いなほ随想


ちっちゃなちっちゃな自分史

人に支えられた我が人生

坂本哲之助(35政経)
★友を得て、人を得て、やんちゃ、天真爛漫、ゴーイングマイウェーで人生を駆け抜けて来た男が、自ら
の航跡を振り返って綴る400字詰め原稿用紙42枚の力作、自分史を書き上げました。

★都立西高、早稲田大学をこよなく愛し、酒を愛し、人を愛する男は、偶然の成り行きから労働組合の
世界へ。現役大物政治家も続々登場する生々しい労働界と政治の絡み、興味尽きない裏面史の一端
も披露。ぜひご一読下さい。                        (ホームページ管理人:松谷富彦)

◆まえがき
★大学同級生が七十五歳を迎えた節目の年、「紺碧の空」の最終版第五号が発行されたのを機会に、「ちっちゃな自分史」を書くことを思い立った。いろいろと想い出しながら構想を練ると、いい友人に恵まれたことと、いつも人に支えてもらったことばかり浮かんでくる。恵まれていたと思う。加えて家族の支えと理解のお陰で思いきり仕事ができた幸せ感を改めて感じた。そのことを心の中で整理でき、感謝の気持ちをもつことができた。

◆幼年時代・小学校時代
★東京の江戸川区小岩で生れ、その年の十二月に杉並区の松庵に移り住み、それから結婚する迄の二十九年間すことになる。父は稲田大学商学部を昭和二年に卒業後、四月に結婚し、銀行に勤務したが、三年後に肺結核にり、二年程、郷里の山梨県で転地療養し、回復後、縁あって、帝国生命(現在の朝日生命)に入社した。同期生より七年遅れての再スタートとなり、父も母も子供を抱えての苦労が多かったと思う。

★我が家は長女が昭和三年生れ、長兄が昭和六年、次兄が昭和七年、私が昭和十一年生れで四番目の三男、長い間末子ということで、可愛がられて育てられた。と思っていたら、昭和十八年弟が誕生し、良い思いは七年で終った。子供五人を抱え戦争中を乗り切った「お袋」は、当時の母親がみなそうであったように、逞しく強いという思いが印象深い。


★小学校時代(当時は国民学校だったが)は甘えん坊で、いじめに会うこともあり、比較的おとなしい少年だった。二年生の昭和十九年十二月三日、東京大空襲のはしりで東京の西部地区、特に三鷹の中島飛行機製作所が空爆にあい、その余波で我が小学校も全焼した。翌朝の朝礼は真黒に焼けたゞれた校舎を前に行われ、くやしい、悲しい思いをした。

★その三日後、お袋の決断は早かった。すぐさま山梨の坂本の実家に疎開したのだった。疎開生活は、「親分さんとこの息子さん」ということで、みんなに大切に親切にしてもらった。学校までは当時でいう一里あり、これを毎日ったのだから、かなり鍛えられたと思う。

★八月十五日、暑い日だった。天皇陛下の玉音放送のあることは子供心に知ってはいたが、何のことかさっぱり分らなかった。だが、この放送が終った直後、母親が、「さあ、これで東京へ帰れる」といった言葉は忘れられない。子供達の想像を越える母親の苦労があったのだろう。後になって分かってきた。結局、疎開生活はその年の十二月迄で、一年一ヶ月だった。

★東京に帰ったものゝ、学校は焼けた為お隣りの学校での間借り生活。自分の学校に帰れたのは六年生になってからだった。戻ってからはクラス対抗の野球を自分達のグランドで楽しむことができた。布製グローブで…。

◆中学校・高等学校時代
★晴れて中学生になったのは杉並区立神明中学三期生で、我々が入学して初めて一年生から三年生までがそろった。新制中学の始りの時代だった。中学時代は私にとっては最高の場面だった。テニス部に籍をおきながら、バレー部、卓球部、陸上競技部の対抗試合に駆り出された。

