いなほ随想

四姑娘山(スークーニャンシャン)に登る
~それにしても感慨深い中国の今昔~

四姑娘山(奥の左端のピーク)


大屋元治(30商)


★私にとって、37年ぶりの中国は衝撃的でした。当時とは雲泥の差と言うよりも、全く別世界でした。

[旅の日程]
月 日 行      動
7/29 成田発   (上海経由)  成都着
7/30-
8/1
九寨溝・黄龍
8/2 成都へ戻る
8/3 日隆まで8時間のマイクロバスの旅
8/4 四姑娘山展望
8/5 成都までマイクロバスで戻る
8/6 帰国


◆「武漢プロジェクト」に英語屋が英文タイピストを同行した理由

★ご存知の通り1972年10月、日中間の国交が回復しました。そのころ、周恩来首相(当時)から新日鉄の稲山社長(当時)へ中国製鉄業の近代化のため、協力要請があったと言われています。手始めとして、武漢製鉄所へ3系列の鋼板圧延設備を納入する商談が持ち上がり、半年ほどの準備期間を経て、1973年8月、私(当時、安宅産業)たち第一班が中国へ向かいました。

★当時は、中国からはかならず「友好商社」経由で商談が持ち込まれました。従ってこのときのメンバーですが、新日鉄が約30名、「友好商社」は小企業ですので、「支援商社」として安宅産業と伊藤忠商事あわせて約30名が「第一班」の陣容です。安宅組のチームリーダーは、私。というのも漢字国、中国特有の事情から“英語屋”の私が英文タイピストを同行して出かけることになったのです。

★日本にはカタカナという便利な文字がありますから、米国やドイツの技術書に出てくる技術用語は、そのままカタカナで表記できます。ところが中国では、出てきた用語を即座に漢字表記できませんので、日中でやりとりする技術文書は英文とすることになり、英語屋の私の出番となった次第。研修中に中国人スタッフが覚えた日本語の「弁当」や「定食」が外来中国語になり、コンピューターの「ソフト」「ハード」が野球並みに「軟件」「硬件」と訳されたり、新語がたくさん作られました。

★とにかく60日間の“マラソン交渉”が3回、交渉相手に即決する権限がないこと、関係者の合意を取り付けるため全部翻訳しないと回覧もできません。新語作りとその説明文に時間のかかること、大変な作業でした。

◆香港から車中泊2日、37年前の北京は遠かった

★当時は香港(英国の租借地)で一泊して、翌朝、国境(?)の河に架かる鉄道線路上を歩いて中国側の深圳へ渡りました。対岸には小銃を持った解放軍の兵士が両側に整列する中を恐る恐る通って税関に入りました。いま大都会に発展したこの村には、税関の建物の他には山々と畑しか目に入りませんでした。なぜか荷物検査に半日かかり、夕方にようやく広州まで列車に乗ることができました。目的地の北京へは、さらに車中泊で二日かかりました。

★初めてづくしの中ですべての準備が整い、1974年春、北京の人民大会堂での調印式に漕ぎ着けました。日本側の稲山新日鉄会長をトップとする大デレゲーションは、今度は当時、松村謙三氏が社長を務めていた全日空機をチャーター、直行便で北京空港に降り立ちました。もちろん、中国側の特別の計らいによる初の直行便となりました。

日中初の国家プロジェクト武漢製鉄所への鋼板圧延設備納入調印式
最前列左端の安宅産業市川社長の後ろに立つのが安宅課長の筆者
人民大会堂で
調印式後の記念写真
前列の左から9人目が稲山新日鉄会長、右が李先念国務院副総理
最後列の左から7人目が筆者

★調印式は、上掲の写真のように「商談」の域を超えた大がかりなものになりましたが、当時、中国側がこのプロジェクトを国家事業と位置付けていたことを示していると言えるでしょう。調印式場に国家の最重要場所、人民大会堂を用意したこと、チャーター機の北京空港乗り入れを認めたことなどが、それを裏付けています。ちなみにこの商談調印の後、民間企業との契約調印式が人民大会堂で行われたことは、聞いたことがありません。

★当時の中国は、いわゆる四人組の実質支配下にあり、人々は主に灰色の人民服の着用が半ば義務付けられていましたので、北京・天安門広場は故宮のレンガ色以外は正に白黒テレビの世界でした。自転車が主流で、道行く人々は互いに話すこともないのか無口で黙々と歩き、街はまことに静かでした。

