いなほ随想

自転車という相棒がくれた夢

〜ロードバイクへのオマージュ


矢田義行(60政経)

今年(2011年)から小平稲門会の一員になりました矢田義行と申します。どうぞお見知りおきのほど、よろしくお願い申し上げます。

★皆さんに私の人となりを知っていただくために、私の趣味である自転車について、少々お話をさせていただこうと思います。

◆いとこから自転車を譲り受けて

★私は子どものころ、ごく普通の自転車に乗るだけの平凡な少年で、とりわけ自転車に思い入れがあるというわけではありませんでした。

★ところが母方の実家である秋田に遊びに行った際、高校を卒業したばかりのいとこから、「よっちゃん(小学5年当時の私の愛称です)、俺の自転車やっから、いつかこれでウチんとこまでサ、自転車で来いや」と言われ、突然、自分のもとに自転車が舞い込んだのです。

★とっさに私は「う、うん」と返すのがせいぜいで、心の中では「千葉から秋田まで自転車で行くなんて無理に決まってるじゃん」と思ったものです。当然の感じ方だったと思います。ただ、そのいとこの言葉は、ずっと長く心の中にとどまり続けたのも事実でした。

★その後、自転車との付き合いも特段、進展がないままに、大学を卒業して就職した3年目、25歳のころ、突然、その時がやってきました。

◆「ツール・ド・フランス」の衝撃

★NHKのテレビ放映で世界最大の自転車競技である「ツール・ド・フランス」の総集編を偶然目にした私は、心の底から感動に打ち震え、一気に自転車のとりこになってしまったのです。

★フランス全土1周4000キロを自転車とおのれの体力のみで走り抜く、しかもその行程にはピレネー、アルプスという4000メートル超級の山々がたちはだかるという――そこには私のそれまでの自転車に対する考えを大きく変える熱と力が渦巻いているのを感じたのです。

★私はかつて、いとこから「自転車で秋田へ来い」と言われたことを漠然と思い出しつつ、自分も自転車に乗りたい、自由自在に自転車でどこまでも行けるようになりたいとの気持ちが高まっていくのを感じました。

★しかし、ロードバイクといわれる本格的な自転車に乗るまでには、それから10年の歳月が必要でした。結婚、妻の出産、子育て、そして30代になりたての私は仕事も佳境を迎えており、自転車への思いは持ちつつも、思い切ってそこに踏み切ることができなかったのです。

◆10年越し、ロードバイクを購入

★そして「ツール・ド・フランス」との出合いから約10年後の1996年、待望のロードバイクを入手することができました。

1996年に初めて購入したビアンキ(イタリア)の
ロードバイクです。隣にいるのは娘で当時まだ2歳
でした。私もまだだいぶ若いです。この自転車がや
がてイタリアに送られて、紛失という憂き目に遭い
ます。(1996年7月撮影)

★しかし、ロードバイクというものが、見た目ほど乗り手にとって快適ではなく、むしろとても乗りづらいものだということを、初めてサドルにまたがった時に感じたのも確かでした。きつい前傾姿勢、タイヤは細く、ちょっと気を抜くとすぐにふらついてしまいます。

★「ええっ? こんな窮屈な姿勢で4000キロも走り抜く自転車選手って一体なんだ…」これが正直な私の第一印象でした。

★とはいえ、当時住んでいた埼玉の自宅の近くには荒川サイクリングロードがあり、週末には数十キロを走り、次第にロードバイクの楽しさ、魅力に取り付かれていったことは言うまでもありません。

★ところが問題が発生しました。

◆修理→紛失→折り畳みへ

★東京の小平市へ引っ越す計画が持ち上がり、新しいマンションでは、これまで自転車置き場として使っていた部屋が一つ減ってしまうという事態です。ぜいたくな悩みですが、私にとっては深刻なものでした。

★しかし、そんな私にまるで神の手が差し伸べられたような“事件”が起こります。自転車のフレームに錆びが出てきたため、修理に出したのですが、そのフレームが修理先のイタリアでなくなってしまったというのです。

★残念! と思う半面、私には渡りに船の話でした。妻とも相談し、とりあえずお金で返却してもらい、新しいマンションに移ってから、そこで収納可能な自転車を買い直そうという考えが浮上し、そうさせてもらったのでした。

2代目となるビアンキの折り畳み自転車です。1代目と同じビアンキにし
たのは、このメーカーが好きだということもありますが、代理店にお金を
返却してもらう際、「次もビアンキにしますよ」と約束をしたため。約束は
守る男です(笑)
小平の自宅マンション前で。2001年の撮影ですから、この自転車を買
ってまだ1年経たないころです。日常の足としても活躍してくれてました。

★98年に小平に移ってきました。そして2000年の暮れ、プラン通り、折り畳みができるスポーツタイプの自転車を購入したのです。折りたたむとかなりコンパクトになるため、部屋の片隅や自動車のトランクに収まり、とても重宝しました。

折り畳んだ状態が、こんな感じとなります。部屋の片隅に置いておいても
そんなに邪魔にはなりませんでした。家の中においておけば盗難や錆び
の心配もありません。

★週末の天気のよい日は必ずといっていいほどに、多摩湖自転車道路で多摩湖を2、3周し、サイクリングを存分に楽しんでいました。

◆片道25キロの自転車通勤に挑戦

★そんなある日、私は突然、小平から新宿区にある職場への自転車通勤を思い立ちます。きっかけは仕事上でお付き合いのあった女性が練馬区から新宿区までの15キロを自転車で通っているという話を聞いたからです。

