いなほ随想

モンテンルパ死刑囚との交流の思い出
戦犯死刑囚たちの恩赦から60年の歳月が過ぎて

モンテンルパ刑務所
wikipediaから転借

井垣 昭(36法)

まえがき

★「マニラの首都圏モンテンルパ。古城をおもわす白亜の建物は、フィリピン最大の刑務所の玄関である。広大な敷地の一画に、この地で処刑された17人のBC級戦犯の霊を慰める碑や塔が並ぶ----。17人が処刑された一方で死刑囚56人を含む100人余の受刑者は1953(昭28)年7月当時のエルピデイ・キリノ大統領の恩赦で帰国した-----」 こんな書き出しで「フィリピンとの戦後、赦しの文化に甘えて良いのか」と題した記事(平成25・8・17付朝日新聞、ザ・コラム欄)が目にとまった。

★この戦犯死刑囚たちの恩赦から60年の歳月が経つ。当時高校生だった私と戦犯死刑囚との交流は、喜寿を迎えた今も私の胸から消えることはない。

★私が高校生になった昭和26年、当時の日本は講和条約が結ばれてようやく敗戦から立ち直りかけた時期であった。戦争犯罪を裁く東京裁判も横浜裁判も終わっていたが、比国ではまだ裁判は続いていた。すでに判決を受けたBC級戦犯死刑囚73名と有期刑囚49、計122名の戦犯が、首都マニラの南西30キロのモンテンルパという小さな村にあるニュービリビッド刑務所に7,000人の比国一般囚人と共に収監されていた。

モンテンルパ(ニュービリビッド)刑務所
有期刑囚だった藤田さんが制作した版画

突如14名の死刑が執行された

★これより先、昭和24年に戦犯死刑囚の教悔師として日本政府の命を受けてモンテンルパに派遣されたのが、後に「モンテンルパの父」と呼ばれた加賀尾秀忍師だった。加賀尾師は真言宗僧侶で高野山東京別院の副主監をされていた。師の赴任時、すでに3名の死刑が執行されていたが、その後は執行もなく、死刑囚の間では減刑・恩赦への期待も生じ始めていた。その空気を一変させたのが、昭26年1月19日、突如として行われた14名の死刑執行だった。

加賀尾秀忍師
戦犯死刑囚の寄せ書きといっしょに
筆者に送られてきたサイン入り写真

★この14名の死刑囚のうち13名が「中村ケース」と呼ばれた比・セブ島の北端の小島で起きた殺人・強姦・焼打などでの起訴だったが、13名中少なくとも6人は確実に無実であったが、その主張は容れられず、死刑の判決を受けたと言われる。

★19日朝、突然呼ばれて一室に集められた14名は、加賀尾師とキリスト教教誨師ネルソン師の立会のもと、点呼、遺言を残したあと、午後9時からの執行を待った。加賀尾師は当時心臓病を患い体調不良であったが、日本人の眼で直接その様子を見、見送りたいと申し出て、刑場に向かう一人一人に付き添い最期をみとった。最後の一人が13階段を上がったのは午前3時、6時間に亘る執行だったという。その様子は加賀尾秀忍著「モンテンルパに祈る」(昭28・富士書苑)に詳しいが、無実の罪で散らねばならなかった一死刑囚の様子を書きとめておこう。

未来ある35歳の無実・無念の死

★三木巌陸軍獣医中尉は、セブ市に駐屯した旅団の獣医部に所属していたが、他島に移動するための先発隊としてパナイ島に居た。それが400キロも離れた村で起きた残虐事件に関係ありとして、被害者と称する女性から捕虜収容所で指差しされ、起訴された。裁判中に証人として出廷した女性は先の「指差し」女性とは別人だったといわれ、弁護側証人の師団参謀の余すところなき無実の証言にも拘わらず認められずに死刑の判決を受けたという。

