いなほ随想特集

長き想いの山
英彦山(ひこさん)登頂


山本浩(29政経)
文・写真

私にとっての英彦山

随分昔から一度は登りたいと思いながら、登れないままいたずらに時が過ぎていた山がある。その山の名前は「英彦山」、ヒコサンと読む。

★何故私がこの山に登りたかったか、その理由は幾つかある。若かりし頃、私は大分県立中津中学校に通っていた。学校の北側は土手になっていてその向こうには山国川が流れている。この川は福岡、大分の県境に沿い、禅海和尚が鑿槌で掘った青の洞門のある景勝耶馬渓を貫流し、豊前平野中津を通って周防灘に注ぐ幹線流路延長56kmの一級河川である。

英彦山の南岳より中岳山頂を望む 山国川


★そして、この川の源が標高1200mの英彦山であった。
当然のことだが、中津中学の校歌の歌詞にはこの山国川と英彦山が出てくる。 山国川は夏になれば泳いだし、魚や海老をとって遊んだ懐かしいところなのだが、校歌を歌うたびに出てくる英彦山の方は気になりながら登らないままに卒業してしまった。 


◆校歌で歌う山なれど

★私がその当時住んでいたのはこの山国川の上流にある下郷村の一番山奥の部落で、今は廃線になっている耶馬渓鉄道の駅から早足で歩いてもたっぷり1時間はかかった。それに当時電気はなく灯りはランプ、水は横井戸といった具合だからとても中学には通学できず、初めから中津に下宿して土曜の午後家へ帰り、日曜の夕方下宿への生活を繰り返していた。中津へ出るより英彦山の方が近いらしいとは判っていても戦中戦後の食糧難でわざわざ腹の減るようなことをする気にはとてもなれなかった。

★その後東京で学生時代をすごし社会人になって最初の赴任地が福岡県だったから、九州の山を幾つか歩いたにも拘らず、英彦山へは行けずじまいに終わっていた。中津中学時代の親友は二人いたが、年賀状でお互いの無事を確認しあうだけの状態が延々と続いていた。 

★処が、今年その親友一人の賀状に「出来れば一度会いたいものだ」とあったのですぐに電話をして三人が今年中に中津で会うことを決定、なんと六十年ぶりの同窓会実現の運びとなった。
勿論懐かしの中津はゆっくり見て歩きたかったが東京からわざわざ行くのにそれだけではもったいないと、この際、英彦山登山を日程に入れることにした。 

◆いよいよ山国川を遡上して

★何やかやで実施は秋風の吹く9月11日、当日は旧中津中学校を初め思い出の地を回り、街中の古い旅館に泊まって友人と昔話に時を忘れたが、明けて12日、いよいよ山国川を遡上して英彦山へ向かうことになった。途中、耶馬溪の奇岩奇峰を懐かしみ、今は絶えてしまった母方の祖先の墓所へも立ち寄ってお参り、更に上流を目指す。

母校の中津南高等学校(旧中津中学校) 中津城
福沢諭吉旧宅 青の洞門
耶馬溪競秀峰 樋山路谷
母方先祖墓碑 木造釈迦如来立像(鎌倉期)
60年ぶりの同窓会(左端が筆者) 同窓会で泊まった古い旅館「日吉」


★昔の耶馬溪鉄道の終点、守実を通って山国町から日田への道を左に分けて野峠に差し掛かると、もう英彦山の山域になる。直ぐに豊前坊高住神社が左に見えてきて、ここから北岳へ取り付く道があるのだが、時間がないので別所まで車を進める。

★英彦山神宮の正門、銅(かね)の鳥居から奉幣殿へ登る900段の階段の途中にある土産物店で、近くの温泉で、時間を潰して待っていてくれると言う友人と別れ、一人登り始める。3時間余で戻って来れるつもりだったので、サブザックにカロリーメイト1箱、アミノバイタル500mml、ゼリー状飲料1個だけで出発した。 

英彦山銅(カラ)門 奉幣殿への石段 英彦山奉幣殿


★11時を過ぎてそろそろ昼が近かったが余り長く友人を待たせるわけにも行かず、昼は抜くことにして先ず奉幣殿(1616年小倉藩主細川興公寄進、重要文化財)への階段を登る。此処までは2年前にスロープカーなるモノレールが開通して、観光客も楽に来られる様になった英彦山神宮の中心地である。

