いなほ随想
特集



老鉄よもやま話
(鉄道趣味と私)

第3集


遠藤雅司(31法)



(連載第9回)

「早稲田大学鉄道研究会」と60年の想い出 (1)


★先に、終戦時の体験記を当小平稲門会ホームページの
「いなほ随想特集 私の戦争体験」に書きましたが、終戦は縁故疎開先の長野県佐久で迎えました。終戦の年は、石炭の不足で鉄道幹線の信越本線でも運休する列車が多かった。このため、学生は戦争は終わったのに通学が出来なく、自宅で自習するようにと学校から連絡があり2ケ月近く休校の状態でした。鉄道省や日本政府は、石炭不足の状態を知っているのだろうかと腹が立った覚えがあります。

★10月頃からやっと通学できるようになりました。この頃小海線の列車に薪を炊いて走らせる実験がありましたが、火力が小さいのか長く続きませんでした。

1.少年時代

★私の家は、上野駅に近く、発車する蒸気機関車の音を子守歌のようにして大きくなりました。母は忙しかったので、女中によく機関車を見に連れていってもらいました。機関士になることを夢見る少年でした。大きくなると、見るだけでは我慢できなくなり、列車に乗せてもらうようになるのは自然な経緯で、小学校の上級生になると山手線や京浜東北線等の電車に一人で乗り歩くようになりました。

戦前の京浜東北線の電車 戦後の省電(省線)電車
写真:「鉄道 データファイル」(デアゴスティーニ・ジャパン発行)から転借

★小学五年生の夏休みに、両親の郷里、信州佐久に一人で汽車の旅を初経験しました。この時の不安と心躍る複雑な気持ちは、今でも忘れられません。今なら、長野新幹線で東京駅から1時間20分で佐久平に着きます。しかし、昔は、6時間も掛かりました。日帰りなど出来ませんでした。今は日帰りです。

★昔佐久まで行くのに、当時、4種類の機関車に牽引されるので楽しみでした。鉄道ファンにはたまらない区間でした。変わる機関車は、上野―高崎間がスマートなC57、高崎―横川間は貨物用のD50かD51、横川―軽井沢間はアブト式のED42、軽井沢―小諸間は又D50かD51で、最後の小海線がC56蒸気機関車でした。蒸気機関車の全盛時代でした。行く時は、必ず高崎で駅弁を求め、列車が遅くなる碓氷峠のトンネル区間で弁当を食べるのが楽しみでした。

スマートなC57機関車 貨物用機関車D50
お馴染みのD51
写真:「鉄道 データファイル」(デアゴスティーニ・ジャパン発行)から転借

2.中学・高校時代

★中学時代は、東京大空襲で家が焼かれた為、一家全員で父の郷里佐久に疎開して生活することになりました。昭和20年3月、小学校の担任から、機械が好きなので小諸の工業学校を薦められ、受検して合格しました。佐久の岩村田から小諸まで、小海線で通学することになりました。鉄道が好きな人間には、最高の喜びでした。憧れの蒸気機関車に毎日接する事ができて幸せ一杯でした。しかし、学校に入学すると、戦況が悪くなり、授業どころでなく、直ぐ農家に勤労動員に行く事になりました。

昭和20年8月15日、戦争が終わりました。これから通学できると思っていたのに、石炭不足で運休列車が多く学生は自宅待機で2ケ月近くお休校でした。やっと10月から通学することになりました。1年間遊んでいたようなものです。学校が早く終わると、小諸の機関車車庫に遊びに行き機関士と友達になるのは早かったと思います。これは、熟練の機関士は、出征した人が多く、若い機関士が多かったからでしょう。

★機関士と仲良くなると、「高原ポニー」F写真 と呼ばれていたC56機関車の運転室によく乗せてもらうようになりました。想像していた以上に振動の激しい運転室を味わった貴重な体験は、一生忘れられない事です。しかし、運転室に乗って通学するような事は、敗戦前後の混乱期が続いたから出来たことだと思います。戦後落ち着いてからは「許可無く乗車を禁ずる」と書いた掲示が機関室に入口にはられるようになりました。

[高原ポニー」の愛称で呼ばれたD56 可愛いD56
写真:「鉄道 データファイル」(デアゴスティーニ・ジャパン発行)から転借

★やがて、終戦後3年過ぎ、少しずつ社会も復興してきて鉄道事情も改善し、東京に帰る家族が増えてきました。家を焼かれた親父は、東京に家を建てる資金が無いのか、東京に帰る素振りを全然みせませんので、私が行動を起こす事にしました。丁度、学制が変わり我々は、新設3年終了後、高校の1年生になる事になったので、小諸では、高校への進学を断り、上京することに決めました。中学の先輩の紹介で下宿できる工場に就職することに決めました。まず下宿できるのが重要でした。学校は、定時制高校が開校するので、働きながら行くことにしました。昭和23年3月末の頃だと思います。母親は心配そうでしたが、誰も反対する者はいないので助かりました。