★「獣医、三木巌さん。この人もまた、裁判の再審査では必ずや無罪―と自他ともに信じられていた一人でした。三木さんは、やはり、最後の関頭に立つ一瞬も、裁判のことが、痛恨事だったようです。刑場へのジープのなかでも、ネルソン師に対して、無実の罪で死なねばならぬ憤りを訴えておられるのを、ハッキリ私は耳にしました。私に手をとられた三木さんは、車から降り立つと定めの席で医師から型のごとく検診を受け、絞首台に向かって屹立した。準備がスッカリ整うころネルソン師と私に向い、「先生、お世話になりました」と丁寧に挨拶の言葉を述べられました。「三木さん、しばらくの眠りです」とネルソン師はいたわられる。私も声を励まして、合掌、日本人がここで見ていますよーと眼で、心で告げた。三木さんは、階段の前で、もう一度台上を見上げました。そして、両腕を固く持った比島兵とともに、一気に台上に登りつめました。ここで私達の方を向き、縛られた腕ながらも、両手を組むごとく、頭を垂れて、黙祷を捧げられるのでした。ネルソン師の静かな祈りと、私の読経のうちに、やがてこの世の門が閉まるような異様な音響。かくて、三木さんの魂もまたたく星空に飛び散り、その悲しい骸のみが、名も知らぬ雑草のなかにとどめられたのです。人生はまだこれからという35歳の若さでした」(「モンテンルパに祈る」から)

 モンテンルパに慰問状を送る

★14人の死刑執行に死刑囚たちの空気は一変した。死の影におびえる日々が続く一方で、いままであった感情のもつれや拘りから独房をお互いに訪ねあわなかった人たちが、一切の憎しみや恨みを忘れたように、紙一重の隔てもない共同生活が始まったという。加賀尾先生は彼等の大きな心境の変化を目の当たりにして「断じて死なせてはならない」と、政財界トップに全国的な戦犯救出活動の展開を要請し、ローマ法王庁にも救援を依頼するなど必死の減刑、助命活動を始められた。これらの動きは27年初頭のマスコミ代表記者団のモンテンルパ訪問となり、その報道で国民の多くが知るところとなっていく。

★そんな記事の一つに、27年3月27日付の朝日新聞に載った「死刑戦犯に集まる手紙」があった。当時私は名古屋・明和高校の2年生になるところだった。この記事を読んで、無実の罪で死刑を宣告されている人が居ることを知って衝撃を受け、この人たちの心情に思いを寄せて、矢も楯もたまらずに手紙を書いた。慰めるといっても、どう慰め励ませばよいのかもわからず、ひたすら高校生の目に映った日本の状況や風景・光景を5枚の便せんに裏表ギッシリと綴り、自分で写した姫路城や瀬戸内海などの写真や新しい記念切手などを同封して、記事で知った加賀尾師宛に航空便で送った。

  「独立日本を立派に !」死刑囚から寄書届く

★2か月経った5月のある日、引揚援護庁からズッシリと重い封筒が届いた。中には、加賀尾先生の漢詩と死刑囚48名の寄書の返信が入っていた。それには横山静雄陸軍中将や、「死刑囚の手記」で反響を呼んだ学徒死刑囚らの名もあった。寄書はいずれも私情に流れず手紙への感謝と「祖国の将来を頼む」という激励の文で、行間には死に面した戦犯者の日本を思う心情が溢れていた。そのいくつかを記しておこう。

死刑囚から筆者(円内)に届いた48名の寄せ書きと加賀尾師の漢詩
寄せ書き
昭和27年5月25日付け朝日新聞

・  「強く逞しく私達の国、日本を大切に育てて下さい」 (花岡道夫)

・  「出来ることなら君のような若い世代の人と共に平和日本の建設をしたいと思います」 (上野正美)

・  「どうか私達が味わってきた、そして現在尚も味わいつつあるこの体験を味わうことなき様念じています」 (豊島仁)

・  「青年らしく、たくましく、美しく育って下さい。貴下がたの希望、それが日本の標準になるでしょう。原始林を見るような頼もしさを憶えます。頑張ってくださいよ」 (谷中勝良)

