か月で「年金番号が判明した」と大量の年金受給申請書類、説明書が送り付けられ、「早急に申請をしてほしい」旨の文書を入手したのである。さすがは、社会保障の先進国だ。短期居住の非居住者の保険番号、納付保険料の総額、加入期間まで見事に記録が保管されていたのである。

★20年以上も前の話なので、コンピューター化されていたかどうか疑問だが、昨今の日本の社会保険庁の管理体制との違いを見せつけられた。それにしても日本の役人は、何と怠慢なことか。

★申請のための添付書類に出生証明書があったが、日本では出生地の市役所、区役所、町役場が証明書を出すシステムになっておらず、やむを得ず戸籍謄本上の出生日を公証人の認証を受け、なんとか添付した。

★申請してから待つこと4か月。加入期間わずか3年で年額20万円の付加年金の受給が認められた。しかもイギリス社会保険庁から「大変恐縮なことではあるが、すでにあなたの年金支給開始年齢が65歳をオーバーしているので、本来65歳から支給すべきところを2年前に遡って2年分の一時金を支給させていただく」とのことだった。

★ちなみにイギリスでは、通常の年金は加入期間11年以上の加入者に65歳から終身支給される。付加年金とは、加入期間11年未満の加入者に給付される日本でいう加給年金のようなものではないだろうか。日本の厚生年金で、加入期間3年の人に果たして受給開始年齢に年金が受けられるように準備、手当てされているかは、大いに疑問である。

★なお、受給開始に当たっては、「何かクレームとか不明なことがあればお尋ね下さい」と担当者のメールアドレス、FAX、Tel、名前が付記されていた。彼の国のような責任体制の明確さ、受給資格者へのそれだけの対応が、果たして日本の社会保険庁でできるだろうか。現状を見るにつけ、イギリス並みの対応ができるとは考えられない。

★在勤、居住期間3年でもイギリス社会保険庁から年金が受給できるようになった、とかつてイギリスで勤務した人たちに大いに宣伝し、何人もの人から感謝されている。

[写真説明]左はイギリス在勤中、家族と暮らしたロンドン南郊外サリー州チームの借り上げ住宅前庭に立つ26年前の筆者。右は家の前の道路。

◆大きな家で、前庭だけでも100坪以上、裏もテニス・コートが2面取れるくらい広い芝生の庭で、芝刈りが大変でした。庭の芝刈りにまつわる話は、[海外ゴルフ場面白話ー芝生の上から世界経済を覗けばー](第6集イギリス編)に書きましたので、ご興味がおありの方は覗いてみて下さい。題名をクリックするとページが開きます。

★最近の事例をもう一つ。ある大手商社のOBで66歳の方であるが、イギリスからの支給OKの年金額が少額であったこともあり、お世話になったイギリスの何らかの公共施設に寄付したい、と申し出たところ、逆に「支給開始年齢を1年超えて加入期間は終了しているが、年金の受給資格の11年に足らない期間分を一括拠出(本人の場合は60万円だったとのこと)してくれれば、年間100万円の公的年金を支給します」との回答があり、本人は大喜びだった。イギリスの役人は、弾力的になかなかやるものである。裁量権ありである。日本の役人では無理だろう。

★ロンドン次長会の連中の在京ゴルフ・コンペは、春秋2回だが、原則としてイギリスからの年金受給者となった者は、強制出席となっている。年金の支給額で年2回のコンペ代は、おつりがくるからである。
(09年5月4日投稿)


エベレスト街道へ



大屋元治(30商)

★やっぱり素晴らしい眺めでした。6,000m級の山々の間を流れるドゥードゥコシ川沿いにルクラから3日かけて、エベレスト展望の村クムジュンまで登った甲斐がありました。

★ボクは「山屋」ではありません。小平稲門会の「歩こう会」と「楽農会」にお世話になった154cm、45kgの小物です。されど、富士山の次は見るだけでもと、昨年(08年)10月、エベレストを遠望してきました。

★旅行社の9日間のエベレスト街道ツアーに参加。08年10月21日に成田空港を飛び立ち、22日バンコク(タイ)泊
23日ネパールの首都カトマンズ泊→24日早朝、小型飛行機でヒマラヤ登山の基地の町ルクラへ。飛行時間30分で小さな空港に到着、休む間もなくドゥードゥコシ川沿いに“エベレスト街道”のトレッキング開始です。