人民大会堂(手前は天安門広場) 天安門広場(奥の建物は故宮)
画像はwikipediaから転借

◆人民服と白黒の世界から赤いドレスのカラーの世界に

★そして、37年ぶりの今回は四川省の成都を訪れたのですが、まさにカラーテレビの世界に変わっていました。片側四車線の他に広い自転車専用路がある立派な道路が目立ちます。どこも自動車で埋まっていると言ってもいいでしょう。人々の顔は明るく、大声で喋りまくり、大股で歩いています。

★夕食時、渋滞で私たちのマイクロバスは前に進めません。ふと左の窓の下を見ると、赤いスポーツカーに赤いドレスの美人が目を惹きます。そのうち彼女は、口紅やパフで化粧直しを始めました。直観的に“こりゃあ商売女かも”と思い、現地ガイドの青年に訊くと、彼はあっさりと「成都には、日本の駐在員だけでも100人はいますよ。みなさんカラオケバーが大好きですよ。多分、彼女はそういう所へ出勤でしょう」と答えました。これにはびっくり仰天です。37年前ならば、直に“下放”されてしまいそうな発言ですから。

成都市の市街地
wikipediaから転借

★当時はゼロックス・コピー機が出始めたばかりで主流はタイプライターでした。カーボン紙を数枚はさんでコピーを作成しました。それ故、私たち安宅の第一班は英文タイピスト四名、邦文タイピスト二名を同行しましたが、彼女らのスタイルは膝の隠れるスカートにブラウスでした。万里の長城見学のときには、これでも中国側から注意され、彼女たちは人民服のズボンを借りて出かけたものです。ですから、この赤いドレスの女性もガイドの青年も、こんなに自由に行動し、発言できるようになったのか、と信じ難い思いでした。

◆成都から高速道路をマイクロバスで四姑娘山へ

★さて、本題の四姑娘山行ですが、成都から西へパンダ研究所のある臥龍を経由して登山基地の日隆へ至る山道は、四川大地震の影響で通れません。やむなく南西に当る雅安まで下る高速道路を時速100キロで二時間走りました。片側二車線の高速道路の左右には、濃い緑の林、広々とした豊かな畑が広がっています。

★ボロ家はないかと目を凝らしましたが、ただの一軒も見当たりません。農家は石積みの二階建てが新しく、時折三、四階建てコンクリートのアパート群も見えます。雅安からは、北へ戻るように片側一車線の県道を50キロほどのスピードで六時間走りました。こんどこそボロ家があるだろうと期待(?)していたのですが、やはりただの一軒も見当たりません。

★豊かな畑の景色は高速道路と全く同じですが、県道の方は時々街中を通り抜けます。街の景色は、台北や成都の裏通りと同じで二階建ての長屋のようなコンクリート造りが中心で、二階部分は住居のようで洗濯物が干してあったりしますし、一階部分は開放的な各種の店が並ぶ庶民の街です。どの店も新しくはありませんが、結構整然として清潔な感じでした。

★街の人々はチャン族でしょうか、やや色黒ですが、顔は明るく、店の前で何組も笑顔で話し合っています。ときには木彫りの街があったり、石材加工の街を通過したり、それぞれに街ごとに特化しているところもあり、見飽きることがありません。街中では、歩く人々や自転車、超小型三輪トラックなどが勝手に動き回るので、私たちのトヨタ製マイクロバスも大型トラックも時速20キロの走行となります。小さな街には不適なのかバイクはほとんど見かけませんでした。

◆4,200mの峠越えは崖側にガードレールなし

★この県道の終わりの方で4,200mの峠を越えて行くことになります。山道になってからも片側一車線で広さも十分ですから、マイクロバスは40キロほどのスピードで上って行きます。ただし、岩山を削りっぱなしの道路なので、四川大地震で崩れた岩屑が片付けられてはいるものの、搬出されないため、ときどき崖側だけの一方通行になります。崖側にはガードレールがないので、バスの上からではヒヤヒヤでした。

★地割れもあり、再舗装工事のため、何十mかのガタゴト走行が十数回。やっと到着した峠では、4,000m以上の高地に咲く見事なブルーポピーが迎えてくれました。同行の面々は、みんな山屋ですから岩によじ登り写真撮影に夢中です。そのうちに女性二人、身の程知らずで4,000mの岩屑の上を歩き回っている内にSOSです。携帯用の酸素吸入器がマイクロバスに常置してあったのでヤレヤレという場面もありました。

