いなほ随想

第三集

振り向けば銀行員生活50年
~右肩上がりの時代から円高時代を駆け抜けて~

小川浩史(35法)

◆鳥取県米子市出身の小川浩史さんが、2010年7月、米子、境港出身の在京経済人OBクラブ「セブンティー」の会合で講演された議事録を承諾を得て登載させていただきました。(ホームページ管理人)

★出身は米子市立町でございます。高校は米子西高です。当時は西高、東高の校区制に分かれておりまして、義方校と就将校は西高へ、啓成校と明道校が東高に行った時代の最後でございます。ついでながら、西高はその後だんだんと女性が増え何年か後には男性が7人になった時があるらしいですね。それで7人の侍と呼ばれた時代もあったようです。

母校、鳥取県立米子西高の新校舎前に立つ筆者 米子市錦公園から見た中海の落日(山々は島根半島)

◆亭主は旧女子高、女房は旧男子高の“ねじれ高校生活”

★けれども、その後だんだんと男性が増えてきまして、逆に東高の方は女性が増えて男性が減っているという現象で、西高の方はどうやら四割ぐらいが男性になって来ている、こうゆうことが昨今のようでございます。後程、銀行時代のお話をいたしますが、取引先をまわっていると、どこの出身かが話題になることもあり、鳥取県の米子ですというと、「あの野球の強い米子東ですか」と聞かれ、男子校の米子東は私の家内の学校で、私は元の女学校だった米子西だと説明すると、面白い組み合わせですねと話題の糸口になり、プラス効果が度々ありました。

★そこから早稲田に行きまして、1960年、昭和35年に三井信託銀行に入行いたしました。

◆早稲田を卒業して三井信託銀行へ入行

★信託銀行と都市銀行とどう違うんだ、ということがあると思いますので、若干補足させて戴きますと、当時は長期金融機関が信託銀行と興銀、長銀、日債銀の時代でございまして、貸付信託とか金融債のような商品をもちまして長期の預金というか、信託商品を集めまして基幹産業に長期貸し出しをしていました。貸付信託は、丁度高度成長の時代でございますので、一番金利の高い時は5年物で8.7%という、そういう時代でございました。

旧三井信託銀行本店(東京都中央区日本橋室町)
(wikipediaから転借)

★都市銀行の方は当然のこと、短期の資金で、所謂商業銀行として定期預金を集めて商業手形を割るとか、どちらかといえば短期の金融を担当していた、その時代でございます。現在は、もう当然垣根がなくなりました。信託銀行の方も、専業信託銀行が8つあったんですけれども、都市銀行も信託を創る、外銀も信託を創る、地銀も創る、更には証券会社の野村証券も野村信託銀行というのを創設していますが、もう完全に垣根が無くなった時代で現在に至っているわけです。

◆かつての上司の誘いでみずほ信託銀行立ち上げに参加

★私がこの3月までおりましたみずほ信託銀行ですが、当時富士銀行が信託銀行を創ろうとしたとき、どういうわけか同じ系列の安田信託は手伝わなくて、私の隣の部署の部長だったんですが四期上の方がスカウトされまして富士信託の役員で入りました。私は三井信託の関係会社の役員を退任してぶらぶらしていた時代が若干ございましたが、お前も手伝えということで、この3月までみずほ信託銀行にお世話になったわけです。私を誘った先輩はその後公益法人協会の理事長に転出し現在も現役で大活躍中です。

★昨今公益法人の問題がいろいろありましてなかなか辞められないようですが、みずほには私がどうも一番最後まで残りまして、ついこの3月卒業しました。従いまして、銀行生活は、この3月で丁度、50年の区切りで辞めたことになります。50年も勤めておりました。どういう分野に勤めていたかといいますと、銀行の業務の中で、一つは投資銀行の業務、もう一つは商業銀行としての業務、例えばみずほで言うとみずほコーポレート銀行というのが投資銀行部門でございます。それから、みずほ銀行というのが商業銀行部門です。