★杉並区の連合運動会四百米リレーでは第三走者で出場して優勝したり、区の陸上競技会で走り幅びで入賞したりしている。テニスでも都大会の八本に入った。一方、生徒会でも会長の役もやらせてもらい、学校の中で目立った存在で、楽しい中学生時代をすごした。文化面でも文芸部に入り、初めての文芸誌「小径」を編集発行したり、学園祭では演劇にとりくみ、「若草物語」に出演したのも楽しい思い出である。

★高校の入試となったが、当時は殆どの人が都立校を目指し、私立校行きは殆どいなかった。中学時代三年間は自宅が近い友人五人と親交が深まり、「松庵艦隊」といわれれるグループができ、いつも一緒に行動していた。母親同士も仲良く本当にいゝ仲間だった。面白いことに、この五人のうち四人が一緒に西高に行き、一人が寄留して日比谷高校へ行った。結果、この五人は日比谷へ行ったO君が東大へ、残りの四人は早稲田に二人、慶応に二人と、按配よく決まったものだ。今でもこの五人とは仲良くつき合っている。

都立西高の通用門

★高校時代は入試はうまくいって入ったものゝ、中学時代とはうって変って出来の良い優秀な奴が多かった。中学時代が「井の中の蛙」であったことを思い知らされた。中学時代あれだけやったスポーツも高校に入ってからは何もやらず、部活なしで遊びにふけっていた。

★高二の時、仲間に器用な奴がいて、石鹸消しゴムで麻雀パイをつくり、音がしないことをよいことに放課後教室で麻雀をやっていたら、御注進がいて、突如先生がそこへ駆け込んできた。みんなサーと逃げてしまい、逃げることをとしない自分一人がつかまり、職員会議にかけられ、あわや停退処分になりかねない事件となった。何とかその難は逃れられたが。

★創立記念学園祭のクラス対抗スポーツ大会が毎年行われる。三年の時は、野球、サッカー、バレー、バスケット、タッチフット(今でいうアメフト)、テニスの全種目に出場して総合優勝し、朝礼で全校生徒の前でクラスを代表して優勝杯と賞状をもらったことが一番良い思い出となっている。

★真面目に勉強しなかったせいもあって、大学受験は予想どおり一浪するはめになった。浪人中は、一応駿台予備校等へ行ってはいたものゝ、必死になって勉強することはなかったが、運よく合格した。

◆大学時代
★あこがれのそして希望の早稲田に入ったものゝ、授業は一年生の前期はまあまあ出たが、その後は応援部に入ったこともあって、一に神宮、二に雀荘、三に練習、四にバイトで、ちょっぴり授業とあいなった。「大学とは友人をつくる所なり」とは親父からの言葉。そのことを思い出し実行した。

大隈老侯像 大隈講堂
早大1年の春の早慶戦は学生席で応援(この後、応援部入り) 試合後、女子学生と勝利の記念写真(後列右端)
春の早慶戦で応援指揮(1959年 4年生)
早稲田祭の音楽関係各部演奏会の司会を務める(1934年10月)

★盆、暮の年二回、四年間で八回、新宿の伊勢丹でバイトをし、三年の暮と四年の二回は、バイトの四十数名を束ねて、まとめ役をやったりした。時にはクレーム対策に係長の名刺をもってお客様のお宅へ伺ったこともあった。ある時、その訪問した一軒から会社の人事部に電話があり、「この間のクレーム対策の社員さんと家の娘とのお見合いを…」との話があったということを聞き、嬉しかったり、びっくりしたりで、今から思えば冷や汗ものだし、反省だったりしている。

★家庭教師も小遣いの一部になったし、部の合宿費用は親にできるだけ迷惑をかけまいと思ってバイトで稼いだ。これだけ勉強せずにいろいろやっていて、よく四年間で卒業できたものだと思っている。こゝでも友人に恵まれていたと思う。  

◆社会人時代
★就職は東京日産販売㈱から合格通知をもらった。取り敢えず一部上場企業だし、何といっても自動車という、これからの時代の最先端をいくであろう商品を売るという会社に満足していた。会社の総人員も千名を少し超える位と手ごろであり、自分の存在価値も十分発揮できるかなと思った。

