いなほ随想特集


ー平均71歳のネパール・トレッキング挑戦ー


山本浩(29政経)文・写真


◆すべては「エベレストを見たい」で始まった

★世界の最高峰エベレストを一度自分の眼でしっかり眺めてみたいという思いは多分山好きの人間なら誰でも考えることだろう。

最高峰エベレスト8848m

★年金生活者になって、山に登ることと写真を撮ることだけが趣味になった私にとっても、これは長年の夢だった。この思いが具体性のある話になってきたのは一昨年の3月、ボルネオ島のキナバル山4090mに登った後のことである。山仲間の何人かに声を掛けてみると、行ってみたいという人は結構いる。但し私が思っていたカラパタールかゴーキョピークではなく行ける所まで行って何とかエベレストを見たいと言うのが殆んどだった。

★そこでキナバル山を案内してもらった赤沼敏治さん(北アルプス燕岳の山小屋[燕山荘」オーナー)に相談したところ、ネパールトレッキングのスペシヤリストと紹介されたのが東豊久さん、真理子さんご夫妻だった。東さんに我等グループの状況をお話して、エベレストを見に行きたいのであらましの旅行計画を立てて頂くようお願いした処、出てきた計画案はナムチェバザールを拠点にしてシャンボチェの丘からエベレストビューホテルやクムジュンを回るというものだった。

★この時点で私77歳、女性3名を含む平均年齢71歳以上の9名グループともなれば、これでも決して楽な案ではないかもしれない。 私としてはこの時点でカラパタールやゴーキョピークは諦めることにしたが、せめてエベレスト街道最大の僧院があるタンボチェまで行って、4198mのタンボチェ・リーに登りたかったので何とかお願いして変更していただいた。時期は2008年10月8日から20日まで13日間の旅である。

◆2008年秋ヒマラヤ街道トレッキングの旅へ

★出発に先立って特に注意されたのは高山病対策である。エベレスト街道は地域特性として高山病が起こり易く、毎年死亡者が出たり、目的を達せず下山したりするものが多いとのことなので参加者はそれぞれに対策を講じることにした。 私と家内は新青梅街道の瑞穂に出来たばかりの好日山荘の低酸素室へ3回行ってトレーニングをしただけだったが、熱心な人は高度順応の為に北岳や鳳凰三山縦走をこなしていた。薬品類は通常の山行時に携帯するものの他にダイアモックスと食べる酸素(血中のヘモグロビンと酸素の結合を促進するサプリメント)を持参することにした。

★世界の最高峰エベレスト8848mを始め8千メートル級14座の全てを擁し、付属峰を含めて7千メートル級のピークが100以上というヒマラヤ山脈は正に世界の屋根と呼ばれるに相応しい大山脈であるが、その中味に少し触れてみたい。 

★ヒマラヤ山脈は西のナンガ・パルパットから東のナムチャバルワまで2400km、最大幅400km、パキスタン、アフガニスタン、インド、ネパール、ブータン、中国の6カ国ににまたがり、ヒマラヤ以外で最も高い山が天山山脈のポベーダ山7439mというからこの桁違いの内容には驚かされる。
ヒマラヤ山脈は世界最大級の大河、インダス、ガンジス、プラマプトラ、長江の水源でこのヒマラヤ水系の恩恵を受ける人達の数は7億5千万人、バングラディシュは全人口が含まれている。

★ヒマラヤは褶曲山脈。地殻変動によって地層が褶曲して出来た言わば地球の皺であると子供の頃教えられたが、プレートテクトニクス理論によれば約7000万年前からインド・オーストラリアプレートが北上してユーラシヤプレートに衝突、これによる造山活動で形成されていったという。今もインド・オーストラリアプレートは67mm/年の速度で動いており今後1000万年でアジア大陸方向に1500km移動すると考えられている。

★エベレストの標高は今でも諸説あって1954年インド測量局が出した8848mが長らく認められているが、中国が2005年に出した数字があったり、造山活動によるプラス要素と強風などによる侵食のマイナス要素があったり、頂上部の積雪3.5mを加えるかどうか等で標高が永久に確定することはなさそうである。

◆トレッキング出発点は、標高2800mのルクラ

★我々のエベレスト街道トレッキングの出発点はネパールの首都カトマンドウの北東120km、クーンブヒマールの“ルクラ”標高2800mの地点である。アクセスは成田からバンコックへ飛び、翌日カトマンドウ、更にその翌日3日目にしてやっとスタートすることができた。