★私は、一人で梱(こり)一つ持って上京しました。東京の交通事情に詳しい私は、全然恐怖感はありませんでした。夕方目黒区の、これから就職する工場の寮に到着しました。

★東京に着いたら驚きました。あちらこちらに焼け跡がまだ残っていました。下谷の我が家の付近もまだ焼け跡のままでした。都内の国電は、少しずつ修繕されているようですが、窓ガラスがなく木板が貼ってある電車が走っていました。また、この頃ヤミ米を列車で運ぶ人が増え、大宮や赤羽等、東京の入口の駅で毎日のように列車を止め警官が取り締まっていました。私も信州の帰りに出会った事がありましたが、取締りが始まると車内は、せっかく持ってきた米を車内から外に放り投げる者もあり大変でした。今考えると馬鹿らしいことです。

★上京して10日もたてば東京に慣れてきて、休日には新制高校の募集状況を調べ歩きました。しかし、なかなか希望するところが無く、焦ってきた頃新聞に「早稲田大学付属工業高校」の募集広告が載っていました。都合よく夜間授業の定時制でした。親の仕送りを当てに出来なく働いて学校に行くことを覚悟して来たので、喜んで手続に行きました。お陰で入学試験を受け合格しました。

その後、会社の社長に合格を報告したら、反対され学校に行くなら辞めてくれとの事、困りました。都合よくこの時、父親が息子一人で上京してきたのが心配か、東京に来ていましたので、下宿先を探してもらうと、戦争中父がいろいろ世話をした知人の家に下宿する事になりました。早速、引越しました。鞄一つの引越しですから簡単です。今度は仕事です。当時高校の事務所で仕事の紹介をしていましたので、相談して見ると鉄道ファンが好む、鉄道模型制作所を紹介されました。早速、アルバイトとして入社することにしました。しかし、高校生のアルバイトに模型など作らせるはずがなく、毎日が地方への荷造りと発送ばかりで疲れてしまい、工業高校に入学したのに、疲れて休んでばかりいました。

★ところが、幸運が突然飛び込んで来ました。私が学校に来ない事を心配してくれたクラスメイトのN君から、そんなに疲れるなら、今大学の図書館で学生職員を募集しているから、採用面接に来ないかと誘われました。仕事と学校が同じ所で出来るとは、勤労学生には大変有難いことです。早速、翌日アルバイト先を休み面接に大学図書館に向いました。簡単な面接で採用が決まり、即刻明日から来て下さいとの事で驚きました。そこで会社には電話で辞表を伝え身分証を郵便で返却する事にしました。時は、昭和23年7月10日でした。大学に就職することになりました。幸運な事でした。

昨日までは、下宿先の日暮里から(山手線)―新橋―(都電)―六本木(会社)―夕方―(都電)―渋谷―’(山手線)−高田馬場―学校―帰りー高田馬場―’(山手線)―日暮里―下宿と毎日山手線を一周していました。明日からは、都電で三ノ輪から―御徒町―早稲田乗り換え1回で行けました。早いのは、日暮里―高田馬場間を山手線だけで30分で行けした。体はかなり楽になりました。

大学図書館に就職することになって、鉄道に関わる交友が大きく広がるとは考えもしませんでした。というのは、翌年の昭和24年4月に新制の高等学院が開校した時、一年のA君がアルバイトとして図書館に入ってきたからです。このA君は、よく東海道本線の電気機関車に乗り込んだり、何時も持っている大きな鞄の中には教科書でなく当時の東京鉄道管理局の電車の運行ダイヤや鉄道規約等を詰め込んでいました。しばしば二人で当時の太井工場や東京機関区、尾久機関区等に見学に行ったものです。

★息子の上京で父も東京で商売を始めることになり、千住に家を借りたので、私も一緒に住む事になりました。お陰で家賃がいらなくなり小遣に余裕が出てきて、“鉄ちゃん”(鉄道ファンの愛称)を気楽に楽しめるようになりました。この頃、カメラもフイルムも高価で、鉄ちゃんもお坊ちゃんの趣味でした。

★A君は、昼間は学校で夜アルバイト、私とは反対でしたがお互いに授業の無いときは、図書館に同好の仲間を連れ集まり交友を深めました。当時学院は、現在の文学部がある戸山キャンパスでした。彼らは、無試験で大学に進学できる事になっていますが、私は、受検しなければなりません、彼らに負けられないので、定時制は、4年制なので、4年になると図書館が終わる4時から授業の始まる6時まで、1年間受験塾に通う事にしました。鉄ちゃんはお休みです。

★一年の苦労の甲斐あって、27年3月、第二法学部に合格しました。当時鉄道同好会の親玉のM氏は、学院3年の時、同好団体に登録して名乗りを上げたかったようでしたが、登録者する者が少なく登録できませんでした。だが、翌年の27年には、学院から8、9名の進学者いて、私も含めて、正式に同好団体の登録人数15名で申請する事ができ、学部長会で承認されることになりました。ここに「早稲田大学鉄研究会」が発足することになります。昭和27年5月でした。

3.大学時代(早稲田大学鉄道研究会)