ブルーポピー(青い罌粟)
ケシ黄あメコノプシス属

★峠の下りは、一段と岩崩れがひどく、暗くなり始めたころホテルに辿り着きました。さすがに世界遺産の基地だけあって、立派なホテルです。要人も訪れるらしく、正門で警官がパスポートのチェックをしました。ここに着くまでには、峠の工事現場で「バスの通行はだめだ」と因縁を付けられ、賄賂を取られました。このため帰路は日の出前に峠を通過してしまおうと、午前三時起床、四時出発としました。

◆3,700mの展望台まで二時間強の登山

★翌朝、いよいよ四姑娘山へ出発です。日隆の標高は3,000mだったと思うので、3,700mの展望台まで二時間強の登山です。四姑娘山群は、右から大姑娘、二姑娘、三姑娘へと次第に高くなり、最高峰が四姑娘山(6,250m)です。ずらりと四山が見えたとき、その素晴らしい景色に全員がしばし感激に浸りました。全体がゆったりと大きな景観に囲まれて、雄大な気分で雲山を展望しました。

四姑娘山群(右から大姑娘、二姑娘、三姑娘) 四姑娘山群を背に日本からの仲間全員で(サングラス筆者)

★われわれより後に到着した10名ほどの日本人中高年パーティーは、5,500mの大姑娘山に登頂する予定で、高度順応のため途中二か所の常設テントに三泊するとのことでした。私たちは、女性二人を残して次の展望台まで大菩薩峠を思い出させる草原の尾根を小一時間ほど気楽に歩きました。途中、テントまで食料や水を運ぶ荷馬が落として行った馬糞と縁が切れなかったのが残念ですが、展望台のトイレは清潔でした。

四姑娘山の展望台で(後列左から2人目筆者) 四姑娘山(左のピーク)

◆世界遺産の九寨溝の景観にうっとり

★なぜトイレかと言うと、今回は世界遺産の九寨溝、黄龍でも美しい湖沼群と数々の滝をうっとりと見惚れてきたのですが、随所にあるトイレには服務員が常駐し、実に清潔であったこと。「これでは富士山の世界登録は無理だね」と一同が感じたからです。

                       [世界遺産 九寨溝自然保護区]
九寨溝の池の一つ五花海
九寨溝と木道
九寨溝樹正瀑布 九寨溝珍珠灘瀑布
画像は、いずれもwikipediaから転借

★どうやら世界遺産を見に来る外国人が通る道路(今回は成都から日隆までの8時間)や標高3,100mの山頂に造成した広々とした九寨溝空港、そこから1,500mの入り口まで下る幅広い道、さらには九寨溝の20余キロに渡る幅1間~1.5間の素晴らしい木道やトイレなどの全てが、観光を国策の一つと決めて行われた大型工事なのではにかと思われます。

九寨溝をバックに筆者

[世界遺産 黄龍風景区]
五彩池と黄龍寺
迎賓彩池と飛瀑流輝
画像は、いずれもwikipediaから転借

◆中国人従業員のサービス評価は0点

一方、中国人のサービスは、共産国にはなじまないのか、経験が足りないのか、ともかく0点しかつけられません。最悪な例は、成都空港の350ml缶ビールが一缶600円という高値。その上、シューマイの出が遅いと言えば、プイと横を向いて寄り付かないウェートレスなど数え上げたらきりがありません。

★もうひとつ、どこのホテルでもレストランでもビールが常温なので老酒(紹興酒)を注文すると「没有」です。エビ料理も全く出てきません。なぜだろうかと仲間と話し合った結論は、地方共産党が遠方からの輸送費の節約を図って地産地消を指導しているのではないか、ということに落ち着きました。

★そう言えば、毛沢東語録のような垂れ幕がどの町でも工事現場でも多数見られましたし、他の建物より立派な党事務所も見かけたので、地方では相変わらず党の権力が強いのだなと感じた次第です。

★最後に、空港や観光地で会う中国人は、わずか1%の富裕層かも知れませんが、、彼らの明るく活発な姿に比べ、成田空港へ到着後に見た携帯電話ばかり見ている暗い顔の日本人にがっかりすると同時に、このままでは色々な意味で中国に勝てないだろうと感じた旅でした。(2010.10.記)


♪BGM:Debussy[Arabesque]arranged by Pian♪

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