★今回高山病についで気になったのが着衣。高所での防寒対策は当然のことだが、バンコックやカトマンドウでの日中は日本の夏と変わりない。なるべく荷物は少なくしたいのに暑さ寒さ双方に対応するのは悩ましかった。

★カトマンドウは丁度年間最大の秋祭りダサインの当日で、街は額に祝福のティカ(赤い粉を水で溶いたものを長老から付けてもらう)を付けた人々で賑わっていた。

★カトマンドウからルクラへの国内便イエティエアラインはセスナを一寸大きくした程度の高翼双発17人乗りのツインオッター機だ。離陸して間もなくすると左手に白銀のヒマラヤが姿を現す。ヒマラヤがサンスクリット語で雪の住み家の意であることがうなずける。やがて山の頂をすれすれに越えて谷間に入ったらその先にルクラ空港があった。ぐるりと山に囲まれているが僅かに見えるクスムカングル6367mの頂上部が朝日を受けて白銀に輝いている。 

★飛行時間は約40分だったがルクラ空港の滑走路は山の斜面にあって300mほどしかない。つまり着陸時は上り勾配が制動を助けて短距離での滑走停止を可能にしている。逆に離陸の際はフルエンジンでスキージャンパーがカンテを飛び出すように谷へ向けて飛び込んでいく。飛び立つ飛行機を眺めるのに目線を上ではなく下に向けると言う経験を初めてした。 

ルクラ空港

★更に着陸して地上に下り立ち周囲を眺めると飛行場の外柵に人、人、人と鈴なりの人だかりである。飛行機がこんなに珍しい筈もなかろうと後で聞いてみると、何と2日前に飛行機が着陸に失敗して乗客乗員18名が死亡、助かったのはパイロット1名のみという大惨事があり、昨日は終日、空港使用不能、今日になってやっと再開した為に停滞している物資、荷物の到着を待っている人達だとのこと。ルクラ空港始まって以来、初めての事故らしかったが、アクロバットのような離着陸を繰り返すこの空港ならあっても不思議はないように思えてぞっとした。

◆シェルパ達と合流してチーム編成

★空港から5〜6分の所にある「ルクラリゾート」が我々の発進基地、ここでシェルパ達と合体してチーム編成をするが、2日間の空港閉鎖で別送の食材が遅れたりで時間がかかり、早昼を済ましてからの出発となる。標高1330mのカトマンドウからいきなり2840mのルクラへ来た為、少し身体がふわふわした感じがする。身体慣らしに軽く動いた方が良いというので出発前にルクラの街を歩いてみた。

★街と言ってもメインの通りが1本あるだけ、空港から300m位の間に土産物屋が繋がっている。日本人は良いお客らしく品物を手に「サンビャク」とか「ゴヒャク」とか声を掛けてくる。此処から先は車が一切ない世界で運搬の主役はゾッキョ(水牛とヤクの交配種)、3500m以上になると主役はヤクになるらしい。通りの真ん中に白字で経文を彫り込んだ大きなマニ石がでんと座っている。

ゾッキョ

★通る時に石の左側を通るのは不浄の左手を遠ざける意味だろうか、敬虔なチベット仏教(7世紀のはじめ、インドからチベットに伝わった仏教で、ラマ教とも言う)の信者であるシェルパ族は必ずこれを守っている。我々も礼儀上、これに従ったのは当然である。 

★ついでながら、シェルパという言葉は1953年エドモンド・ヒラリーと共にエベレスト初登頂を果たしたテンジン・ノイルゲイ以来有名になり高所ポーターや高所ガイドの総称として使われているが、彼らの祖先は16世紀にチベットを離れ南方のネパールに移住してきた高地少数民族で現在はナムチェバザールなどのクーンブヒマールやインドのダージリン、シッキムに住む人口約15万人の民族である。ちなみにシェルパはチベット語で{東方の人}を意味する。

◆手配とガイドはネパール在住7年の東豊久さん

★我々チームで最も心丈夫だったことは一切の手配と案内をして下さる東豊久さんが、ネパール大学卒でネパール在住7年、シェルパ達との会話を聞いていると正にネイティブそのものだったことである。お陰で潤沢な情報を得て柔軟な対応を取ることが出来た。ツアーメンバーは女性3名、男性6名、決して若いとは云えないグループである。サポート隊長はサーダ(シェルパ頭)、パサンテンバさん、先頭、後尾を歩くガイド、カンチャさん、ギャルツエンさん、コック長ハシタバハドルさん他にキッチンスタッフ5名、ゾッキョを使うポーター2名と10名を越えるが、コック長のハシタさんはグルン族、キッチンスタッフはライ族、他はシェルパ族、それでも全く部族間のわだかまりは感じられないし、皆が献身的に尽くしてくれるのには感激した。