◆投資銀行一筋の50年

★私はどちらかといえば投資銀行部門をずっと長年やったもんですから、殆ど支店の経験は無いんです。若い時に6年程名古屋におりまして、東京に帰ってきて3年丸の内支店なんですけども、業務は後程お話いたしますが、丁度高度経済成長の時代に、企業の退職金がこれから益々増高するので、それを年金化して分散化して給付しなければならないと言う大企業が増えてまいりまして、その分野を信託銀行が取り扱ったものですから、我々のような若手が一斉にその分野に投入されたんですね。それから日本橋の本部勤めを長々やりました。

★私は初代の年金運用部長なんですが、何兆円という金を運用しておりまして、株なんか一日で評価損益が何百億円単位で上がったり下がったりするもんですから、知らないうちに潰瘍になり、また知らないうち治っていたということがありました。大体、証券のディーリング関係をやっている連中というのは意外と潰瘍になる人が多いようです。それだけやっぱり神経を使うということと、体力的にも大変な仕事です。私は割合体力がある方なんですかね。仕事が東京、シンガポール、ロンドン、ニューヨークと昼も夜も無く回るものですから、大変なことですが。

◆世界を昼も夜もなく回り続けるお金を相手に

★世界を金が回っているものですから、私は外国部次長の時に家を建替えまして、それまでの平屋から二階建てにし二階で寝ていましたが、朝は二ューヨーク支店長から電話が掛かってくる、寒い時にわざわざ一階に降りるのは大変ですので親子電話を、携帯の無い時代ですから、まだ建てたばかりの家に穴を開けまして親子電話を付け、朝は二ューヨーク支店長、夜はロンドン支店長、まあえらい目にあいました。大体飲んで帰ったりすると、お前達はいつまで飲んでいるのだというようなことで、夜追っかけられた記憶がございます。

★二ューヨークの方は二ューヨークで、朝家の方の電話でどうしても離してもらえず30分でも一時間でも電話してくるんですね。会社に行ってから支店長の社宅に電話しますからといって、会社に出勤して、今度は彼らが眠る時間までこちらからやる。こういう体力の本当に要る時代、ある意味では高度成長期で遣り甲斐のある時代でございました。その投資銀行業務をずっとやってきたわけでございます。50年の中で、私の経歴は当時の時代では意外と珍しいのではないかと思います。

◆やり甲斐のあった高度経済成長時代

★日本の金融の中心でございます丸の内、大手町、日本橋、この辺に大体40年おりましたから、残りの10年が若いときの名古屋の6、7年ロンドンに次長になってから行った3年です。10年がそういうところで、後の40年は日本の金融の中心地にいた、大変恵まれた時代です。従って、最近の銀行員というのは、先輩から見ると可哀想だと思っているんです。やっぱり高度成長ですと金利も高いし経済活動もなかなか活発でございますので、銀行業務としては遣り甲斐があるのですけれど、最近はデフレの中で景気も悪く、低成長ということは、金融機能としてはあまり良くないんですね。だから後輩たちには大変申し訳ないというような気持ちで、一杯でございます。

★そんなことで、最初の任地が名古屋支店でした。名古屋というのは山陰の人は、学生時代は夜中にとおる場所ですから、出雲号で往きも帰りも真夜中に通る場所なんで、一回も降りたことがなっかたんです。そこに6年ほどおりまして、トヨタさんだとか中部電力、東邦ガスさんたちが大口取引先でしたが、最後は企業年金業務で三重県なんかも担当しましたので、今のイオン、ジャスコの大元の岡田屋さんというのが四日市の駅前にありまして、そこも担当させていただきました。

★まさか、こんな大企業になられるとは思わなかったんですけれども、今の会長が未だ我々が24,5歳ぐらいですから、30代後半ぐらいだったと思いますが、本当にあれだけ大企業に成長されで驚愕しております。唯、岡田さん自身は両親が早く亡くなられたようでして、お姉さん、小島さんという方ですけれども、この方がなかなかの実力者でございまして、岡田会長はお姉さんに育てられたようです。相当歳が違うのですすが、今でも現役でやられているようです。私も懇親にしていただきました。大変な教育者でございまして、やっぱりそういう方達が陰で支えておおきくなられたんではないかと思っております。