★研修期間が終って、六月に辞令の交付となった。当然、第一線のセールスマンに任命かと思っていたら、「中古車部管理課勤務を命ず」となった。その時、唯一の質問者が自分で、「何故、営業所でないのか」というと、すかさず「お前のようなガラの悪いのはセールスに向かないのだ」と人事部長にいわれてギャフンだった。この部署は、当時急速に伸びた新車販売に伴って下取りした中古車の処理、管理が追いついていけない状況にあった。従って、いざやってみると、新しいシステム、方法を発想し実行できるという楽しい仕事だった。

★三年程仕事をしていると、少しずつ、いろいろ周りがみえてきた。中でもどうしても許せない問題に気がついた。それは、メーカーとディーラーの賃金格差だった。東京なら入社前に調べておくべき事項だったのに、全くそんなことに頓着なく会社を決めていた未熟な自分に改めて気がついたのだが。

★職制、先輩にこのことを質問したが、いずれも納得のできる答えはなかった。ある先輩から、「それを解決するのは労働組合しかないよ」とヒントをもらった。それから労働組合に興味をもち、率先して諸会議にも出るようになった。執行部の目にもとまり、各種委員を歴任し、職場を代表する役員になっていった。

◆労働組合専従役員
★昭和四十年、二十九歳、入社五年目の九月に、労働組合の専従の要請があった。未だ独身の身軽さということもあり、先の賃金格差問題もあり、さらに流通業界の労働組合の未成熟さも感じていたので、魅力と意義を感じて、「よーし、やってやろう」と決心した。

★専従になって翌年の四月に結婚した。職場結婚だった。彼女の両親に組合の専従であることの引け目感があったが、心よく許してくれたので胸をなでおろした。私の両親ですら二~三年で会社に帰るだろうと思っていた。

★それなのに、まさか生涯労働組合一筋とは誰も思わなかっただろう。自分でもその時は想像だにしなかったのだから…。二十九歳九ヶ月、三十歳になる前に結婚することができた。女房、由美子は二十三歳だった。その年に東京日産の労組のトップにつくことになった。従って、多忙な日々が続いた。

★翌年の三月に長男が誕生するのだが、丁度三月は春闘時期、労組一番のかき入れ時、団体交渉の真最中だった。結局、三十日に無事誕生、その日は団交日で病院には行けず、息子と初対面は翌々日の四月一日になってしまった。女房と付き添ってくれていた彼女の母親に何とも申訳ないことになってしまった。


★こんな具合だったから、改めて労組の専従の嫁は大変なことだと感じた。帰りは遅いし、新婚気分という甘い雰囲気もつくることができなかった。子育ても女房に全くまかせっきりであった。その四年後に長女が誕生するが、この時もそう違いのない状況だった。

★昭和四十三年七月、私にとって一生を左右する事に直面する。この年参議院選が行われ、我々の組合から初めての組織的候補を全国区に民社党から擁立し、日産圏挙げての闘いとなった。その時の東京日産の責任者として選挙に挑んだ。約一年間の長期の闘いとなった。


★結果は、全国区で十一位、七十七万余票を獲得し、労組の中でも民社党の中でも過去にない驚異的な順位と票数で快勝した。ところが投票日が近づくにつれ、警察の手が伸びてくるとの情報が入るは、家には刑事が張り込むやらで、家に帰ることもできなかった。女房も子供も、これには困ったらしい。一歳四ヶ月の息子を抱えてのことだけに、心労は余りあったであろう。

★この選挙は、日産の企業ぐるみ選挙ということで朝日新聞も選挙特集で報じたり、他陣営から攻撃されたりして、完全に警察からマークされていたのだ。我が組合員が三十六名も事情聴取され、本当に申訳ないことをした。当選を見とどけてから、北区滝野川警察署に自ら出頭し、逮捕となった。

★この日から二十一日間の取り調べは、半端なものではなかった。朝八時から夜八時―十時まで、まさに朝から晩まで二人の刑事におどされたり、すかされたりの取り調べが続いた。テレビで見る「七人の刑事」さながらのものだった。