ドコ(竹籠)を背負うシェルパ

★出発は遅くなったが今日の行程はパクディン2652mまで約4時間、200mの下りベース、しかも荷の大半はダッフルバッグに詰めてゾッキョに運んでもらい、自分は適量の水と雨着、カメラくらいしか持たないで済むから気は楽だ。

★ルクラの村はずれには魔除けのカンニ(仏塔門)があり天井に描かれた曼荼羅の下を通り抜けるが、色々タイプがある中でこれはチョルテン(仏塔:サンスクリット語ではストウーパ)の基部を刳り貫いてあるものだ。この直ぐ先から急な石段と石畳の下りが始まるが、この降り口にゲートがあって中央に若い女性の胸像が掲げられていた。後になって判ったことだが、1993年ネパール人女性として初めてサガルマータ(エベレスト)登頂に成功したものの、下山中南峰で遭難死したパサン・ラムの栄誉を讃えるものであった。更にネパール政府は彼女の為にチョー・オユーの南西にあるピラミダルな美しい山チョー・アウイ7354mを「パサン・ラム・チュリー」と命名した。

◆青白く濁った氷河融水の河を渡る

★パクディンへの道は唯すんなりと200m下る道ではなかった。ドード・コシ(ミルクの河)の支流タド・コシ・コーラを渡るあたりが最低点2492mで結構上り下りを繰り返す。エベレスト街道はこのドード・コシの河岸段丘に沿って繋がるが、青白く濁った河の色は氷河が岩を削った氷河融水のせいでグレイシャーミルクと呼ばれている。

エベレスト街道のドード・コシ川

休憩はサーダが先頭のカンチャに指示して20〜30分に一度位の割合でとる。ロッジやバッティ(茶店、簡易宿泊所)のあるところが主だが、道端で休むときもある。その場合は階段状に石が組んであって荷の上げ下ろしに便利なチョータラを使う。街道には適当な間隔でこのチョータラがあって50kg以上も担いで歩くシェルパやシェルパニ(女性)の助けになっている。

★ほぼ中間点のウィンドホースロッジ2500mではお茶を飲みながらゆっくり休んだ。このあたりから右手にクスムカングル、正面に聖なる山と崇められ、頂上を踏まれたことのない未踏峰、クーンビラ5761mを垣間見ることが出来た。 


★この先のガート部落は信仰心の厚い部落のようでチベット仏教の経文を彫り付けたマニ石(多くはオム・マニ・ペメ・フム:おお、蓮華の座におわす宝珠の神よと彫られている)やマニ石を長く壁状に連ねたメンダン、チョルテン(仏塔)、マニ車(経文を入れた円筒状の仏具で、右手で右回りに回転させるとそのお経を読んだことになる)が立ち並び、上にはタルチョー(祈願のぼり、旗)がはためいている。 タルチョーはヒマラヤの高山に登頂した際の写真には必ず出てくるもので、ロープに幾つもの小旗を結わえたものだが、仏塔や仏塔門は言うに及ばず、民家の屋根や道の真ん中に立てられたりもしていて、人の気配のあるところ何処にでも見ることが出来る。


★それぞれの旗には経文を木版印刷してあり、五色の色は黄(大地)、緑(水)、赤(火)、白(風)、青(大空)を意味している。 

マニ石の道

◆ビスターリ、ビスターリ(ゆっくり、ゆっくり)

★ルクラを出発してからヘリコプターの飛来がやけに多いように思えるので何かあったか聞いてみたら、エベレストの上空からスカイダイビングをした連中の機材運搬など後始末をしているのだろうと言う。最近になってそのことを思い出し、インターネットで調べてみたら、英国人の女性写真家ホリー・バッジ(29才)他2名が10月5日(我等出立の3日前)、エベレスト上空8940mからスカイダイビングしてネパール領内3900m地点に無事着地した。空気が薄いため通常の3倍の大きさのパラシュートを使い、氷点下の気温に耐えるため保温力の高いネオプレン製のアンダースーツを着用し、腰に酸素ボンベを巻きつけて使用した、とあった。尚、一人当たりの費用は$24000(約¥255万)だったそうな。