★伊勢湾台風、ケネディ大統領暗殺の騒然とした時期に6年間の名古屋勤務

★私が名古屋にいったのは昭和35年ですが、ご存知のように丁度34年、伊勢湾台風がありまして、36年が安保ですね、37年ケネディが暗殺されております。ということで、41年まで名古屋におりました。本当に偉大なる田舎の名古屋だったんですけれども、海の方、伊勢湾も工業地帯もさることながら、本当に素晴らしい発展をしておりますね。内陸の方もトヨタだけじゃあ無しにこの前の万博の効果もあって、内陸と伊勢湾の方がうまく繋がって一体として大変経済発展した地域だろうと思います。

 暗殺直前のケネディ大統領夫妻。(wikipediaから転借)

★私は銀行に入って直ぐに出納に配属されました。新人はまず出納に入れるわけです。金お数えたり整理まとめたりするわけです。要は金の感覚を無くすわけですね我々の時代は紙幣の最高が千円札の時代で、一束百枚で10万円だったんですけれども、お金の感覚ではなく紙と見るように、教育するわけですね。だから、私はあんまり大金を見ても何とも感じませんけれども、そうゆう一つの教育効果があるんではないかと思います。

★出納で一番困りましたのは、新札と畳の下に隠された古札がほんとに数えにくかったことです。特に伊勢湾台風の後で、所謂、箪笥預金といいますか、それが大量に銀行に持ちこまれた時です。これは臭いし、湿っているし、それを数えるのに本当に苦労しました。これを日銀に持ち込んで新しい札と交換するわけです。日銀はそれを焼却する、こうゆう仕組みになっているんですね。

◆年金運用の新しい業務分野へ投入される

★そんなことで、後半は普通の融資業務をやっている最中の時に企業年金業務を信託銀行と生命保険会社が扱ってよろしいということになりまして、その制度の設計から資金運用まで一切信託銀行でやれということで、我々の年代はかなりの人員がその分野に投入されました。

★名古屋の時代は営業の活動、年金の営業活動でトヨタとか、先に述べた岡田屋さんとかいろいろなところを回ったのですが、昭和41年に東京に帰りまして、今度は三菱とか古河とか三井以外の他系列の取引先を担当する丸の内支店に2年半勤務し、もう営業はよろしかろうということになり日本橋の本部に異動しました。年金本部に8年間ぐらい、主に年金の資産運用業務に携わっておりました。その中で、年金資金の運用がこれから海外運用に目が向くだろうということで、お前、ちょっと海外で勉強して来い、ということで、3ヶ月程研修にアメリカに行きました。

年金信託部の歓送迎会であいさつする筆者

★その時は、未だ羽田からハワイまで飛びまして、ハワイで入国して、ハワイでトランジット、また西海岸に飛ぶと、こういう相当な長旅であったのですが、私の両親が米子から出てまいりまして、今生の別れ、みたいな感じで見送りに来たのを覚えております。特に、親父は国鉄マンでしたが、飛行機が大嫌いでして、あんなものが飛ぶはずがない、いつかは落ちるというんで相当心配だったらしく、わざわざ米子から羽田まで出掛けて来たということがございました。アメリカではロスアンゼルス、その後サンフランシスコ、二ューヨーク、ワシントン、シカゴといろいろな金融機関とか政府機関とかで勉強いたしましたが、特に西海岸から東海岸に飛んだ時に、何時間経っても道路だけで家も無く、よくもこんな大きな国と戦争したものだと、つくずく思いました。