★街道と言っても道幅は人がやっとすれ違える程度の山道ですが、この地域の人々の生活道路で危険な個所はありません。むしろ、子供のころの風景や人々の生活ぶりを懐かしく観察しながら、楽しいハイキング気分でした。とは言え、川の両側は絶壁が続き、前方も山また山。

★カトマンズをスタートした初日(24日)は3時間、2日目(25日)は6時間、3日目(26日)3時間、合計12時間のトレッキングで、シェルパの村、クムジュンに辿り着きました。クムジュンは標高4000m(富士山よりも高い!)の高原状の場所にあり、突然視界が開け、エベレストを含む8000m級のヒマラヤの山々に感激の対面を果たしました。

★次は、大隈老侯の125歳に挑戦です。そのためには「活動」することが大切かと。湯河原に移ってから、カラダの方は素人テニスと農作、アタマの方は英米誌3誌、キモチの方は小学校でボランティアです。

★「力むことないジャン」そうですね。でも、これは大好きな“進取の精神”なりと思っています。

★「管理人」さんから、「山々や土地の風物写真を付けてほしい」という注文でしたが、ボクは山にはカメラを持って行きませんので、お応えできません。今月(09年3月)、エベレストにいっしょに出かけたメンバーが集まった「エベレスト写真交換会」に出席した際に頂戴した集合写真だけです。ボクにとっては、ヒマラヤの山々をバックに撮った唯一の証拠写真という次第です。(09年3月17日投稿)

エベレスト・ビュー・ホテルで(前列右から2人目が筆者)
2階建てロッジ風のホテルの経営者は、日本人でした。

仏塔の魅力



滝沢公夫(30法)

五重塔・三重塔・多宝塔の魅力に取り付かれてから既に20年になる。その間、全国に500余り存在する塔のうち、270ばかりを回ったが、余命から考えて、全てを回ることは無理なので、今後は歴史のある木造塔を中心に回り続けたいと考えている。

青竜寺・五重塔(本州最北端の仏塔)
青森県青森市

塔の魅力とはなんであろうか。一般的には次のようなことがあげられると思う。

・第一に、野山や町中を散策中に、遠くに望み、または近くに不意に現れる時の心のときめきや文学的アプローチの印象や感動がある。

・第二に、塔の全体的な形態、軒の出方や傾斜、下層から上層への逓減、軒下にある組物や各種の彫刻、塔身と先端部の相輪とのバランス等、建築学的・構造学的要素を観察する楽しみもある。

・第三に、本来、寺の中心的な建築物であった塔は、寺では最も信仰の対象として重要なものであり、建築した宮大工の心意気と祈りも痛感される点である。1,000年先まで見通して建築し、地震にも極めて強いことには頭が下がる。

ところで、塔の意義を考えてみると、もともとインドにおける釈迦の骨、すなわち仏舎利を祀ったスツーパ(日本では卒塔婆という言葉で残っている)を起源としており、これが中国に渡ってレンガ積みの塔や石の塔、或いは古来の楼閣建築と結合し、さらに朝鮮の、日本の塔の様式に近い石の塔を経て、日本に渡ってからは、豊富な木材を使った木造建築としての五重塔・三重塔、或いは聖武天皇時代の各国国分寺七重塔のような多層塔となったものと思われる。

また、平安時代の最澄・空海により開かれた天台・真言両宗を中心として、二重塔のような形をした多宝塔(これは全国に100余りある)も建立されるようになった。ただ、古来の木造の塔については、火災による焼失が多かったこともあり、特に終戦後に建築されたものには鉄筋コンクリート造りのものが多くなり、中にはガラス繊維入りセメント造りのものも見られるようになってきている。最近では、信仰の対象ではなく、金力の象徴としてのものも増えてきており、眉を顰められる面もある。