★エベレスト街道は古くからの交易路であり、10月に入って乾季の到来、言わばシーズンインしたこともあって人の往来は大変多い。たまに狭い所もあるが、殆んど十分な幅員があり歩き易い。何より車が全く存在しないところが素晴らしい。唯一つ気をつけなければならないのはヤクやゾッキョの落し物がそこら中にあって、これを避けるには余程の注意が必要だ。それでも新鮮な柔らかいやつを踏みつけて舌打ちをしたことが数回あった。

★我々は先頭を行くカンチャの後について歩く、ゾッキョが来たときや後方からポーターが迫ってきたときは必ず声を掛けて我等を止めて先に行かせる。生活が懸かっているポーターやダブルストックで歩く欧米人はとても速く、我等をどんどん追い抜いて行くが、カンチャはこれ等に惑わされることは全くない。長い距離を何日も歩くためにはエネルギーロスを出来るだけ少なくすることが必要だし、高地歩行で一番の高山病対策はゆっくり歩くことだからである。

★ビスターリ、ビスターリ(ゆっくり、ゆっくり)、テコテコ(急ぐ)は駄目、ちなみにカンチャのスピードは大体時速2kmくらいだった。民家の前を通ると子供たちがナマステ(こんにちは)と声を掛けてくれるのでこちらもナマステと挨拶を返す。とても人懐こい、中には中国人と思うのかニーハオという子もいた。

◆私が髭爺になった理由

★ドード・コシに懸かる吊り橋を渡った所に今日の宿泊所パグディン2610mのサンライズロッジがある。この橋はプル(揺れる橋)といってワイヤーで吊って歩行面に板を並べた簡単なもの、長さは100m程もあるので当然揺れる。両側には網が張ってあるので落ちる心配はないのだが、揺れが大きくなると思わずワイヤーにしがみ付きたくなる。 体重の重いゾッキョが何頭も渡るのを見たが、前足で弾んだ力を後足で消しながら上手に歩く。この後何度もこのプルを渡ることになったが、最後まで快適に渡れたことはなかった。

サンライズロッジ

★サンライズロッジの前にはキンケイギクらしいオレンジ色の花が咲き乱れて我々を出迎えてくれた。10月に入ったこの時期、花は終わりかと思っていたのに、ルクラではコスモス、途中皇帝ダリアもかなり見かけた。荷をおろして食堂に入ると既にキッチンスタッフがお茶とビスケットを用意してくれていた。

★一息ついてから2階の部屋に入る。2人用で薄暗いながら電灯もある。洗面器一杯のお湯をもらって顔を洗い、身体を拭き、足を洗う、これはルクラに帰り着くまで朝夕の定番行事になったが、とても髭を剃るには量が足りないので、その後も髭剃りは止め、帰国してからはヒマラヤ記念に髭爺を続けることにした。

★夕食時、全員が集合した処でめいめいパルスオキシメーターを使って脈拍と酸素飽和度を測定する。私は脈73と酸素84、全員問題となる数字は出なかった。明日はいよいよ3000mを越えるので高山病の予防にダイアモックス半錠125mgを朝夕2回飲み始めることにした。

★夕食はカレーがメインで野菜もたっぷり、昼のネパールヌードルも美味かったが、日本人向けに好評と云われるクッキングチームだけのことはあった。他のグループではビールを飲んだりしている者もいたが我等はルクラに無事帰り着くまで禁酒を守ることにしている。

★食後、サーダ以下我々をサポートしてくれるシェルパたちの紹介があった、これからの協力をお願いして部屋に引き上げる。部屋には暖房はないので夜中の冷え込みには気をつけねばならない。寝袋は各人2個づつ配られているので、潜り込んだ寝袋の上にもう一つを広げて寝ることにした。静かな夜、部屋の隅から虫の鳴く音が聞こえる。

◆受け継がれている英国流の風習

★明けて10月11日、6時、キッチンスタッフのノック、ティーとビスケットのモーニングサービスから全ては始まる。これは英国流の風習を今に受け継いでいて、この直ぐ後のホットウオーターと共に再びルクラに戻るまで変らず続けられた。朝食はお粥に目玉焼き、パン、パルスオキシメーターは脈63、酸素飽和度90、昨夕より良いのは良く寝たからだろうか。

