連  載
海外ゴルフ場面白話
ー芝生の上から世界経済を覗けばー


小川浩史(35法)



第2集

連載第6回

[香港・海南島・シンガポール・フィリピン]

★香港、シンガポールではプレーしたことなないが、職場(銀行)の国際本部にいたときに、現地の支店長から購入申請があったコースの思い出がある。

[香港]
★香港は、いまのように近隣の島々の開発がまだ進んでいなかった時代であり、空港も九龍半島のカイタク空港なぞ、飛行機が降下するとき、マンションの洗濯物が見えるくらいの所を着陸するので、いつもひやひやしたものである。不思議と事故のない旧空港だった。


香港

★香港島に9ホールのゴルフ場「ロイヤル・ホンコンG.C.」があり、1970年代の後半、わが銀行が1000万円で会員権を購入した記憶がある。当時、先発の系列グループのM銀行も加入できていなかったコースだったので、よくぞ売り情報を入手したものだと感心したものだ。コースでプレーしたことはないが、夜、レストランで何回か食事はした。

クラブハウスの前で
現地支店長と

[シンガポール]


★シンガポールは、駐在員事務所時代にセントサ島にあるセントサG.C.の会員権をわが銀行が2口保有していたが、支店昇格時に日系のサルベージ会社の売り物で、名門シンガポールG.C.を500万円で会員権購入した。当時、いまはなき三井不動産の柏ゴルフ・クラブが縁故で会員の追加募集をしていたが、確かその値段がちょうど500万円だった時代である。

[マニラ]

★フィリピンのマニラには、当時、香港の店を設立するとき、数回行った。将来、中国進出を考えたとき、パスポート上、台湾のスタンプはまずいので、香港で1週間とか10日入国して、観光ビザが切れるときにいったんマニラに出国、香港に再入国したものである。

★当時のマニラは治安が悪く、三井物産の若王子支店長のようにゴルフ場で誘拐される事件も起きた。遠く離れたブラジル・サンパウロでも、当時は同じ治安事情から駐在員事務所の連中は大変用心していたものである。それはそれとして、フィリピンではキャディーがチップ欲しさに足先でボールをホールに入れ、「ホールインワンです」などと言う笑い話もよく聞いた。

[海南島]

★海南島は、中国のハワイである。ベトナムのトンキン湾に近く、気候も亜熱帯である。以前は香港経由、中国南方航空で行くしかなかったが、いまは関西空港からの直行便もあるはずである。海南島には、たてしな仲間たちと数回ゴルフに出かけた。

★島の東側に海口という都市があり、台湾資本のゴルフ場でプレーしたが、なかなかきれいなコースだった。国共内戦の末期、蒋介石は、海南島から台湾に脱出したそうだ。


海口のゴルフ場

★島の西側には三亜という都市があり、海口〜三亜は一直線の高速道路で結ばれている。東京〜静岡くらいの距離だろうか。鉄道がないので、すべて車での移動である。その中間点の温泉地に関西の業者がゴルフ場を開発中だったが、その後うまく開場できただろうか。

建設中のゴルフ場での筆者

★三亜には、中島常幸プロのお父さん(軍属で駐屯中に終戦を迎えた由)が経営するゴルフ場がある。ゴルフ場の横を通る海南島唯一の鉄道は、旧日本軍が南方からの軍需物資を運ぶために敷設したもので、当時の汽車がいまも現役で走っている。

★キャディーは、山岳族の娘がプレー2人に3人も付いたが、もちろん日本語も英語も駄目。プレー中に売りにきたコーラの缶を買って一つずつ渡したら大事に持って帰った。レストランは、チャイナドレスの女性たちが応対、帰りには全員が車まで見送ってくれるサービスぶりだった。

三亜のゴルフ場で山岳民の娘キャディと 筆者
コース コースからクラブハウスを望む

★そうそう、こんなこともあった。三亜のホテルで朝食のとき、レストランの女性の写真を撮ったところ、帰りに紙切れに書いたメモを手渡された。漢字国同士なので、大体は筆談で通じるのだが、そのときの紙切れのメモの意味が分からず、仲間からは「日本に連れてってと言ってるんだぜ」と冷やかされた。帰国後、神田のマージャン店の中国人女性に意味を尋ねたら「写真ができたら送ってほしい」だった。名前が分からないので、ホテル宛てに写真を送ったが、彼女の手に渡っただろうか。


チャイナドレスの彼女に送った写真


◆次回(第3集)は[オーストラリア]です。

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