・  「私達は苦しみの中にありながらも祖国を愛し、次代を担う君たちに希望をかけてきました。頑張ってください」 (尾張三郎)

★神戸生まれの私が中学を出て初めて名古屋に住んで一年、名古屋弁など軽いカルチャーショックにもようやく慣れて、楽しい高校生活を過ごしていた。校外活動として参加していた「郵便友の会」の友だちにモンテンルパからの来信を告げ、戦犯やその留守家族の慰問などの呼びかけを始めた。こうした動きが新聞記者の知るところとなり、「独立日本を立派に 全死刑囚の寄せ書届く 比国戦犯から一高校生に」(27・5・25、朝日)の記事を皮切りに度々報じられることになった。戦犯死刑囚との手紙での交流は続いた。モンテンルパ戦犯への慰問、助命・減刑嘆願の動きは急速に全国的な規模で盛り上がっていった。

肺浸潤、病む高校生に逆慰問

★高校2年生になってボツボツ大学受験のことも考えねばならぬ頃だったが、テニス部、新聞部の部活や郵便友の会を通じてのペンフレンドとの交流に加えて戦犯死刑囚慰問活動など、勉強そっちのけの毎日に心配した親は「東大を目指せ」と発破をかけ、日替わりに家庭教師が帰宅を待ちうけるという事態となったが、「若さ」にまかせて「勉強も部活もすべてをこなす」と頑張った。

★しかし、この年の夏休みの半ば、修善寺・達磨山での郵便友の会の夏季キャンプを楽しんで帰宅したら、待っていたのは「肺浸潤だから休学せよ」との学校からの通知だった。青春の謳歌から一転して自宅での安静生活に暗転し、落ち込んだ毎日が始まったが、私の事を誰か友達が知らせたようで、9月に入ってモンテンルパ死刑囚から見舞いと激励の手紙が続々と届いた。「十分に療養してくださいよ。無理をしないように。一年休んだって、二年休んだって、そのことは問題じゃあない。要は健康な体に恢復することです。僕も身体はあんまり良くはない。その昔、最低標準で陸軍の学校に入って、入学後も身体では随分苦労しました-----」などと自分の体験も交えての激励の手紙が多く寄せられた。

★これらのことは「病む高校生に逆慰問」として朝日新聞でも報じられ、モンテンルパからのみならず読者からも激励を受け、一層療養に励む力となった。

病床で送られてきた手紙を読む筆者 加賀尾師から筆者に届いた励ましの手紙
朝日新聞掲載写真

★なかでも28年初頭の全死刑囚の寄書年賀状と、加賀尾師からの闘病に臨んでの心構えが胸を打った。加賀尾先生からの手紙は達筆な字でしたためられていたが、そこには、「病を得ては やまいをなほさむとのみこころを労しさわぐことは 病をなほすみちにあらず やまひをおさむる事肝要と存じます 治病とは心を静めて仏天を念じ 無欲 清浄にして一切をまかせ 病に素直なる事 平癒第一のつとめであります 僧 秀忍」(原文のまま)とあった。当時の私にはその意味するところが分りかねたが、今読み返すとその奥深さが改めて心にしみる。

  「ああ モンテンルパの夜は更けて」誕生秘話

★病床にあって私と死刑囚との文通は続いた。この時期、モンテンルパへの国内の関心は大いに高まったが、その高まりの陰に流行歌手・渡辺はま子さんの献身的な活動があった。彼女の歌った「ああ モンテンルパの夜は更けて」が大ヒットしたが、この歌は代田銀次郎死刑囚が作詞し、伊藤正康死刑囚が作曲したものであった。渡辺はま子と死刑囚との交流、「モンテンルパの夜は更けて」誕生の秘話をある死刑囚は私への手紙で次のように伝えてきた。