★7時半、カンチャを先頭に出発、今日は最後にナムチェバザールへ600mの登りというハードワークが待ち構えている。昨日に変って暫くはドード・コシ右岸を歩く、朝夕は冷えるが沖縄と同緯度なだけに歩き出すと直ぐ暑くなりTシャツ一枚になってしまう、トクトク2731mを過ぎ、歩き始めて1時間経った頃、右奥にガラスの城といわれる名峰タムセルク6808mが見えた。出発前から写真帳を見てその美しいヒマラヤ襞に憧れていた山で、この山の写真を撮るために望遠レンズと併せて2kgになるカメラを担いできたといっても良い位だ。 幸いにして光線の具合もよく、ベンカール2630mのビューポイント、ウオーターフォールビューロッジに着くまでの30分間、写真を撮り続けた。このロッジの左サイドにはその名のごとく滝が流れ落ちていて、美しい虹が立っていた。

タムセルク
タムセルクのヒマラヤ襞

★再び左岸に渡り、緑の絨毯を敷き詰めたような美しいモンジョゲストハウスの庭でのティータイムの後、村はずれまで来ると瀟洒な黄色い建物が建っていた。サガルマータ国立公園のチェックポスト2835mでこれから先は国立公園内になる。建物の周辺には多くのトレッカーが屯していたが、我等は手続きをサーダーに任せて先へ進む。我等外国人の入園にはトレッキング・パーミットの他に1000Rs(ルピー)約1700円の入園料が必要となる。

★モンジョの村はずれのカンニ(仏塔門)を潜ると道はドード・コシ河畔への急な下りになる。右岸のジョサレ2740mへ渡り、再び左岸へ渡り返すと広々した河原に出る。ゾッキョが一頭、横倒しに寝転がっていた。理由はよく解らないが、ともかく珍しい光景だった。 

◆スピーディ、勤勉なキッチンスタッフ

★此処に我等のキッチンスタッフがブルーシートを敷いてピクニックランチの準備をしてくれていた。青空の下で車座になって食事をする。ヌードルスープ、パンケーキ、温野菜、水分はたっぷり補充する。キッチンスタッフはこの後食器を片付け、洗い、ドコ(竹で編んだ大きな篭で先がすぼまっている)に詰めて担ぎ、次の場所へ急行する。当然我等より後からスタートするが、我等を追い抜いて次の場所では食事の準備をして待つのだから、その速さと勤勉さは驚くばかりだ。殆んどのポーターはそうだが、ドコは肩に担ぐのではなく、頭にベルトをかけて背中で支える。外見上、判らないが背骨を守る為に腰に布を巻いているそうだ。 

★河原の道を半時ほど行くとボーテコシとの合流点に達する。ドードコシは此処から上流はイムジャコーラと呼ばれ、この両河に挟まれた台地の上にナムチェバザールがある。先ずは中天高くかかるラジャブリッジを渡らねばならない。ルクラからこの河を見ながら歩いてきたが、何処をとっても静かに澱んでいる処が無く、何時も岩を噛んで激しく流れている。これだけの暴れ河だから橋が落ちることは珍しくないようで、増水の影響を受けにくい高所に架橋する事になるのだろうが、橋の袂まで登りながら、なんでこんなに高いのか恨めしくなった。

★然し急登の始まりは橋を渡ってからで林の中の急勾配をジグザグに登っていく。ゾッキョに出会ったときには山側に避けて止まるのが鉄則だが、疲れてくると注意力が散漫になる。 一度誰かにつつかれたと思って振り向いたらゾッキョの角だった。軽く当たっただけで何事も無かったが、谷に突き落とされたり、怪我をしたりすることもあると聞いていたので、俄かに緊張した。上り始めて1時間20分でナムチェへの中間点、トップダラ3170mに着く、以前はバッティ(茶店)があったが今は石垣だけが残っている。もう一つ、此処は天気が良ければこの街道で初めてエベレストが北東の谷合に見える筈なのだが、今日は残念ながら雲の中だった。

◆爽やかなブルーの花ネパールリンドウに出逢う

★途中から本道を逸れて旧道に入る、道幅は狭くなったが人もゾッキョも殆んど通らず快適だ、この辺りはもう高山植物の世界なのだが、と思っていたら爽やかなブルーのネパールリンドウ(ゲンティアナ・オルナタ)を見た。群落も次々に現れる。その都度カメラを向けていたら皆に遅れてしまったので急いで追いつこうとしたが、これがいけなかった、ハーハー息が上がって貧血を起こしそう、3000mを越す高度での急ぎ足は絶対に禁物、遅れても慌てずビスターリ、ビスターリ(ゆっくり、ゆっくり)でないといけない。