★か細い(実際にそうでした)女性が15キロを通えるなら、男性である自分なら25キロは決して無理じゃないはずだ、という妙な確信が湧いてきたのです。

★幹線道路を走る勇気はありませんので、車の少ない裏道のルートを少しずつ探し、やがて自転車通勤をほぼ毎日可能とする生活を実現できたのです。これは約半年間続き、総走行距離は3300キロ超に達しました。

職場の旅行で熱川に来た時のスナップです。東伊豆町の浅間山(標高516m)の頂上なので、自力で
登ってきたようにも見えますが、車に積んできた自転車を出してポーズをとっただけというものです。

★「ツール・ド・フランス」の4000キロを当面、目指そうと、自転車通勤を楽しむ日々が続きました。ところが、そんな私に青天の霹靂の事態が襲います。

◆白血病という青天の霹靂

★2005年8月、定期健診から発覚した血液疾患は予想以上に深刻なものということが判明し、骨髄異形成症候群という血を作る細胞が腫瘍化するという病気を宣告されてしまったのです。

★医師からは、「無治療だとあと半年も生きていられないでしょう。治療は唯一、造血幹細胞移植、つまり骨髄移植しかありません。すぐにでも入院してください」と告げられた私は、頭が真っ白になりながらも、「ああ、自転車通勤ができなくなる」などと馬鹿な考えを巡らせていたのです。

★入院後、急性骨髄性白血病に転化し、一刻の猶予も許されなくなったため、すぐにでも治療に入れるさい帯血移植の道を求め、転院しました。治療は熾烈を極めました。正直のところ、「死んだ方が楽になれるのかな」と思うこともしばしばでした。

★でも、そんな弱気の心が起こるたびに、「いつかもう一度、自転車に乗るんだ」と、青空の下で軽快にロードバイクを走らせる自分の姿を想像しては、気持ちを鼓舞していきました。

★入院から半年後、退院することができましたが、その後も肺炎による再入院、全身のむくみ、心不全、腎不全と、これでもか、これでもかという試練が襲いました。

◆職場復帰、残すは自分なりの“完治宣言”

★そんな状況も次第に薄皮をはぐように改善し、2008年4月に職場復帰をすることができ、社会生活の再開を果たすことができました。出勤回数も徐々に増えていき、次なる目標は、自転車でした。折り畳み自転車で家の周囲をぐるりと回る程度のことはできるようになりましたが、本格的に走るというにはまだほど遠い状態が長く続きます。

★発病から5年後の2010年11月に医師より「もう大丈夫ですよ」と、完治宣言をもらうことができ、自分なりによく頑張ったという褒美の意味も込め、今年(2011年)1月、15年ぶりのロードバイクを購入しました。

2011年1月に買ったロードバイクです。スペインのオルベアというメーカー製です。フレームがカーボン製のため軽く、車体は8キロぐらいしかありません。すごく楽です。 基本的にメンテナンスは自分でします。写真はタイヤを外して、チューブ交換をしようとしているところ。出先における自力でのパンク修理は、自転車乗りの最低要件。しっかりと練習をしておかなければなりません。

★医師の完治宣言はうれしかったのですが、一方、私なりの“完治宣言”はまだ果たさせていませんでした。というのも、自転車で職場までの往復ができた時が、自分にとっての“完治宣言”だと、ひそかに心に決めたものがあったからです。

◆心の中でガッツポーズ。勝ち取った“完治”

★休日の5月3日、決行の日は来ました。入念の準備をし、朝7時に家を出発。1時間29分かかって、職場からほど近い神宮外苑にたどりつくことができました。30分ほど横になって休み、家路に着きます。

5月3日、約6年ぶりに神宮外苑絵画館前に到達!
 自転車と一緒に記念撮影したかったのですが、だ
れもいませんでしたので、自転車クンのみをパシャ。

★帰りはあえて冒険し、井の頭通りなど幹線道路も走ってみました。1時間33分で無事、自宅に到着。私は心の中でガッツポーズをし、“完治”を果たしたことを喜びました。

 [追申]

長々と、私の自転車との付き合いを通した人生の浮き沈みと申しますか、走ってきた、というより、のろのろと歩んできた道のりについて、書かせていただきました。そういう意味では、私にとって自転車とは、単なる移動手段にとどまらない、人生における相棒のような存在となってきたといえるかもしれません。

★どの世界でもそうですが、たとえ、相手が生命を宿さない物体であったとしても、愛情をもって接していけば、その期待に倍する働きをしてくれる、ということを、私は相棒の自転車に感じてきました。私は自転車をこれからも愛していきたいですし、自転車という存在が、もっともっと人から愛される存在になっていってほしいと望んでいます。

 ◆日本一周という果てなき夢

★最後に私の今後の構想(妄想)を書き加えさせていただきます。一つはいとことの約束である秋田への自転車旅を果たしたいということ。もう一つは自転車での日本一周です。無理なことかもしれません。

★でも、これまでもがそうだったように、夢をあきらめず、追いかけていく限り、いつかはそれを実現できるということを信じて、一日一日を大切に生きていきたいと思っております。最後までお読みいただいたことを心より感謝申し上げます。


♪BGM:G.Braga[Angels Serenade]arranged by Pian♪

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