★臭いとは聞いてはいたが、本当に臭い。きっと古米だったのだろう。それに色のついただけの味も素っ気もない味噌汁。それに沢庵が三切れ。この朝食が留置所の小窓から入れられる。寝具は毛布二枚、一枚を下に敷き、一枚を上にかけて寝る。下は当然板敷きである。昼食と夜食は、取り調べ中だと自費で店屋物をとることができることになっていた。幸い毎日朝から晩までの取り調べなので、差し入れの食事をとることができたのは幸せだった。


★取り調べは誠に巧妙そのもので、常に刑事側は筋書きストーリーができていて、それを朝から晩まで誘導して認めさせ、捺印して、調書にするというやり方である。大抵の人は根負けしてしまうだろう。更に、「これを認めれば、明日で出所させよう」とか、「可愛いゝ息子と奥さんが待っているよ、早く帰りたいだろ」とか云ってくる。最近えん罪問題が出ているが、この様な実態をみると、事実あり得るだろうなと推測できる。

★山場を越えて最後の四~五日、担当主任刑事と気心が知れるようになり、世間話もした。そのお陰か土曜の午前、急遽保釈されることになった。予定より二日早かった。この刑事とはその後ずっと文通する仲となった。

★やっと釈放された。都合一ヶ月振りの我が家だった。女房と子供が笑顔で迎えてくれた。本当に久し振りで家庭の温かさが伝わってきた。聞けば、私の逮捕の翌日朝、我が家に四、五人の刑事が来て、家宅捜査が始まったそうだ。まず天井裏から始り、天袋、洋服ダンスの引出しの底まで…。

★女房は息子を抱えながらこれを受けたのだった。この時女房は、私が置き忘れたメモをとっさに刑事に気づかれないように洗濯機の中に隠したらしい。この話を聞いて、その機転と度胸に頭がさがる思いだった。ここでも女房に救われた。


★この事があったからか、私の運動の中に政治問題が大きなシェアをしめた気がする。昭和四十五年の春の定昇団体交渉時に、大きな事件に直面することになる。東京日産は、日本最大のディーラーとして順調に伸びていた。会社が伸び、急速に成長すると、どうしてもその勢いに乗じて思い上がり、勘違いする輩が出てくるものである。

★当社でも例にもれず、人事と経理を握り、我がもの顔で権力を欲しいまゝに、飛ぶ鳥落とす勢いで会社を私物化する副社長がいた。従業員の中からも批判の声があがるが、どうする事もできない嫌な雰囲気があった。労組としてもこれは黙っていられない問題だった。

★同期入社のN君(彼も労組役員)と相談し、組合の先輩諸氏も口説き落とし、団交の場で、 「副社長の退陣を要求する」と会社側にぶつけた。勿論、団交のメンバー全員の辞表を預り、首になることも覚悟して挑んだ。必死だった。これを受け社長は、「時間が欲しい」といってその場を中断した。  

★その後が大変だった。まずは社内に情況を説明し、世論づくりをしなければならない。直ちに組合を経験したことのある職制にお集まり戴いた。次に、最上級組合員である係長全員に招集をかけた。そしてさらに、組合の各種機関会議を開催し、いずれも事情の説明、報告、今後の方針等を述べ、社内の理解者を広く求めた。


★その時、思いがけないことが起った。団交直後の私の机上の電話が鳴った。「毎日新聞ですが、お宅の組合で副社長の退陣要求をしたのですか?」という。私達はディーラーという業種上、ユーザーのことを考え、このことは絶対に表に出さないいう事前の打合せがあったので、「そんなことはありません。どこからの情報ですか」と問うと、「今、社に通報があったので…」という。少し話していたら、相手が村林君であることがわかったので、私も名乗り、役職名もいって、「村林、そんなことはないよ、この俺が云っているんだから…」といって電話を切った。お陰でこの問題は一切表には出ないで済んだ。

★しかし、私にとっても友人に嘘を言ったことは、後々まで気になっていた。後日、この件をクラス会で会った時にお詫びをしたら、村林君が「あの時、事実はわかっていたよ。坂本の気持ちもわかって、少しでも手助けになればと思って…」といってくれた。まさに友情に助けられた。