ネパールリンドウ

★15時40分、やっとナムチェバザール入り口の仏塔門をくぐる。正面に四方をマニ車の塀で囲った真っ白なチョルテン(仏塔)があり四面に大きくブッダアイ(仏陀の目)が描かれている。ナムチェバザール3440m(平均標高)はこのチョルテンを囲んで馬蹄形のスタジアムのように上に向かって扇状に広がっている。やっと着いたと思ったのにずーっと上の方にある宿泊所アルパインロッジまでの石畳はやたらきつく感じた。食堂に落ち着いて飲んだココアの味は忘れられない。

★ナムチェバザールはクーンブ地方のシェルパ族の故郷と呼ばれ、エベレスト登山の拠点でもある。常住人口は1100人位で、地名の語源になったバザールは毎週土曜日に開かれ、遠くチベットの商人も国境を越えてやってくるという。

◆クスムカングルは綺麗なスリーピークスだった

★部屋の窓から外を見ると、下にはあの白い仏塔の周りにタルチョーがはためいている。棚田のように階段状に建ち並ぶ建屋から目線を上げて行くと正面にクスムカングル、直ぐ左手にタムセルクが見える。街道を歩きながら見た時と90度角度が左に触れているために別の山かと思うくらい山容が変って見える。特にクスムカングルは主峰しか見ていなかったが、三つの峰が綺麗に並ぶスリーピークスであると初めて知る。夕方6時、この山並みの上に月が出た。夕食はモモ(ギョーザ)に味噌スープ等、食欲は少し落ちている。水分を多めに採り、ストレッチをしてからベッドイン。

★10月12日、5時過ぎに目覚め、クスムカングルのシルエットの周りがピンク色に染まってくる。すり鉢の底にいるため日の出は遅い。タムセルクの右肩から太陽が光芒を放ったのは7時20分頃だった。朝食はお粥にクレープ状のチャパティ、卵、ダイアモックスは今朝から半錠を1錠250mgに増やすことにした。理由は高山病の気配を感じたからではなく、錠剤が硬くて割り難かっただけのことである。

★通常のツアーは高度順応のためにホテル・エベレスト・ビュー、クムジュンあたりを歩いてナムチェバザールに戻って、もう一泊してから次の行程に進むのが一般的とされている。我等も当初の予定はそうなっていたのだが、今朝の全員のパルスオキシメーター測定値が安定していたので、東さんから、後の行程に余裕を持たせる為にナムチェバザールには戻らず、先へ進みましょうと提案され、今日の宿泊はキャンジュマに変更することになった。

◆朝日に輝くコンデ・リが姿を現す

★ストレッチをして身体をほぐし、7時35分、背後のナムチェの丘目指して出発、朝日を受けたコンデ・リ6187mが白銀に輝いている。約30分で丘の上に出て、二見が浦の夫婦岩のようにタルチョーを幾筋も張り渡した大岩の傍を進む、左手にコンデ・リ(クワンデ山群)が長々と連なり、その奥にはターメピーク、正面には聖なる山クーンビラの端正な姿が迫る。

コンデ・リ

★この辺りには石積みで仕切った放牧用のカルカが幾つもあるが家畜の姿は無い、冬近しで下の部落へ下ろしてしまったようだ。フィンジョーロッジという緑の屋根の洒落た建物があった、この先のシャンボチェ空港と関連があるのかもしれないが、傍らの大きな岩が細かく五色に塗り分けられているのが目に付いた。多分これは祈願旗、タルチョーに代えて塗られているものだろう。 

★9時過ぎにシャンボチェ空港の滑走路を横切る、機影は全く見えない。
ルクラ同様、短く傾斜のある滑走路で、たまにヘリコプターが利用するというが、標高3720mだから此処へ下りていきなり歩き出すのは高山病イラッシャイというようなものだろう。

◆広がる視界の前に神々の座があった!

★正面の高みの上に左肩に襞を持つタウツエ6501mが白い頭を覗かせてきた。飛行場を眼下に見下ろすまで高度を上げてから右へトラバース、道端に遅咲きのエーデルワイスが淋しげに佇む。左への折り返し地点、標高3830m、目の前がぱーっと広がり、其処に神々の座があった。

★初めてこの眼でしっかり確かめることが出来た世界の最高峰エベレスト8848m、左にヌプツエ7855m、タウツエ、右にローツエ8516m(南の峰)、アマダブラム6812m(の首飾り)、カンテガ6779m(馬の鞍)、タムセルク(岩稜)、息を呑むこの景観の素晴らしさに暫し呆然と立ちすくんだ。正に13日間の旅が一点に凝縮されたその瞬間である。 