★最低の人数で創設したミニクラブ「鉄道研究会」は、何時消滅しても不思議でないと思っていたのが、平成5年には、創立40年を祝って記念列車を運行しました。それから、10年経って平成14年には、創立50周年を迎え、今度は、蒸気機関車運行の記念列車を運転する事が出来ました。これは、1,000名以上になるOB会員の協力のたまものと思います。創立の時から関わり、卒業後も大学に残り、鉄等研究会の世話をしてきた者にとっては感無量です。我々の時代には、人数も少なく全員で機関区や工場をよく見学に行ました。また地方にも写真を撮りに行ました。まだカメラやフイルムの高価な時、お坊ちゃんの遊びの会でした。しかし、その後入会して来た会員に優秀な人達が多く、機関紙の発行、分科会等を創設して会の基盤を作ってくれました。これが会の発展につながったと思います。

早大鉄研40周年記念列車の新聞記事(読売新聞 93年3月7日) 40周年記念列車の乗車券
50周年記念列車の前で写真に納まる早大鉄研OB(左から2人目筆者)

★早稲田大学には、公認、非公認あわせて2,000以上のサークルがあるそうです。大学の創立125周年の時、戸山キャンパスに全国でも珍しい10階建ての学生会館が建設されました。公認されたサークルは、全部入居したと思います。鉄道研究会も今度初めて部室を貸し出して貰い、サークル活動の拠点としています。

★4年間のサークル活動をして得た知識を前面に出して就職に繋げる人も多いと思います。鉄道研究会の卒業者の理系の人はJRや日立、車両工場など、文系の人はJTBや東急観光、私鉄などに就職する人が多いですね。

★サークルの
卒業生から年賀を頂くことがあります。昨年の年賀で、JR東日本の高崎支社に就職したT君の年賀には、私も嬉しくなりました。その賀状は、尾久駅で電車の最後尾で出発の合図をしている写真でした。添い書きに「高崎線で研修中、尾久駅で出発合図する私です。至福の時です」とありました。小さい時から車掌になる夢を持っていたのでしょうか。微笑ましい事です。幼稚園に通う自分の孫のことを思い出します。孫は一人で車掌の真似をして遊んでいる時があります。やはり夢は電車の車掌のようです。

リニアモーター関係では、名古屋の地下鉄「藤が丘」から万博跡の「八草」までを「愛知高速交通」が日本初の営業運転をしています。このリニアモータカー(磁気浮上式リニア)の会社の副社長は「鉄道研究会」の昭和38年卒のOB会員、藤野政明さん(理工)でした。彼は名鉄電車の技術者でリニアカーの開発で17年苦労したそうです。 

愛知高速鉄道のリニアモーターカー 早大鉄研OBの藤井副社長
中日新聞


★又、JR東海のK氏は、元新幹線の新型電車の開発担当者でした。N700の開発の時、走行実験でトンネル内300キロでのすれ違い実験した時の話をしてくれましたが、初実験なので結果が分からず、全員の実験員は決死の気持ちで実験車に乗ったが意外に振動が少なくホッとしたそうです。いつも、面白い話をしてくれるので会うのが楽しみです。今度、リニアモーターカーの山梨実験センターに移動したそうです。 未来の鉄道建設を担当する事は大変でしょうが楽しみですね。又面白い話が聞けるのが楽しみです。山梨実験線を見学した時感じたのですが、当時のセンターの責任者は、早稲田の理工卒でした。また案内してくれた技術者は、皆理工の大学院卒の人でした。早稲田出の多いのに誇りを感じました。

リニアモーターカー(山梨実験センターで)

★さて、早稲田大学鉄道研究会の機関誌は、M君の発案で、昭和26年鉄研発足の1年前の同好会時代に発行しました。この1号は、ガリ版刷りのB版26ページでした。題はM君の案で「SWITCHER」としました。ここには、研究の成果や意見などをまとめて書き上げて載せる事しました。なかなか原稿が集まらず、担当の編集者だけの「SWITCHER」も在りました。創刊から45年たった1997年7月(平成8年)に「SWITCHER」通算150記念号を発行しました。簡単に45年経ったと言いますが、機関誌発行を担当した各会員は、命を掛けて年3〜4回の発行を死守して来た時もありました。現在発行の「SWITCHER」は、当初質が悪く機関誌として今一であった時期がありました。しかし、販売するようになってから、内容もかなり充実してきたのには喜ばしい限りです。現在の発行は、200号越えたようです。

早大鉄研機関誌150号の表紙 同192号

★1960年代、日本の国は。大変な繁栄期であり豊かな国になりました。自動車の所有者も増え、鉄ちゃんの良い道具になりました。列車を撮影に出けるのも自動車です。

4.25周年記念誌を発行

★日本の経済も好調で、学生紛争も無くなり学園は平和になってきました。学生も変わりました。この頃、「鉄道研究会」から出版が続きました。誠文堂新光社より「車両の作り方と運転」「レィアウトの作り方」を続けて出版しました。続いて、広済堂出版から「鉄道のわかる本」「鉄道旅行カタログ」を出版。その頃、鉄ちゃんブームが起こっていた為か、よく売れ、研究会に資金をもたらす事になります。その上、模型運転会の組立式レイアウトを3次に分けて完成します。これにより大きなデパートでも運転会をできるようになりました。このため「鉄道研究会」には、さらに資金がたまり、昭和52年(1977)には、25周年記念誌を発行することができました。OBの寄付を求めることなしに発行できるのは幸運でした。(09.12.21.投稿)





(連載第10回)

「早稲田大学鉄道研究会」と60年の想い出 (2)