★社内最高の実力者といわれていた副社長問題だっただけに、この解決には二ヶ月かゝったが、要求通りで決着した。想像を越える厳しい二ヶ月であり、団交メンバーを含めて組合の仲間を中心に、全従業員、組合員の支えで成功できたものと思う。その後、社内は明るくなり、民主的な組織になったことは嬉しいことだった。一段落した後は日産グループの上部団体、ナショナルセンターの同盟など労働界のいろいろな団体での仕事を経験した。

◆連合時代
★平成元年十一月二十一日、日本の労働界の夜明けといわれる「連合」が誕生した。戦前五十年、戦後四十年の労働運動は、常に離合集散をくり返し、九十年の歴史を経て、やっと統一をはたした。八百万の大組織である。国際的にも国内的にも大きな注目を集め、期待されながらのスタートだった。

★その連合の副事務局長に就任した。連合の結成は労働界だけでなく、政界にも大きな影響を及ぼすことになる。私にとっても同様であった。連合は内外の期待に応えながら順調にスタートすると同時に、経営側からの期待も大きく広がっていった。

鷲尾悦也事務局長(左)・筆者(中央)・山岸彰・初代会長

★政界でも自民党から社会党まで、右から左まで、唯一共産党を除いて、各党とも友好関係をもてた。自民党からは「新人議員(一、二期生議員)の勉強会」に呼ばれて、二時間話す機会をもらった。森喜朗幹事長からの依頼だった。

★連合のマスコミ担当を務め、新聞記者の皆様と勉強会を定期的にやり喜ばれた。そのくらい連合がもてはやされたり、また労働界のことが世に出ていなかったので、興味をもたれた。お陰でマスコミ界、自民党に多くの友人ができた。

★平成五年(一九九三年)、この年は忘れられない出来事が次々と起きた。この頃、自民党の長期政権が問題視され、非自民政権をつくる気運が盛り上がってきた。その重要なきっかけになったのが小沢一郎氏と連合の山岸会長との会談だった。この会談は、平成五年二月二十一日、ホテルニューオータニの和食料理店でやった。

小澤一郎氏 山岸彰・連合初代会長

★この二人は、少し前ちょっとした事で仲たがいし、その後二人とも時の人だったので、どちらからも会いたいのに、云いだせずにいた状況だった。それを是非とも実現させたいと考え、内田健三(政治評論家)と相談し、双方に私が直に「相手が会いたいと云っている」といって会談にこぎつけた。この席上、小沢氏は、「政治改革の必要性と、その為には離党も辞さず。山岸さんに、この身を預けるのでよろしく。今日迄の失礼の段お許し下さい」といって頭を下げた。これに山岸会長も納得して、その後の関係が進んだ。

★その後、関係者で水面下での政策すり合せの協議に入った。メンバーは、社会党のブレーンの一人でだった高木郁郎日本女子大教授、野村総研の徳田博美顧問、新生党の平野貞夫氏(小沢一郎側近)と私であった。会議は四、五回程やった。これが後の七月二十九日の七党一会派による連立政権合意の下敷となっていく。

★この間、六月には衆議院が解散し、七月十八日が投票日となった。選挙直前に自民党が割れ、新党が相ついで結成された。結果は自民党が半数割れ、社会党は惨敗で、結果七党一会派での連立政権が合意された。自民、社会の二大政党時代の終焉を告げた。

★細川政権ができるまでの二十日間位は忙しかった。小沢氏中心で調整が行われた。なにせ七党一会派の集団だから大変だった。細川さんは割りとすんなり決まったが、その他のポストは難航した。 最終的に、社会党の土井たか子さんを衆議院議長にしたり、武村さんを官房長官にしたことを含め、 苦心の様子がうかがえる。政治の混迷期の始りだ。今の状況に似ている気がする。

★細川政権はその後八ヶ月で終り、羽田政権、村山政権の自、社、さ政権となり、政権交代に終止符を打つことになる。


★労働運動から政治の世界に少しだけ首を突っ込み、いろいろと経験をさせてもらった。あれから十五年、日本で初めての本格的政権交代が民主党という事で実現した。私にとっても長年の懸案であっただけに喜びも一入のものがあったが、余りにも未熟な総理であり、わずか三年で私を失望に落し入れた。誠に残念なことだった。