左からエベレスト、ローツエ、アマダブラムの山並み

★此処からホテル・エベレストビューへ向かう15分余りの道は実に楽しかった。紅葉に彩られた山腹の道を緩やかに登っていく。山々の輝きに囲まれながら、この雄大な空間に自分があることの幸せを実感する。ホテル・エベレストビューは日大山岳部OBでヒマラヤ観光開発社長の宮原巍さんが30数年前に建てたホテルで標高3885m、その名のとおりの眺望を持つホテルである。我々はテラスのテーブルを囲んでゆっくりチョコレート等を飲みながら心行くまで景色を楽しんだ。お天気に恵まれるということは素晴らしい、ホテルの部屋のガラス窓にはタムセルクがくっきりと映っていた。 

タムセルク

◆いくつもの呼び名を持つエベレスト

★我々が「エベレスト」と呼ぶこの山は幾つもの名前を持っている。 古代、この高峰は「デヴギリ」(サンスクリット語で神聖な山の意)と呼ばれていた。 現在ネパールではサンスクリット語で宇宙の頭を意味する「サガルマータ」を正式名としており、シェルパを含めチベット、中国では「チョモランマ」(大地の母)と呼んでいる。 「エベレスト」は1865年、英国インド測量局長官だったアンドリュー・ウオーが前長官サー・ジョージ・エベレスト大佐に対する尊敬の念をこめてつけた名称である。ネパール政府がシェルパ族が使うチョモランマを採用しなかったのはネパール統一国家の考えに反するとしたためである。

★たっぷり1時間以上休んで北のクムジュン村3780mへ下る。ホテルの前庭からクムジュン村にかけて広がる原生林では6月中旬にあの幻の名花、ブルーポピーも見られるという。村の中央にはゴンパ(僧院)があり、石で囲った畑の中に緑に統一された民家が点在する。人口800人というから結構大きな村である。我等のサーダ、パサンテンバさんの家「タムセルクロッジ」が村の中ほどにあり、此処で昼食となった。奥さんはじめ家族で歓待してくれたのだが、どうもお腹の調子が悪く食欲が無い。

★食事の後、村内の見学で先ずゴンパに向かったが、入り口の手前でたまらずカンチャにトイレを教えてもらい飛び込んだ。薄暗くて戸惑ったが何とか用を足してよく見ると、枯れ草のようなものが山積みしてある。 気がつくと此処はあっておかしくない異臭が全くしない。これは使用後この枯れ草を上から被せるに違いないと理解してそのようにした。

★クムジュンのゴンパはイエティ(雪男)の頭皮があるというので有名である。お布施を上げてガラス容器に収められた頭皮なるものを拝観したが真贋の程はわからない。もう一つ、パンボチェのゴンパにもイエティの頭皮があったらしいが、こちらは現在行方不明、それでもイエティは人気者で、我等が乗った国内便はイエティエアラインだし、イエティ物語や未だにイエティ探しに血道を上げているグループもいるという。

◆各国寄贈の校舎が並ぶヒラリースクール

★ヒラリースクールは三つの白い仏塔と300mのメンダン(マニ石を長い壁状に連ねた塚)の先の山際にあった。各国から寄贈された校舎が建ち並び、真ん中の広場にはサー・エドモンド・ヒラリーの胸像がクーンビラを背景に立てられていた。クーンビラ神と共にあるこの設定はヒラリー卿が如何にシェルパの人達の尊崇を集めているかを物語るものであろう。

聖山クーンビラを背にヒラリー卿の像

★ヒラリーの名前の頭に付くサーは元来の貴族(ロード)ではなくナイト(騎士)に叙されたからであるが、その後、英国最高勲章のガーター勲章も受章していることは英国が威信をかけて5度にわたる挑戦の結果得た栄光が如何に大きなものであったか、しかもそれがエリザベス女王戴冠の年であったことは英国にとって正に劇的な出来事であった。

★一旦タムセルクロッジに寄ってパサンテンバさんの家族に別れを告げ、150m下のキャンジュマに向かう。適当な勾配の下りなので足がどんどん進む。石楠花の木を多く見かけたのでモンスーン季の4・5月に来ればネパール国花の赤いラリー・グラスがさぞ見事だろうと想像する。途中でぶらぶら歩いている日本人の二人組みを追い抜いた。かなりの年配に見受けたし、ちゃんとしたトレッカーの装備ではないので何処まで行くつもりか聞いたら「気持ちだけはカラパタール」には驚いたが、果たしてどうなったことだろうか。

★3時前にキャンジュマ3630mのアマダブラムロッジに到着、多分別棟の食堂からのアマダブラムの眺めがベストなのだろうが、残念ながら雲の中、この別棟はベーカリーにもなっていて自家製のパンを色々販売していた。今日の夕食はタイ米のチャーハンに茄子の煮物等、少し食欲も出てきたが、食後に正露丸を服用する、パルス69、酸素79はそう悪くない。

アマダブラム

◆シェルパ組合とロッジの待遇改善交渉に巻き込まれるか!?