★前回、昭和27年に「鉄道研究会」が創設されたことを書きましたが、大学が規定している創設に必要なメンバーは、15名ぐらいだったと思います。我がクラブは、この最低の人数で申請して認可されました。先に書いたことと重複しますが、まさに早大鉄研は、公認ぎりぎりのミニクラブ、最低の人数で創設された訳で、吹けば飛ぶようなクラブでした。初めは、何時消滅しても不思議でないと、創設に参加した者は、皆思っていたと思います。しかし、なんと60年も長く続いてきたのには驚きです。

★我々創設期の者は、早稲田高等学院卒業者が多くて仲間意識が強く、部活動しづらい環境にあったと思います。そこで、この後、会員を公募しました。その結果優秀なメンパーの人達が多く入会してきて、やっと部活動らしき形態になってきました。

★初めは部室もなく、学生会館の大部屋の隅を部室代わりにして長い間不便な所で頑張りましたが、5年ほど前の大学の百周年記念事業で建てられた、11階建ての日本一となる「学生会館」が完成して、その中にやっと入居できることになりました。この学生会館には、約500の部室があります。これからは、良い環境のもとクラブ活動が出来る事を期待しています。

新しい学生会館 25周年記念誌

5.鉄研60年の活動

★ここで「鉄道研究会」の60年間にどんな活動をしたのか、「25周年記念誌」を参考にして話を進めます。同時に、その当時の日本の交通事情についても書いていきたいと思います。

★機関紙(SWITCHER)は、先に書いたように創刊の1号は、B5版ページ孔版印刷で、会が創設される1年前の昭和26年に「鉄道同好会」の名前で出版されました。以後、昨年の11月に196号が発行されました。よくまあ196号も長く続いているので驚いています。雑誌であれ機関紙であれ、長続きするものは一定以上の質、つまり、読む価値がある情報が継続的に提供されているものであるといえます。

★最初の頃は、孔版印刷りの仮製本の粗末な機関紙でしたが、150号あたりからは、一般の鉄道関係雑誌にも遜色のないものになってきて、有料で出版されるようになったのは喜ばしい事です。「早稲田の鉄研に入って活動するために早稲田を受験する」というような存在になり得る会になりたいものです。


179号機関誌 196号機関誌

6.25周年記念誌発行までの歩み

★何時消滅しても不思議でないクラブが、25周年を迎えました。この25年の間、多くの人々が鉄道という一つの趣味のもとに集まり散じました。そこで過去を振り返るのも今後の鉄研のためにと考えて、「早稲田鉄道研究会・25年周年記念誌」が発行されました。

★丁度この頃(昭和40年代)、蒸気機関車が全国から姿が消すようになり、SLブームが起きると鉄道ファンは、一気に増えてきました。幸か不幸か鉄道研究会も、創設から25年たった、1977年(昭和52年)の頃には、現役、OB会わせて300人超える大所帯になっていました。

★創立当時数人の手によって支えられた会もひとつの組織として動いています。そのため、以前では考えられなかった対外的活動も活発になって、街の出版社から「レイアウトの作り方」「車両の作り方と運転」という模型関係の本の作成を依頼されたり、初心者向けの「鉄道のよくわかる本」「鉄道マニアにおくる本」等の出版を依頼されたりしました。ブームに乗ってよく売れたようです。また模型関係では、新宿京王テパート等の会場で模型運転会を行うなど「早稲田大学鉄道研究会」は、全国でも有数のクラブになってきました。

研究会で作っレイアウト参考書 研究会著の鉄道ファン用参考書

★これらの本の出版により研究会には予想外の印税が入り、会の資金も豊かになったので、会員間で協議して「25周年記念誌」も出版する事ができました。

◆昭和27年

★会創設の昭和27年頃は、西武鉄道新宿線は、高田馬場が終点で、西武の電車は、2両編成の小さな電車が走っていました。場末の風景を思い出します。この年3月にやっと新宿まで開通しました。

★鉄研の主な活動は鉄道設備の見学なので、積極的に計画する事にしました。現在より沢山の見学設備がありました。それに各設備の現場では、親切に対応していただき感謝しています。

◆昭和28年

★初めての見学は。大井工場でした。当時は、まだ木造電車がごろごろしていました。この工場は規模が大きくので見る物が多く、この年は、2回も見学に行っています。ここには、歴代の御料車が保存されていました。価値ある見学でした。この年、山陽―九州路へ戦後初の特急が走りました。京都―博多間の「かもめ」です。全線蒸気機関車で運転されました。


大井工場の木造電車の前で 特急「かもめ」

◆昭和29年

★9月、青函連絡船の洞爺丸事故。これが、海底トンネル掘るきっかけになった事故でした。

洞爺丸沈没の大惨事

★6月都電の三田車庫を見学しました。当時は、まだ42系統の都車が走っていましたので都内に車庫は、何箇所もありましたが、主力車庫の三田車庫にしました。8月、国鉄の大宮工場に行きました。今は敷地内に鉄道博物館が開館しました。この工場は、蒸気機関車の修理が出来る工場です。現在、日本中で走っている蒸気機関車の修理をしています。