★村山政権で大きな挫折感を味わった山岸会長と私は二人で連合の仕事を辞することになる。その年の九月のことだった。

◆全労済時代
★平成五年十月、連合の副事務局長を辞任し、全国労働者生活協同組合連合会、略称「全労済」の常務理事に就任することになった。保険の協同組合である。担当は、情報システム部と共済開発部という二つの部であった。

★就任五ヶ月後に阪神淡路大震災が起きる。この具体的な対応部署が私の担当だった為、第震災三日後には現地に駆けつけることになる。船で神戸港に着き、それから歩いて長田区を始めとする被災地を視察した。見渡す限り焼け野原、唯々唖然とした。

★損保会社としては、一軒一軒被害状況を査察してその度合いによって損害程度を決めるのだが、素人常務の私は、地区、地番で決めて早く被害者に保障すべきと判断した。しかし役員会ではひんしゅくを買ったが、次の役員会では保障のスピードを早めるとのことが評価され、結果は大好評で決着した。

★素人役員の判断もたまには良いものだという話が後から笑い話で残った。この事で加入者が増えたという後日談もあった。

★この全労済で七年間お世話になり、社会人生活の最後をここで終えることになる。全労済の七年間は自分の最後の職場としては恵まれすぎるくらい楽しい職場だった。まず素晴らしい仲間に恵まれた。慣れない仕事だったにも拘らず 助けてもらった。関連会社の方々にも暖かく接してもらった。本当に幸せなことだ。今でも親しくおつき合い頂いている。

★この全労済で四十二年間の社会人生活を終えることになる。六十五歳まで多くの皆さんに支えられ、楽しく、悔いのない仕事ができたことに感謝したい。

◆闘病記
★幼い頃から健康で丈夫に育った。特に疎開して毎日四㎞の学校に通って、鍛えられたお陰で、中学校時代は病気ひとつせずに一日も学校を休むことなかったスポーツ少年だった。大学時代も全く病気とは無縁だった。

★会社に入り、労働組合活動に足を入れ不規則な生活が進んだせいか、四十歳代に入ったころ糖尿病といわれ、薬のお世話になり始めた。医者からいろいろと生活指導、食事制限などの注意をうけたが、それを聞いていられる生活環境にはなかったし、気持ちにもなれなかった。 結局、薬は多くなる一方で、小康状態を保ちながらの毎日だった。それが今日まで続いている。長いつき合いになる。

★六十五歳で仕事を終えて、六ヶ月後の四月に、糖尿病のかゝりつけの担当医から定期検診の結果、レントゲンで胸に陰がある事を指摘され、直ちに精密検査をすると、どうも肺ガンらしいということになり、更に入院して検査ということになった。結果、小細胞肺ガンと診断された。その時の医者の言葉は、今でも耳に残っている。「一番タチの悪いガンで、生存率二割」といわれた。

★「痛くもかゆくもない。放っておいたらどうなりますか」「半年以内に間違いなく死にます」 こんなやりとりで入院、治療を決めた。ひらき直りの入院生活で、手術もせずに奇跡的に全治し、四ヶ月の闘病生活を経て、元気になって退院できた。その後、肺が弱ったせいか、肺炎での入院は四回程あるが、いずれも二週間以内で回復し、元気で生活している。

◆友人達
★ふり返ってみると常に、どの時代でも友人に恵まれている。その事を財産として、今でもその交友関係を大切にしている。中学時代の友人は五人の仲間だったが、その中の一人は、小学校から大学まで学校が一緒ということだけでなく、クラスまで一緒だった。だから卒業写真はいつも一緒に写っている。

★疎開した二年間と浪人中の一年間だけ違っていたという、希にみる珍しい友人である。大学卒業時に、当時の人気番組「私の秘密」に出ようかと云っていた。それが片山毅君である。高校時代は、これに加えて友人がふえ、今だに月一回の飲み会で話に花を咲かせている。

★大学時代は、授業にろくすっぽ出ていないで、神宮球場と雀荘で会う程度の私に、卒業後も暖かくつき合ってくれたD組のみなさん。 会社では、入社五年で労働組合の専従になったにも拘らず入社時からの親友がいて、彼等とは家族ぐるみでのおつき合いをしている。この仲間とは、夫婦そろって八人で海外旅行も数次にわたって楽しんだ。