◆ニューヨークの三井銀行の一室を借り、年金資産運用の研修

★二ューヨークで、未だ信託銀行の店も無い時代ですから、三井銀行や三井物産にお世話になり、三井銀行で一部屋もらい、そこを拠点として年金資産の運用の研修を一ヶ月ほどやりました。安ホテルに泊まっていたものですから、人事部の方はそれを一つの基準にして、今後の海外出張の規定を作ろうということで、お前の行動を全部書け、ということで食堂から何から毎日日記を付けまして、ぎりぎりの生活で帰りました。後から行った後輩たちから、相当なクレームですね。小川さんがこんな貧乏生活をするもんだから、人事部が渋いんだなんてことを言われましたね。こんな大変な時代でした。

★その後、信託銀行も国際業務をどんどん拡大して行ったので、二ューヨーク支店が出来てから何回も二ューヨークに行ってるんです。最初は9.11事件のワールド、トレードセンターに店を構えていたのですが、業容拡大で大きくなりましたので、マンハッタンの一番突端にバッテリーパークという公園がありますが、その隣に金融センタービルという大きなビルがあり、そこに移りました。

★そこまでは良かったのですけれども、だんだん日本の銀行の不良債権のお陰で銀行の方も海外の店を整理、縮小するということで、再びワールドトレードセンターに移転して、何人か残して帰ったわけですね。9、11事件で、そこへ突っ込んだわけですね。だから日本人社員が3人亡くなりました。最初隣のビルに突っ込んだらしいのですけれど、やっぱり仕事熱心ですから、隣に突っ込んだのを見て、これはいかんわ、ということで、ロンドン支店に仕事を繋いだのですね。二ューヨークの仕事を繋いだ後に降りようとしてやられちゃつたのですね。本当に可愛そうなことをしました。まあ、そんなこともございました。

9.11同時多発テロで炎上するワールドトレードセンター

◆英語が喋れず2か月の語学研修を受けて海外へ

★初めて海外に行くに当って、全く喋れませんでしたので、お前、2ヶ月ほど勉強しろ、ということで、エレックという日本の高等学校の先生の英語研修の機関があるんですね。そこへ行ったんです。まあ書くことと読むことは、日本人は中学校からやっていますから出来るんです。けれども、喋る方と聴く方が駄目なんです。クラス分けする時、書く方と読む方はある程度自信があるものですから、それにより、上の方に行かなければ、良いなあと思っていたところ、案ずることなく、スピーカーからなにか流れてくるんですね。今の会話は病院での会話か薬局でのものか、などと言われてもどこの会話か全然判らない。そんなことで、案ずることなく一番下のクラスからスタートしました。その一番下のクラスの教材に使っていたのがイングリシュ900という900の語いんがあるわけです。

★アメリカの陸軍というのは凄いですね。アメリカの陸軍の恐らく黒人の兵隊とか、そういうのを鍛える教材なんですね。その教材でやったんです。ところが、日本全国から高校の先生が来て、勉強しているんですけれど、我々以上に先生方の発音は直らないですね。もう日本の発音ですから、いくら矯正されても直らない。ましてや、我々はそうゆう先生に習ってきた訳ですからね。良くなるはずはないんです。

★従って、最終的には、もう時間切れで発音は諦めましたといって、判らない時は筆談でやっていました。ある時、オペラが好きで冬の旅が好きだと、ドイツ語ではビンターライゼとは判っていたが、英語でなんと言うか判らず、ウインタートラベルと苦し紛れに話したら、それはトラベルではなく、トリップだと言われ大笑いとなった。

◆海外業務へ回され、香港の店づくりからスタート

★そうゆう笑い話もあるような時代でした。そんなことで、年金の運用課長をやっていた時代に、信託銀行の海外業務がどんどん進んできたもんですから、お前、海外業務にスカウトする、ということで、それだけ信託銀行で英語を喋るといっても、大して喋れるわけでもないのに、人材不足なのか、それ的な人に目をつけましてね。外国部では次長でしたが、部長は常務さんの兼務でした。第一線の海外営業窓口、大蔵省の折衝もあるし、海外の店作りのため世界各地への出張もとなかなか多忙で大変でした。

国際本部次長時代(左筆者。2人次長で右は後の西田社長) 国際本部の外銀パーティー(左端筆者、和服姿は家内)