オルガンを弾く伊藤死刑囚(「あゝモンテンルパの夜は更けて」
の作曲者)を囲んでの刑務所内での1シーン(版画は福田さん作)
渡邊はま子さんと歌詞

<「昨年(27年)2月、比国のベラノ、デユラン両代議士が訪日した時に、日本の占領中に有名になり、今も多くの比人が歌う「支那の夜」の歌を聴きたいというので、旅行中の渡辺はま子さんに知らせたら、「日比親善のためなら」と帰京されて歌ったそうです。そのことを知った加賀尾師と二人の死刑囚が礼状を出したところ、早速はま子さんから「私も終戦の時に北支で慰問中に捕虜になって21年5月まで抑留の経験があり、是非一度慰問に行きたい」と親切な手紙が来た。そのうち、4月頃、先生の発議で皆で歌うようなものが欲しいということになり、代田作詞、伊藤作曲の「モンテンルパの夜は更けて」が出来たのでした。>

★これをはま子さんに送ってみてもらおうというので送ったところ、このまま使えるというのでビクターで吹き込まれた。レコード会社は最初あまり興味がなかったらしいが、比島裁判で通訳された関口虎雄氏の「残された人々」の発刊や朝日新聞・辻豊記者が新聞・ラジオで問天(モンテン)について国民にアッピールされたり、はま子さんはNHKの「陽気な喫茶店」で先の二人の手紙を紹介され、ビクターのレコードもヒットしはじめた。はま子さんはレコードを20枚ほどと印税なのでしょう6万円とポータブルを1台復員局経由で送ってくれました。はま子さんは本当に「浜っ子のはま子」さんであって為される誠意の方です」

★「一度是非」と言っていた渡辺はま子の問天慰問は27年Xマスに実現する。同じく死刑囚の手紙がその感動を伝えてきた。

<「25日には渡辺はま子さんが来られましたよ。思ったより若くて、きれいな方でした。大いに歌い、服装も振袖姿、イブニング、支那服と着替えて、耳と同時に目の方も楽しませて下された。そしてモンテンルパの歌を合唱した時には涙が出た。彼女も何べんも泣いて一同は感激と感謝に胸の中が一杯になって皆泣いた。終わりに国歌を斉唱した。その後加賀尾師の声涙共に下る諭しの言葉と名セリフは一層の涙をそそり、はま子さんはテープレコーダーの上に泣き伏してしまった。祖国を偲び、遙々と慰めに来てくれたはま子さんの誠心を思う時どうしても涙を止めることは出来ませんでした」>

   キリノ大統領を動かしたオルゴールアルバム

★こうして全国的に盛り上がりをみせた比国戦犯の助命・減刑嘆願は徐々に比国 に伝わっていった。明けて昭和28年の5月、加賀尾師が宗教家としてカソリック教徒であるキリノ比大統領の慈愛心に直接訴えたいと待ち望んだ面会が叶う日が来た。マラカニアン宮殿での初めての面会に持参したのはオルゴール付アルバムであった。大統領と初対面の挨拶のあとこのアルバムを差し上げ、大統領がアルバムを開かれると渡辺はま子が歌う「モンテンルパの夜は更けて」が流れた。哀調を帯びた歌に「一体これは何という歌ですか」と大統領。モンテンルパに監禁の二人の死刑囚が作った歌という説明に、「ウーム」といったまま、しばし感慨無量の面持で沈黙されていた、と加賀尾師は書き残している。

キリノ大統領
wikipediaより転借

★キリノ大統領は妻と子供3人を日本兵に殺されていた。撃たれた母のそばで泣きやまぬ2歳の娘は銃剣でとどめを刺されたという。大統領自身も憲兵隊に監禁された経験を持つ。その時親切にしてくれた2名の戦犯の減刑を大統領はこの日、加賀尾師に伝え、「自分の家内と最愛の三人の子供は、日本軍によって殺されたのです。しかし、もうそうゆうことは忘れてしまっています—-」と述べたという。「この言葉を聞いたとき、同じ同胞である旧日本軍の暴状を想起して本当に身をえぐられる痛恨を覚えた。人生のこと、寛容より大きい審きはないでしょう。この悲痛の涙の谷を、ただ、キリスト教の慈愛と寛容に支えられて、乗り越えてこられたキリノ大統領だけに、昔の敵とはいえ、同じ人間としての悲しみの歌が、その心の琴線に触れたのでした」とその時の感動と感謝をその著書に記している。