★労働組合を生涯やったせいか、先輩、後輩に太い絆の人間関係ができ、そのことで良い仕事ができたと思っている。時代々々の経営者とも忌憚のない意見交換ができる良好な関係でもあった。幸せ者だった。 労働組合の上部団体にいっても、その都度新しい人間関係にも拘らず、連合の山岸会長を始め、多くの人々と共に、いゝ仕事ができた。

★全労済でも、担当部の職員を七、八名のグループに分け懇談会を開催し、(1)何の仕事をしているか(2)その仕事に対するやり甲斐は (3)これからの展望について、更には私への要望。以上を私に教えて欲しいとお願いした。これは大好評で、以後良い人間関係ができ、仕事の上でも大いに役立った。

◆政界の人々
★連合で政治担当をやったお陰で、政界の人々との交流もできた。政界の人々との出会いは、私の所属していた組合が「同盟」というグループに属していた関係で、支援政党だった民社党の人々だった。

★労組活動をやりながら民社党の地域の役員をやった。東京七区連委員長という役だった。東京の三多摩全域が担当だった。昭和五十年代に四、五年やった。その後民社党の最年少中央執行委員に就くことができた。佐々木良作委員長時代だった。その頃民社党と公明党は中道勢力の協力時代を迎え、竹入委員長、矢野書記長とは、東京に於る公・民選挙協力で相談したりした。そんな関係もあって、後に細川政権誕生前夜、山岸会長と公明党市川書記長との会談をセットしたこともあった。

★菅直人氏との出会いは、かなり後になる。彼は社民連からウィングを伸ばそうと考えた頃、先方から話があり、武蔵境のマンションに数回招かれ、伸子夫人ともども交流を深めた。

2007年4月の統一地方選で市議選の民主党候補応援に駆け付
けた菅直人代表(当時)と小平駅前で

★自民党のみなさんは、いつも紳士的で、大事にされたおつき合いをしてもらった。福田康夫元総理とは、彼が丸善石油時代に私と同期入社の友人が遠縁に当るということで、何故か私に紹介したいということで逢ったのが最初で、以来年に一、二回杯を酌み交わす仲になった。ある時、父の跡をついで立候補することになり、本人も急遽のこと故、一緒にびっくりした。

福田赳夫元首相 福田康夫元首相

★当選し、霞ヶ関ビルの東海大ホールで東京の祝勝会が催され、およばれした。おっとり刀で出席すると、突然父の赳夫氏が、「一言お祝いの言葉を」といってこられた。勿論、場違いですからとお断りしたが、「康夫に、そういう分野の違う友達がいるということは大事なことなので頼む」と言われ、お断りし切れなかった。

★森喜朗元総理、早稲田で同期ということもあり、長いおつき合いで、よく一献かたむけた。飲み方は誠に豪快で楽しい酒だった。彼によくついてきたのが中川秀直元官房長官で、一緒に飲んでいてわかったのだが、彼は私の杉並区立神明中学の七期後輩であった。森さんは、私が連合を卒業する時に、盛大な送別会を向島でやってくれた。

森喜朗元首相 中川秀直元官房長官

★総理になって間もなく、「神ノ子発言」でバッシングにあったので、すぐ官邸を訪ねた。森さんは、相好を崩し「総理になって初めて気を遣うことなしに話ができて嬉しい」と喜んでくれた。わずか三十分のことだったが。

森首相(当時)と官邸で

★麻生太郎元総理、彼は羽田政権から村山政権誕生の頃、自民党の裏方をやっていて、私が連合で同じ役割をやっていたこともあったので、同志の間柄でよくウマが合った。普段使う場所は、決まってホテルオークラのバーだった。ゆっくりやる時は料亭と、場所をしっかり分けていた。さすがと思うのは、他の議員さんの料亭とは一ランク上の感じがした。 麻生さんの良いところは、義理がたく、責任感が強く、仁義に厚い、私の好きなタイプだった。