★最初は香港に作りましたが、香港を作る時にパスポートが切れているのが判ったたんですね。長年海外業務なんか関係ないと思っていましたからね。二ューヨーク支店に偽の電報を打たせまして、年末だったんですが、緊急用件あり、出張してこい、とわざわざテレックスを打たせまして、それを役所に持って行って、こうゆう事態だから申し訳ないけど、一日でやってほしい、ということで正月の二日に香港にいきました。

★香港をいろいろ調べまして、そして羽田経由で今度はアメリカ西海岸に行ったんです。羽田まで帰ってきているのに、家に帰れませんで、トランジットして、今、日本に帰ったけれどこれからアメリカにいくわというようなことで、ロサンジェルスへいって、さらにサンフランシスコまで調査に行ったら、二ューヨーク支店長が、お前、西海岸まで来たら東海岸の二ューヨク迄で来て、我々の実情を聴いて帰れということになりまして、それをやったらまたロンドンからも大西洋を渡って調べに来いと、二ューヨークだけ行くのはおかしいじゃないかと言われるに違いないと思ったんですけれども、やむ終えず二ューヨクまで出張し、休日皆さん出勤で議論、要望を聴いて帰ったこともあります。

◆もののはずみでロンドン勤務3年

★そんなことで、海外の店をどんどん増やしている中で、私はロンドンに3年ほど行ったのですけれども、これも本当は行く予定はなかったたんです。私の同期のロンドン支店の次長が癌の診断をうけ、帰国、結局最後は亡くなりました。その後釜に2期下の同じ一ツ橋出の男を急遽行かせましたら、今度はロンドンで潰瘍かなにかの原因で飛行機に看護婦同伴で帰国してしまいました。ここにいたっては、それじゃあ、お前行って来い、身体だけは丈夫そうだから、緊急に行って来い、ということとなり、普通は家族の学校の問題等あり支度で一ヶ月ぐらいの猶予があるが一週間後に赴任しました。向こうでは邦銀の次長仲間ほか取引先にも挨拶まわりをしましたが、なんと三井信託の次長さんはすぐ変わると冷やかされ、いやいや、私は身体だけは丈夫だということで来ておりますから等言っている内に、結局3年居りました。

ロンドン支店の面々とのゴルフコンペで(右から2人目筆者)
イギリス在勤中、家族と暮らしたロンドン郊外の
サリー州チームの借り上げ住宅の前に立つ筆者
イギリス在勤の後半はロンドン北部の住宅を借り上げて家族と
暮らした
家族写真(左から2人目家内。ロンドン北部郊外の
故チャーチル首相の生家ブレナム宮殿の庭で)
家族写真(テームズ河の上流で)

★本当に、日本の銀行のいい時代でございまして、地銀さんも、80年のはじめごろでしたがかなり進出されました。山陰では山陰合同銀行が二ューヨークに出られましたが、ロンドンでは5、6行の地方銀行さんが店を構えられました。丁度、私がいった頃はフオークランド戦争とか、チャールズ皇太子がダイアナさんと結婚した時です。サッチャー女史が首相になった時でもありました。フオークランド戦争の時は私驚いたのですが、あれは国民性かなと思ってですね、戦争は戦争、普段の生活は生活なんですね。

◆イギリス人の国民性を実感する事件

★だからサッカーでもなんでも大騒ぎするんですよ。日本だったら戦争体制ですよね。それがこうゆう時こそ軍人が現地に行って働く。そのために、平時軍人を税金使って養っているのだという発想で、これがアングロサクソン民族の発想なのですね。これは日本的な感覚ではないなとつくずく思いました。唯、皇室の方から次男ですが王子がフオークランドの方へ行きましたからエリザベス女王は大変心配されたようです。まあそういうことが一つ。それからサッチャーというのは、これは凄い人だったですね。