★この年、山手貨物線の電化がされ、都内から煙が消えました。歳の瀬のせまった12月にも八王子機関区の見学会を開催しました。快晴の風の寒い日でした。SLとELの混合の機関区でした。なるほど八高線、相模線、横浜線、五日市線が集まるところだからSLとELの機関区が必要なのでした。しかし、全線電車化した現在では、廃止されて有りません。

★東京に第2の地下鉄丸ノ内線の一部(池袋―御茶ノ水)が開通しました。

◆昭和30年

★6月、品川客貨車区を見学しました。この時の狙いは朝鮮戦争で大量に生まれた連合軍用客車や製造が活発になった優等客車の見学が目的でした。8月の夏休みに、お互いに同じ釜のご飯を食べて親密になるように、今後、合宿を計画することにしました。この年は、大糸線の糸魚川に集合し、富山、金沢,福井と北陸各地を巡り米原で解散しました。7月に廃線近い東急玉川線、11月には営団渋谷車庫、12月に今は廃線になった東野鉄道を見学しました。

品川駅構内の寝台車の前で

北陸線は、まだ蒸気機関車全盛時代で暑さと煤煙に苦しみました。

◆昭和31年

★小生の卒業の年。大学職員の試験を受け採用されました。この時の試験の問題が鉄道ファンには有難い鉄道に関する問題多く幸いでした。例えば「簡単な日本地図を書き、そこに東海道、東北、信越、上越、常磐等の10路線の位置を書けという、鉄道ファンなら誰でも書ける問題でした。出題者は、鉄道ファンの部長でした。面接の時わかりました。鉄道に関係する問題が満点なので質問されたからです。

★この年に東海道全線が電化されました。それに寝台特急あさかぜ号の新型車両が完成しました。この年の合宿は関西でした。当時関西は、電車王国で東京の鉄道フンの憧れの場所でした。東京から大阪までは、急行で8時間も掛かった時代ですので、大阪行は夜行専門でした。車両ニュースとしては、近代的な気動車が誕生しました。上野―日光間の準急「日光」に使用されました。それら仙山線の直流を交流に変換して、交流電化が開始されるので楽しみです。この年は、見学が活発で6回も行きました。1月に相模鉄道、5月に品川客車区、東京機関区、7月に大井工場、8月京阪電鉄守口車庫、10月は日本車両蕨工場でした。

九州方面行のトップスター寝台特急「あさかぜ」 準急「日光号」

◆昭和32年

★この年の話題は、国鉄が小田急SEを借りて、高速試験をして時速145キロを記録し事です.新幹線に向かっての実験で楽しいニュースです。見学会も大船工場、田端機関区、尾久客車区、大宮工場、北陸線の交流電化基地等を6箇所も実行しました。国鉄は、戦後の復興期で各職場が大奮闘していました。国鉄は、これからの気動車を機械式から液体式にして本格的な気動車時代にする方針を決めました。

国鉄の実験で時速145キロを出した小田急のSE車 本格的な気動車の到来

★早稲田祭には、大学の創立75周年とあって鉄研でも始めて模型部門がHOレイアウトを設置して運転会を実施しましたが、初めての運転会で盛会でした。

◆昭和33年

★この年の目玉は、東京―大阪間に電車特急「こだま」の誕生です。6時間で京都に行けるので、私も小さな長男をつれて乗りました。

★当時の動力近代化の花形であった気動車のメッカの千葉気動車の見学にも行きました。房総全線無煙化の基地でした。8月の恒例の合宿は関西でした。

◆昭和34年

★この年の合宿は、木曾森林鉄道と紀勢線でした。長い間紀勢線は、全通していなかったが、今年の7月全通したので乗りにいく事にしました。まだ鉄道ファンが少なく、駅構内や機関区への立ち入りが自由で,機関士に頼めば気楽に便乗させてくれたものでした。皆で交替でDF50の運転台に便乗しました。それから新緑の5月、ユニークな草軽電鉄が廃止になるので見学に行きました。

★草津・軽井沢高原の山々の尾根を登り降する楽しい軽便鉄道でした(運転士が横に座り運転する超小型の機関車・写真がなく残念)。懐かしい思いです。この後C56の小海線に乗って八ヶ岳高原の風景を楽しんできました。当時は、汽車の写真などを撮っていると気違いあつかいされることも多かった。今思えばよき時代でした。
毎年開催される早稲田祭には、我国初のディーゼル特急になる「特急はつかり」というテーマで参加しました。今はない日本車輌・蕨工場に行きました。

飛行機と競争する東海道線時代の電車特急「こだま号」 紀勢本線全線開通のテープを切る十河信三国鉄総裁(尾鷲駅で)

◆昭和35年

★当時の鉄道研究会は、会員各個人で、それぞれ密度の高い研究している者も多かったと思います。 会としては鉄道の好きな連中が集まってワイワイとマニアの集まりという感じが強かった。この年の特筆ニュースは、初のディーデル特急「はつかり」の登場でした。それと私の世話で会の合宿を、上越線湯檜曽の大学寮に7月と2月の2回行いました。有名なループ線を望む処にあり、同じ列車を2度撮影できる処でした。