麻生太郎元首相

★細川元総理とは、総理誕生の少し前から総辞職までの八ヶ月余りのおつき合いだったが、総理公邸で三回程、山岸会長、鷲尾事務局長と食事をご馳走になり歓談した。

細川護熙元首相 鷲尾悦也・第3代連合会長

★小沢一郎さんとは可なり長いおつき合いではあるが、いわゆる本当に親しいという間柄にはなりにくかった。この辺りから彼は何時も孤独で真の友人がいないという事が推察できる。こうしてみると、やはり自民党には人物が多くみられた。こんな言葉は使いたくないが、「生れ育ちの違い」なのだろうか。

★政治家ではないが、政治活動を介して知り合ったのが浅利慶太さんだった。東京都知事選挙で、昭和四十年代の話である。浅利さんが鈴木俊一氏の選挙責任者になり、私が同盟の責任者という出会いだった。以来交流が続き、劇団「四季」の公演の初日の招待状を十数年に亘ってお送り頂いた。いつも女房と楽しませて頂いた。ありがたいことであった。 人の上に立ち、それなりに名をとげた人は、みな人を大事にし、しかも義理固いという共通点が見られる。
        
        
劇団四季の公演初日のパーティーで浅利慶太氏と

◆家族
★妻、由美子には結婚以来四十八年、苦労のかけっぱなしで、感謝とお詫びの言葉しか見つからない。労働組合の専従になって半年後に結婚し、その一年後には長男が誕生し、風呂もなく、外風呂の小さな借間で、毎日いつ帰るともわからない旦那をよく我慢して家族を守ってくれた。選挙違反問題、北海道転勤で慣れない地での寒さにも耐え、本当によく頑張ってくれた。東京に戻り二年後に長女が誕生、運良く一男一女に恵まれた。二人とも本当に可愛かった。

★息子は小学校から野球少年で活躍、街の花形選手だった。女房と二人でこのチームの応援と世話焼きをすることになり、チームが勝ちあがるたびに試合が増え、日曜日のほとんどをこれに費やすことになる。被害者は娘で、いつも兄貴の野球の応援につき合わされるはめになった。少し可哀そうなことをしたと思う。

夏休みの家族旅行で(撮影?) 夏休みの家族旅行で(78.7.31.撮影)

★息子隆之は、都立の高校を出て、一浪で早稲田大学に合格し、我が坂本家の直系四代早稲田大学という偉業を成し遂げてくれた。娘江梨佳は私の母の母校共立女学院に高校から行き、大学を卒業する。

★息子は現在フジTVの報道局で、娘はサントリーでワインアドバイザーの資格を取ったりして、それぞれ楽しく仕事に励んでいる。これ以上の親孝行はない。二人の子供がこんなに立派に育ったのは、偏に女房のお陰だが、それに対する(ねぎら)いの言葉が出てこないのが悔やまれる。

◆女房に感謝
★ほんの少しの女房孝行として、やっと海外旅行に行くことができた。それも停年間近にやっと実現できた。三人の友人夫妻と八人で、カナダ、イタリアへ、大学時代の友人家族とセントルシアへ、家族でマレーシア、クアラルンプールへ、くらいで、もう少し女房孝行をしていればと思う。

カナダで フィレンツェで65歳の誕生日を迎える

★わがままで仕事中心で、かつよく飲み歩き、家族を顧みず、入院までした人間によくやってくれたものだとしみじみ思う。 加えて私の父母の看病、自分の両親の看取りも長女として十二分にやってくれた。お陰様で、女房、家族に支えられ仕事一筋にやってこられた幸せは、言葉に表すことができない。

麻雀同好会での坂本夫人(2012年8月例会)

★唯一惜しいのは、もう少し経済的に家族に残すものがないことの申訳なさであるが、私自身が悔いのない人生を送らせてもらったことで、お許し願いたい。たゞ感謝、感謝。(2012年9月 記す)

第24回小平稲門会総会で校歌斉唱を指揮する筆者(中央)

印の写真はwikipediaから転借しました。


♪BGM:Johann Sebastian Bach [G線上のアリア]arranged by Saya Tomoko♪

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