那古寺・多宝塔(県指定重要文化財) 性海寺・多宝塔(国指定重要文化財) 石山寺・多宝塔(国宝)
千葉県館山市 愛知県稲沢市 滋賀県大津市


塔のうち、国宝や国・都府県・市町村指定の重要文化財は、全体の半数程度となっており、うち国宝は1割弱となっている。 建立時期をみると、江戸と昭和が3分の1づつとなっており、焼失しないで現存している最古のものは、奈良時代前期の白鳳時代における法隆寺五重塔と法起寺三重塔となっている。

薬師寺・東塔(国宝) 法隆寺・五重塔(国宝) 東寺・五重塔(国宝)
奈良市 奈良県斑鳩町 京都市南区
室生寺・五重塔(国宝) 醍醐寺・五重塔(国宝) 長命寺・三重塔(国指定重要文化財)
奈良県室生村 京都市伏見区 滋賀県近江八幡市

宗派的には、塔を建てるのは密教が比較的多いため、真言宗が3分の1を占めて最も多い。また地域的には、近畿地方が3分の1を占めて一番多い。境内における配置は、本堂と塔が横に並んでいる、いわゆる法隆寺方式や、本堂と塔が縦に並んでいる四天王寺方式等がある一方、塔が本堂または回廊から離れた場所に出ていて、信仰の対象よりも、いわゆる装飾物的に建てられているものが、徐々に増加していきているという推移もみられる。

前山寺・三重塔(国指定重要文化財) 真禅寺・三重塔(国指定重文) 法華経寺・五重塔(国指定重文)
長野県上田市 岐阜県垂井町 千葉県市川市

塔の見方、楽しみ方については、3つの事項を冒頭に記したが、私はどちらかというと、総てを総合的に見る考え方である。ただ、この点は人それぞれに異なって当然だ。しかし、インドで発祥した当初の考え方のように、仏舎利を祀ったスツーパの部分、即ち日本の塔の相輪といわれる本体構造物の上部に突き立っている棒状の部分が最も重要であることを忘れてはならないと思う。(09年3月9日投稿)

安楽寺・三重塔(県指定重文) 法用寺・三重塔(県重文) 光前寺・三重塔(県重文) 西方寺(定義如来)・五重塔
埼玉県吉見町 福島県会津高田町 長野県駒ケ根市 宮城県仙台市

嗚呼、早稲田大学医学部ありせば



長町雄吉(31商)

★医学の道か、敬愛する早稲田か。親父は開業医。たった1人の兄は、さっさと早稲田へ(18商卒)。兄への対抗意識がことのほか強かったせいか、私も迷わず早稲田進学の道を選んでしまった。後継ぎを失った、いまは亡き親父の落胆した顔を、いまでもはっきりと覚えている。おふくろや姉、妹たちからは、親不孝者となじられ、肩身の狭い思いをしたのを思い出す。

★憧れの早稲田大学に医学部があったなら、まったく躊躇わずに自分の全力を傾けて入学を許さるべく猛勉強をしただろうと何度思ったことだろう。何かにつけ年上の兄上位という昔風の家庭に育った私は、知らず知らずのうちに兄に対するジレンマを感じていたのだった。

★でも、親の意に反して選んだ早稲田大学への道を、私は絶対に後悔していない。皮肉にも“親不孝”をしたお陰で多くのよき校友と廻り合うことができたのだから。年齢を重ね世間の余計者と思われる身ながらさまざまな行事に温かく誘ってくれる校友諸兄に感謝しつつ、中国雲南省、モンゴル草原バス旅行、そして、昨年はトルコ、アゼルバイジャンでカスピ海最高のキャビアを食べる旅へ。

★いま思えば、私がもし早稲田を卒業していなかったら、上記のような貴重な経験はできなかったのではないか。親不孝がもたらしてくれた幸いというべきか。力量不足の私には、世間に対して役に立つ何もない。せめてお世話になっている地域社会の、とくに校友の諸兄に微力ながら役立ちたいと思っている。

★医学の道を選ばなかったことが、私の最高の人生になるとは、不思議なことである。心から誇りに思う「世界の早稲田」に1日も早く医学部設立が実現すること、これが私の最大の願いである。あちらを立てればこちらが立たず、かような道を辿ってきた男ひとりありき、です。(09年2月6日投稿)




♪BGM:[田舎道]composed & arranged by Ripple♪

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