★この年も5箇所の見学をします。武蔵小金井電車区、大宮工場、汽車会社東京工場場、都営地下鉄工事現場、大井工場でした。充実した年でした。

[はつかり3代]
SL時代 デイーゼル時代 電車時代


◆昭和36年

★この年の国鉄の動きは、交直流電車の使用開始でした。東京―仙台や大阪―北陸、東京―水戸―仙台間等の長距離が電車化され便利になってきました。

★鉄研の活動としては、田町電車区、尾久客車区、西武所沢工場、新鶴見機関区を見学しました。田町電車区は、東京では一番古く大きな電車区で会員の希望で38年にも見学することになります。

◆昭和37年

★この年、国鉄90周年を向かえました。5月、大きな事故が起きました。三河島事故です。死者165名の大事故でした。しかし何といっても新幹線のモデル線区(鴨宮―大磯)の試乗で時速200キロを体験できて幸いでした。この年も国府津機関区、大宮工場、伊豆急行。東武館林機関区、勝田電車区、東海道新幹線試乗、6箇所も見学しました。

常磐線の勝田行き交直流電車の出発式(上野駅) 鉄研メンバーの大宮工場見学


◆昭和38年

★嬉しいニュースは、新幹線試作電車時速250キロを記録。一方、横川―軽井沢間のアブト式が廃止されました。いろいろと国鉄も戦後の復興期で頑張ってきましたが、また今年も大事故鶴見事故が起きました。これも死者161名の大事故でした。

★夏休み中の恒例の合宿は、千葉の岩井海岸で行いました。ここは、小学校の臨海学校になる所です。この年の特徴として個人プレイでなく合宿、旅行等会員の親睦を深めるように多数の催しを企画しました。見学は、田町電車区、青梅鉄道公園、日本車両蕨工場、西武701系試乗でした。

◆昭和39年

★10月のオリンピック開催にあわせて、新幹線が開通しました。同時に、国鉄赤字元年といわれ日本の鉄道史上忘れる事の出来ない年になりました。また、地下鉄東西線が開通し早稲田の街にも地下鉄が通ることになりました。

★合宿はこの年も千葉の岩井海岸でしました。東京に近く集合しやすい場所なので大勢の参加者となりしました。ゼミナール形式の発表は、個人の研究にも良い結果を生みました。鉄研旅行は、花巻集合、深浦解散の東北ローカル線巡りで、煤煙に悩まされながらの4日間でした。見学は、八王子・立川機関区、日比谷線STO実験試乗、平機関区、新幹線試乗、小山機関区の5箇所でした。見学も東京から遠くなってきました。都電も本格的な撤去方針により銀座通りから姿が消えました。

1964(昭和39)年10月1日午前6時、石田禮助国鉄総裁の
テープカットと同時に新大阪行き「ひかり1号」が東京駅を発車、
東海道新幹線の営業運転がスタートした。
銀座4丁目電停付近えお行く都電。右側の車両は、アメリカで開発
された近代型路面電車。

◆昭和40年

★40年の合宿も岩井海岸になりました。合宿には最適な場所でした。見学は遠い高崎第2機関区と近くの新鶴見機関区にしました。年度末の2月に学園騒動が起こる。そこでこの2月に納会を行い活動を終了しています。

◆昭和41年

★この年は、学生会館問題に端を発した学園始まって以来の学園紛争のトンネルの中からの出発でした。ストライキも1月から6月まで続きました。実質的な鉄研の活動は、この紛争の解決した6月からでした。しかし、見学会は、西千葉気動車区、日本車輌の蕨工場の3箇所見学できました。

日本車両の蕨工場の見学

★この年、山岳路線の信越本線と中央本線に初の特急電車「あさま」と「あずさ」が登場します。

信越線・中央本線に登場した特急電車「あさま」
★連載第10回の写真で*印のあるものは「鉄道データファイル」(ディアゴスティーニ・ジャパン刊)から転写。*印のないものは、筆者撮影。

◆昭和42年

★この年7月から、中央線特別快速を運転されようになりました。9月に新清水トンネル完成され上越線は複線になりました。11月に世界で始めての昼夜兼用寝台電車、581系電車がデピューします。この年の、年間テーマは「鉄道の安全性」でした。最近大事故が続いて起きているのでテーマとしました。見学会は、旅行を兼ねて、5月御殿場線、6月に青梅鉄道公園、12月桐生機関区と足尾線を見学しました。

◆昭和43年

★8月に東北線前線の電化が完成しました。これで青森から熊本まで電化された事になりました。この年、都営トロリーバスが廃止されました。そして未曾有の時刻改表「ヨン・サン・トオ」の大改正が発表されました。国鉄の高速化・効率化の基本方針に従っての実行でした。この為全国に電車特急が躍進しました。私鉄関係では、都営地下鉄三田線が開業します。

この年の年間テーマは、「東京の地下鉄」でした。合宿・旅行は小海線清里、磐越東線、そして、夏休みには、東北の山碇ケ関、花輪線、五能線と撮影名所を巡ってきました。見学会は、大宮機関区、西武所沢工場、佐倉機関区でした。


昼夜兼用寝台電車 531系    トロリーバス
デアゴスティーニ・ジャパンより転借 東京都交通局広報誌より転借

◆昭和44年

★列車の等級制度が廃止され「グリーン車」が誕生します。信越・北陸本線の全線電化が完成します。私鉄では、東急玉川線が廃止されました。

★年間テーマは、「長距離鈍行421列車」でした。上野―青森間760,4キロの鈍行で23時間の長い運行でした。この列車にメンバーで乗車し取材して来て、早稲田祭で発表しました。当時、日本最長距離を走る列車でした。メンバーが青春の情熱と忍耐を注入しきたようです。合宿は、この長距離列車の取材のため、青森と深浦にしました。