恩赦で踏んだ故国の土

★そして比国の独立記念日の同28年7月4日、モンテンルパの死刑囚は無期に減刑、日本内地への送還、有期戦犯は釈放というキリノ大統領による恩赦が発表され、7月15日、死刑執行された17名の遺骨と共に110余名の戦犯者たちは白山丸に乗船、夢に見た祖国に歓喜の帰国をしたのであった。無期に減刑となった死刑囚たちは巣鴨拘置所に入所するが、同年12月30日、この日で任期満了となるキリノ大統領の恩赦発表で釈放となり晴れて自由の身となったのだった。


昭和28年12月28日、巣鴨拘置所
から伊藤正康元死刑囚が筆者宅を
訪問、初対面の写真撮影をした30分
後、ラジオの臨時ニュースが比島戦犯
の釈放を伝えた。記念すべき写真。

★モンテンルパの人たちの帰国はこの上ない喜びだったが、私の闘病はなお続いた。自宅で終日安静、服薬の毎日だったが、死刑囚から得た励ましを糧に「人間万事塞翁が馬」と割り切っての日々が送れるようになっていた。その甲斐あって病気も恢復に向い、29年4月に改めて2年遅れの高校2年生に戻った。

その後の元気な60年の原点となった

★その後の私の人生は、一浪の後、念願の早稲田に入り、卒業とともに日本漁網船具(現ニチモウ)で半世紀近い「会社人間」生活を送ることになる。会社では労使紛争に体を張り、組織風土の改革に取り組むなど、連日の徹夜も厭わず頑張り、いろいろ修羅場もくぐったが、一方で深夜まで部下たちと飲み歩きもした。この間風邪をひいて休むぐらいのことはあっても病気もせず、振り返れば、社長在任の8年、一日も休むことなく務め、部下たちをそのタフネスぶりで驚かせてきた。 

★これも遡れば高校生の時に、モンテンルパの死刑囚の人たちの励ましと期待を受けて、「明日をも知れない運命の人のことを考えれば、これからの人生はどんなことでも乗り切っていける」と心に誓って養生を続けた日々が強い精神力と忍耐力を生む原点になったといえよう。

★冒頭に紹介した朝日の記事「ザ・コラム」は次のように書いている。

<「第二次大戦中に海外で戦没した日本人は240万人。フイリッピンでは中国大陸の71万人に次ぐ52万人が死んだ。一方的に戦場にされたフイリッピン人は111万人が亡くなった。国民の16人に1人にあたる。反日感情が渦巻いていた60年前、大統領はなぜ戦犯の釈放に踏み切ったか。大統領は談話で、家族が殺された体験に触れたうえで、日本との友好が国益にかない、そのためには憎しみの連鎖を断ち切る必要がある、と国民に説明した。(中略)  反日感情の鎮静には、歴代政権の姿勢が影響している。歴史問題で声高な批判は控え、記録の保存にも執着しなかった。中国、韓国両政府との違いは大きい。

しかし個々の傷が癒えたわけではない。(中略) 日本では、フィリピン戦記や小説が多数出版された。ほとんどは、敗走兵の飢餓や戦犯の望郷が主題だ。巻き込まれた地元の悲惨が描かれたものはまれである。報道も日本目線に傾きがちだ。現地の人が日本人に戦争の話を持ち出すことはまずない。時の流れや彼らの寛容に甘えて、私たちが過去から目を背けていいはずはない」と。>

晩年の加賀尾秀忍師
いばら歴史館HPから転借

★あれから60年、加賀尾先生も、渡辺はま子さんも、そして伊藤正康さんを始め殆どの元死刑囚も彼岸の人となった。しかし私の中では、私の健康とともにモンテンルパ死刑囚との交流は生き続けていく。(2013.10.28記)

♪BGM:Chopin[Ballade1]arranged by Reinmusik♪

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