◆英彦山は羽黒、熊野と並ぶ三大修験道の霊山

★英彦山の説明が遅くなったが、この山は羽黒三山、熊野大峰山と並ぶ三大修験道の山で、西国修験道の拠点とされてきた。祭神が天照大神の御子であることから、日の子、日子山と呼ばれていたのが彦山となりその後、優れた霊峰として1729年霊元法皇より英の一字を賜り、英彦山となったと言われている。 

★奉幣殿までは直登の階段だったが、此処からは九十九折の階段、鎖場もありで修験道の道らしくなってくる。登り始めて1時間で中津宮(中宮)、更に30分で産霊神社(行者堂)に着く。此処には井戸があって水が飲めるのは有難い。このあたりから樹木が少なくなり開けた熊笹の中を頂上に向かう。 

中津宮 行者堂の水場


★中岳頂上1200mの上宮は風雨を避ける覆い堂の中にあった。晴れてはいるが視界は余り良くない、少し休んで下りは南岳へ登り返し別ルートを採る事にした。三峰の中で南岳が僅かに高いからか、一等三角点はこの南岳の頂上にある。南岳を下り始めると道が荒れていて、倒木あり厳しい鎖場ありで緊張する。 

★中岳への登りでは下りてくる登山者に出会っていたが南岳からは誰にも出会わない。時間は午後2時だから非常に遅い時間とは思えないが、この荒れ具合は明らかに人通りが少ないことを示している。このルートを選んだのはこの山の名物「材木石」と1200年の古木「鬼杉」があることに曳かれたからだったが、急傾斜を下って辿りついた材木石は小規模な柱状摂理の露頭だった。

南岳山頂の一等三角点 材木石(柱状節理)


◆踏み跡がまったくない!

★鬼杉は更に下った所にある水場の直ぐ先で、神木の注連縄が張り巡らされている。此処まで来ると沢の水音が耳に入ってくるので里へ出るのもそう遠くはないなと思いながら、谷合を沢の方に向けて歩き出した。処が、歩き出して十数分、踏み跡がまったくないのに気付く。こんな時は原点に帰るしかない。鬼杉まで戻って周りをよく見ると、右手に急な登り道がある。

鬼杉


★20分余り時間をロスしたので些か気がせくが、今までの下りベースに馴染んできた足がいきなり反転して急な上りになると攣ってしまう危険があるので無理をして急ぐことは出来ない。結局次の目標玉屋神社(般若窟)に着くのに1時間、日本三大霊水という湧水がある筈だが、それを探す暇もなく、ひたすら奉幣殿へ急ぐ。 

霊水の般若岩


★又しても道は上り、奉幣殿は標高900mだから鬼杉はかなり下まで降りてしまっていたようだ。何しろ大幅に下山時刻を遅らしてしまっているので送信が危ぶまれたが、友人にメールしたら複雑な山間地形にも拘らず通話することが出来た。案の定、出発地でかなり前から待っていてくれていたと判ったが、遅延の詫びを言えたので少しは安堵した。 奉幣殿まで更に1時間、別所のお土産店、花山まで10分で階段を駆け下りたら友人がラムネの瓶を差し出して迎えてくれた。

ラムネのある店

◆悲願達成の感慨にしばし浸る

★南岳からはとうとう誰にも会うことなく下りてきたが、記念のバッジを買ったこの店のおばさんの話では、そのコースはよほど朝早くから登る人でないと歩かないとのことだった。汗だくのまま車に乗り込んで、小倉へ送ってもらう道すがら中学生の頃から一度は登りたいと思っていた英彦山に登れた感慨にしばし浸ったことだった。 

★修験の山に共通していることは、登山道が階段にしろ鎖場にしろ丁寧な作りではなく、寧ろ意識的ではないかと思えるほど荒々しく作られていることだ。今回は北岳のコースにある山伏の修行場で、150mの垂直岸壁、望雲台には寄れなかったが、南岳での下りは唯一人、古くからの信仰の山と向き合いながら厳しい道を無事に辿れたことを感謝したい気持ちになった。 

★今77歳、60年という長い想いの山に登れた幸せをしみじみと噛み締めている。(2007年11月 山本 記)


♪BGM:Oesten[Alpen]arranged by Reinmusik♪
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山岳紀行集
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