★今、ワールドサッカーがありますが、ヨーロッパではカップファイナルというのがありまして、所謂欧州選手権です。これは、同じように、今回の選手権はスペインが優勝したようですけれども実はフーリガンとゆうのがいますよね。騒ぐ奴、あれがその時、欧州選手権の時にイタリーとスコットランドですかね、ベルギーの会場で大喧嘩になって、火をつけたり、えらい騒動になって人が亡くなったんですね。ところがですね、凄いですね、そういうところで中止にしないんですよ。そのまま、ある程度警察で抑えた後に試合を続行しているわけです。

マーガレット・サッチャー元首相
(wikipediaから転借)

★私も丁度その時にお客がありまして、家に帰ったら夜10時、11時にまだ試合をしているんですから、驚きましたね。そうしたら、サッチャー首相はスポーツ大臣というのがいるのですが、男の、お前首だ、と。そんな恥さらしなこと、イギリス国民がベルギーにいってそんな卑怯ことをやるのは怪しからんと、スポーツ大臣、お前の教育が悪いんだ、と即刻首にしたんです。だから、あの女は凄いなあと思いましたね。そうゆうことで3年おりまして日本に帰りました。

◆日系企業の海外進出の支援業務の責任者として

★年金の方の部長で帰りまして、年金の運用を担当していたのですが、その後本店営業部長ということで、日系企業の海外進出、特にバブルの丁度前だったのですが、海外でゴルフ場を作るとか、リゾートホテルを買収するとか、ビルを買収するとか、そうゆう話が一番多い時でございました。お前やれということで、世界中でやってもしょうがない、限られた人数でございましたので、私の部下にはハワイを中心にやれ、と命じておりました。その方が効率が良いんで、オーストラリアとかアメリカの西海岸とかイギリスとかいろいろありましたけれども、殆どハワイを中心にいろいろリゾート開発をやったりゴルフ場とかホテル、オフイスの買収に結構金を出しました。

★これをプロゼクトファイナンスと称しております。それもホノルルのあるオアフ島ではなく、ハワイ島とか、ハワイ島というのはビッグアイランドというのですが、それからマウイ島、いい島なんですよね。そこの開発でずいぶん関わりました。ある時、マウイ島で千昌夫が、あれは歌う不動産屋といわれた時代。私のところで結構千昌夫と付き合いがありましたんですけれども長銀さんが千昌夫の海外ホテル事業に手を出してきたものですから、こちらの方で全部やりました。

◆“歌う不動産屋”と言われた千昌夫さんとのエピソード

★千昌夫さんにエンバシースウイートといういいリゾートホテルを造らせた。彼はそのホテルのオーナーになったのですが、ハワイで滅多に降らない雨が、オープ二ングの時にさんざん降り、大変でした。ハワイというところはあまり雨の降らないところですので、雨水の処理が出来ず、海が茶色くなっちゃつたんですよね。そうするといろいろなところより招待客を呼んでいるのに、なんだ、この風景は、ということになるのですよね。

エンバシー・スイートホテルで(中央左が千さん、右が筆者)

★そのくらいの雨に降られて、雨漏りしたんですけれども、その時千昌夫が嘆くので、いや、これは丁度良かったのではないか、雨漏りするところがあればすぐ直せばいいんだし、後で見つかるより逆にそれで良かったのではないかと慰めたこともありました。結局彼も不動産事業で赤字を抱え、未だ歌っているようです。そんなこともございました。

★本店の外国営業部を3年ほどやりまして、52かなにかの時ですけれども、いよいよ外に出るということになりまして、銀行の子会社の三信リースの常務で6年ぐらいやっておりました。そこでリースを退任して、その後に前にお話したようにみずほ信託銀行に12年ほどお世話になり、この3月に退職した次第です。