★見学会は、4月都電飛鳥山車庫、9月西武秩父線に行きました。この年、大学の早稲田祭は、スト騒ぎで混乱しました。

グリーン車 日本最長距離の列車を取材したメンバー
デアゴティーニ・ジャパンより転借 25周年記念誌より転借

◆昭和45年

★この年、遂に青森―鹿児島間2000kmが電化でつながりました。

★会の年間テーマは、「私鉄の急行」に決りました。会員各自の住居の方向によってグループ分けして徹底調査を行うようにしました。合宿は、山陰の益田で実施しました。当時、山陰本線には、まだC57やD51が元気で活躍していました。強風で列車が転落して有名になった余部の鉄橋も見てきました。この年の早稲田祭は前年のスト騒ぎのような事もなく、正常に11月開催されました。 

◆昭和46年

★4月千代田線と常磐線の相互直通運転始まりました。東京以北では、初となる地下鉄が札幌に誕生しました。鉄研の後輩たちは、学校のスト以後、会の活動は不活発であった点を反省し、見学会、撮影会、鉄研活動等の充実を計画したようです。

★年間テーマは、「動力近代化の中の蒸気機関車」。夏の合宿は、鳴子集合後移動しながら男鹿で解散という形で行いました。この合宿中に秋田の土崎工場を見学しています。

山陰線の名物・余部鉄橋 大正時代の名機C51機関車の前で(土崎工場)
ディアゴスティーニより転借 25周年機関誌より転借

★最近になって山陰線の名物鉄橋「余部鉄橋」の改築が進み、古い鉄橋は今年(2010年)の7月まで使われた後、新しい鉄橋に切替ることになりました。98年使われたことになります。

◆昭和47年

★3月に山陽新幹線が岡山まで開業しました。東京から4時間10分になりました。また8月には、日本海縦貫全線電化が完成します。100周年を記念して、長野管理局が「3L列車」が運転されました。長野―小諸―小淵沢―松本―長野間を3種類の機関車で牽くことから名づけられました。長野―小諸間はDD51、小諸―小淵沢間はC56、(特に小諸―野辺山間は、後補機付)小淵沢―長野間はEF64でした。ものすごい人出で野辺山高原は、撮影する人で埋まりました。10月に鉄道100周年記念式典が行われました。

★11月北陸トンネルで列車火災事故が発生しました。従来の常識が通用しなかった長大トンネルの悲劇と教訓ともなりました。

★この年の年間テーマは、「旅情―上野駅」。見学は、5月に廃止も近い都電に名残りを惜しんで、日本橋―東陽町―錦糸町―須田町のコースを乗ってきました。9月にも都電に再度乗ってきました。夏休みの合宿は、九州の青井岳で行われました。この後、各自九州を旅してきたようです。

◆昭和48年

★山深い木曾谷を走る、中央西線の特急「しなの」に7月から曲線を高速で通過できる振り子式台車を備えた381系が投入されました。これにより名古屋―長野店約40分の時間短縮を実現、電車史に画期的な1ページを飾りました。

★鉄研の年間テーマは、「関東の中の中小私鉄」としましたが、大学で「川口君事件」という殺人事件が起こり、また早稲田祭の参加について会員間でさまざまの意見ありましたが不参加する事にしました。

山陽新幹線岡山開通 381系電車
ディアゴスティーニより転借 ディアゴスティーニより転借

◆昭和49年

★4月にゆとりの2段式客車B寝台登場します(24系25型)。7月念願の関西―北陸を短絡する湖西線が開業します。

★今年も早稲田祭不参加の予定でスタート。早稲田祭に不参加なから、年間テーマは、「大都市圏の鉄道」にきまりました。合宿は、5月に追分セミナーハウス、8月に四国大州に、見学は、アブト式が廃止になった横川機関区に行きました。今回、会に鉄道史、国電、私鉄、模型、対地方輸送等の分科会が追加公認されました。

◆昭和50年

★3月ついに山陽新幹線が博多まで開業しました。これに伴い、国鉄伝統の「つはめ」「はと」が消えました。12月国鉄最後の蒸気機関車が牽く旅客列車が室蘭線を走りました。

★この年の早稲田祭には参加の予定。年間テーマは、「内燃車両」でした。見学は、全部地方ばかりでした。5月に長野運転所、8月弘南大沢車庫、秋田運転区でした。夏休みに日本橋の高島屋で運転会を開催する。

さよならSL「C57] 高島屋での運転会
ディアゴスティーニより転借 25周年機関誌より転借

◆昭和51年

★鉄道趣味人口は着実に増え、わが鉄道研究会も会員が100名を超える大所帯となって、昭和51年度を向かえました。

★今年度は、早稲田祭に参加の予定で年間テーマは、「路面電車」としました。5月の合宿は阿字ケ浦、8月は阿蘇にしました。見学会は、5月に茨城交通那珂湊車庫と小田急相模大野 12月西武所沢工場に行ました。