関連会社の三信リース常務時代の筆者


◆なぜ年金制度が行き詰まってきたのか

★ここで一つだけ、年金業務に永らく携わってきた者として、皆さまも関心の高い年金問題に触れさせていただきます。今、いろいろ年金問題出ております。やはり一番の問題は、年金制度は高度成長時代を背景に作った制度でございますので、例えば、財政というか、掛金を算定する時に給与のサラリースケールというか、給与ががどうゆう形で昇給するかとかですね、それをかなり見込むわけです。そうすると掛金が安くなる。それから、新人がどれだけ入るか、どのくらいの退職率があるとかですね。それを数理的に全部計算して掛金率というのを定めます。これを3年なり5年で再計算するわけです。

★ところが、金利が高く見込んである。当時年率5.5%だったんですね。最近は5.5%といったら、とてもそんな利回りは得られません。だから、年金制度が破綻するのは目に見えたわけです。従って、厚生労働省なんかも、役人の発想ですが、支給年齢60歳というのを63歳に延期、更に65歳にと言うように、どんどん先延ばししていったんです。

★これはもう抜本的な解決にならない訳です。だから、昨今、消費税問題が言われておりますが、結局はこういう低成長の時には、なかなか若い人の新規の加入もそんなに増えるわけでもないし、むしろ給付の方が退職者が多くなるので大変です。ある程度基礎的なところは税金で賄うしかないと思います。

★だから、消費税も目的税化して、年金なら年金、土台は税金ね賄い、それ以上のものは自助努力でやっていく。むしろ個人の方の掛金されたものに、税制上の恩典を与えて、その運用利回り成果を自分でどんどん取っていくというような時代になるのではないかという感じがしております。

★最初から給付を確定して、予定利率等が5.5%などという高い設定を前提とすると、積み立て不足金が生じ、年金制度に穴が開いてしまうわけです。ところが、昨今のように景気が悪いと企業の方も大変で、掛金の追加経費出費というのは出来ないわけです。しかし、年金制度としては、それに穴が開いては駄目ですから困った問題が生ずるわけです。年金制度の積み立て不足金が企業の財務会計上、本業の評価損益に合算されるからです。

★GMの問題は年金問題(高額給付)が一つあるし、日本ですとJALがそうです。JALの年金というのは、パイロットなんか相当な高給ですから、年金制度もかなりいいのです。ところが、ああいうふうに会社が財政上おかしくなってしまうと、掛金の追加拠出が出来なくなります。どうしてもすでに年金を貰っている人の年金まで削れということになってきます。

★やはり制度そのものが予定利率年5.5%と言う高い利回りを前提にした制度だから、どうしても穴が開いてしまう。ということで高度成長期には合った年金制度も、こういう低成長になった場合は、基本的に組み替える必要があるわけで、基礎は消費税というか税で国が面倒を看るということに必ずなっていくのではないかと思います。

★消費税そのものは、例えばイギリスあたりは今度18%から20%に上げますが、ヨーロッパは結構消費税率が高い。唯、日用品なんか消費税は免除されております。日本もやはり菅さんが言うように年収3百万とか4百万とかで線を引くような話ですと、これは背番号制にしないとなかなか出来ません。やはり必要最低限のものはで賄うという制度にもっていかざるを得ないんじゃないかと思います。

★長々と雑談のような話になりましたが、この辺で終わらせて戴きます。ご静聴ありがとうございました。




♪このコーナーに流れているBGMは、ポーランドの作曲家ショパンの作品「バラード1番」です。

♪第2次大戦でナチス・ドイツのポーランド侵攻以後、ワルシャワの廃墟の中を生き抜いたユダヤ系ポーランド人のピアニスト、ウワディスワフ・シュピルマンの体験記を元にして2002年に制作されたフランス・ドイツ・ポーランド・イギリスの合作映画『戦場のピアニスト』(原題ピアニスト)で、隠れ家で発見されたとき、ドイツ将校の所望で弾いた曲が、ポーランド作曲家ショパンの「バラード第1番」でした。

♪戦争の非道を訴えたこの映画は、カンヌ映画祭の最高賞「パルムドール」、アメリカのアカデミー賞の監督賞、脚本賞、主演男優賞他、各国で多くの賞を受賞したことは、ご存じの通りです。

♪BGM:Chopin[Ballade 1]arranged by Pian♪

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