◆昭和52年
 ★早大鉄研は、この年で創立25周年になりました。この時、現役会員100名、0Bは200名を超えていました。今までは、会員が卒業したらそのままで、会とは縁が切れることになるので、お互いに関係ある組織が必要と学生を援護する組織が必要なので、OB会を組織する事にしました。この年、早速第1回のOB総会を開催しました。今年も1月に国際会議場で総会を開催しましたが、120名を越すOBが出席してくれ大盛会でした。

★この年の4月、東急初の全線地下路線の新玉川線が開業しました。(渋谷―二子玉川) 現在は、後から開通した田園都市線と地下鉄半蔵門に乗り入れています。

★52年の年間テーマは、「新幹線」でした。昭和39年に開通した新幹線も10年以上過ぎ順調に発展博多まで開通しましたので、新幹線の事を検証して見ることにしました。見学会は、横川機関区、米子機関区でした。「25周年記念誌」の記録は、ここで終わっています。

★この25年間、ここに書きましたように、年間テーマを真面目に研究すれば鉄道の関する知識は豊かになり、鉄道各社に勤める積りの人にはいろいろと役に立つたと思います。また見学会も鉄道知識を得るには宝の箇所でした。見学は、一人では絶対出来ません。随分沢山の現場を見学でき幸いでした。26年以降も続けているようですが、現在は現場各所とも合理化のため廃止や統合がすすみ、見学できる場所が少なくなってきました。

★私の仕事が忙しく成り、これまでのようには研究会の面倒が見られなくなりました。25周年以降は鉄研との関係が薄くなり、活動ぶりを細かく監視できなくなったので、会の記録はここで止める事にします。

★早大鉄道研究会は、来年(平成23年)に、創立60年を向えます。今40周年・50周年と同じように、記念事業を実施することは、先月の総会で承認されたので、実行委員会を組織して協議を始めることに成りました。



★ここからは、創立40年と50年記念事業のことを書きます。

[40周年記念列車]

◆平成5年3月7日(日) (1993年)

★創立40周年記念列車運行の日であるが、実際に動きだしたのは、前年の夏休に入る頃でした。OB会員だけで企画するのではなく、学生達の協力なくては記念事業にならなので、学生の幹部にお願しても、初めての大事業なので皆消極的でした。しかし、日にちがないので、一人の幹事を説得して実行委員になってもらいました。まず、夏休みに帰省する彼に、地元のJR東日本高崎支社に問い合わせに行ってもらいました。これが最初です。この学生の委員がよく働いてくれ、会員をまとめて多くの学生が協力してくれ記念事業の成功へと導いてくれました。

★実行委員会でいろいろと検討して実行案を絞り、高崎支社と交渉した結果、下記のように、上野から水上まで記念列車「西北の杜」号と名称して運転することを決めました。最初は、高崎から蒸気機関車D51を希望しきしたが修理中で不可能とわかり、EF55を補機として連結して、EF58との重連運転という事になりました。早速、申込と募金で資金集めを開始しました。

◆運行日:平成5年3月7日(日)
 
[行程]  上 野   [EF58]    高 崎 EF58・EF55 水 上 
 8::53  →   10:44・11:00   →   12:40
 18:22  ←    15:59・15:44     ←     14:48

[客車旧形客車5両]
上野←1号車オハフ33+2号車オハ47+3号車オハニ36+4号車オハ47+5号車オハフ32→水上

★代金 暖房の入らない後部2両は回送扱してもらう、3両分(定員256名)の代金(約150万)で運行出来ことになりました。参加者が少なくて資金が集まらない事も想定して募金も開始しました。この時5000円以上募金して頂いた人には、特製の記念ネクタイさしあけることにして、増収を試みました。結局、OB会員(200名)が、家族を連れて参加してくれたので、黒字で実行できたことは、幸運でした。

早大鉄研創立40周年記念列車EF55の前で EF55と記念撮影の筆者
1993年3月7日(上野ー水上)水上駅構内 水上駅ホームで
早大鉄研40周年記念列車を伝える新聞記事
読売新聞(平成5年3月7日付け)

[創立50周年記念列車]

◆平成14年12月1日(2002年) 

★50周年を記念し、秩父鉄道のC58を貸切、熊谷―三峰間の往復を計画しました。秩父鉄道で交渉したところ、11月の最終の土日曜日まで定期運行するが、12月から3月まで完全に運休するので、12月に入った最初の日曜日(12月1日)の貸し切り運行が決まりました。

★この後、実施までの事は、学生とOBとで実行委員会を組織して資金集めやその他、実行までの細かい事決めていってもらいました。私は、職員を退職しましたのでノータッチで皆さんにお任せして、ただ乗る人に徹しました。実施予算は、列車貸切り150万と聞いていましたが、その他の細かい予算は、聞いていません。資金を集める学生から時々集まった状況を聞いていましたが、なかなか集まり状況が悪く学生も困っているようでしたが、40年の時と同じでした。結果としては、無事に走らせることができました。

★運行時間は、現行の通りです。 (客車5両)


 熊谷     寄居          三峰口

 10:10 → 10:50  → 12:49
              16:18  ←  15:38  ←  14:05


50周年のヘッドマークを付けたC58
筆者撮影

      

                
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