★この時、東さんから深刻な情報が齎された。明日の目的地タンボチェはエベレスト街道最大の僧院がある集落なのにロッジが4軒しかなく、何とかトレッカーの泊りには対応しているが、シェルパの待遇が悪く、シェルパ組合とロッジ側とで話し合いがつかず、解決するまで宿泊出来ない可能性大とのことである。若し泊まれなければタンボチェ3860mを通過して、尼寺のあるデポチェ3710mまで足を伸ばさねばならない。所要時間は30分程度、とは言ってもタンボチェ・リー登山、ゴンパの見学等のためには再度上り返すことになる。どうなるかは行ってみなければ判らない、というので不安を抱えながらの就寝となった。 

★10月13日、5時起床、雲が多い、ティーとホットウォーターの定例サービスの後、朝食はお粥にゆで卵、ナン、出発前のストレッチをして東北に眼を向けると谷を越えて遠くの丘にタンボチェ・ゴンパが小さく見える。天気が良ければエベレストも見える筈だが今日は遠望が利かない。一旦下ってイムジャコーラを渡河して上り返し600mだから、ナムチェバザールへの上りと同様の標高差だが、今度は3000m台からの上りなのでキツサ加減は倍加しそうである。タンボチェ到着が昼を大幅に過ぎることも考えられるので、めいめい若干の行動食を携行する。

★7時半、歩き始めて直ぐにサナサの三叉路に出る、左にモン・ラ、ゴーキョピークへの道を分けてひたすら下る。 深いゴルジュ(峡谷)を抉って流れる河を見下ろしながら山腹をゆるく巻いて樹林帯を過ぎると当初宿泊予定だったテシンガ3380mだ、川筋の奥にはタウツエが見える。

★川に架かる橋は珍しく木橋なのでサーダに聞いたら、去年の洪水で吊り橋が流され、これは仮りの橋でいずれ又吊り橋になるとのことだった。橋を渡った所がプンキテンガ3250m、1時間20分で400mを下りてきたことになる。此処はタンボチェゴンパの門前らしく珍しい水車のマニ車があってバツティ(掛け茶屋)も数軒ある。これから先の急登に備えてゆっくり休息する。

◆石楠花の中を喘ぎながら急登

★鬱蒼と茂る樹林の中を登る、河からの立ち上がりだからいきなりの急登だ、周りに石楠花が多い。20分位づつで小休止をしてくれるが、休憩の声が掛かるのが待ち遠しい。なるべく鼻から息を吸ってと思うのだが、ついつい口を開けてハーハーやってしまう。一寸立ち止まっては深呼吸(吸うのではなく思い切って吐くことが肝心)を数回してから又歩き出す、石の露出が多く歩き辛い。

★ジグザグに急坂を1時間半ほど登ると樹林帯を抜け裸地となり、傾斜もやや緩やかになる。振り返ると対岸に昨日泊まったキャンジュマのロッジが見えた。道は斜道になり、時折赤い小さな実をつけたメギが目を楽しませてくれる。水場で休憩してから少し登り、左へ曲がってカンニ(仏門)を潜るとタンボチェの台地3860mに建つ僧院の全貌が現れた。

★600mを2時間半で登り、11時30分にタンボチェゲストハウスに到着、食堂が使えず前の広場でピクニックランチというので宿泊出来るのかが気になったが、こちらはOK、但し問題が解決した訳ではなく、一時棚上げしただけ、それでもデポチェ迄行かずに済んだことは有り難い。

★雲が下りてきて冷たい風が吹く、気温も下がってきた、眺望は望めないがタンボチェ・リー4198mを目指すなら早いほうが良いと食事もそこそこにレインウェアーを着て出発、先ずタルチョーがはためくチョルテンを目指す、此処は一寸した台地になっているので休憩かと思っていたらどんどん行ってしまう。下方にはタンボチェの全景と尼寺のあるデポチェまで俯瞰することが出来る。 

◆草花の写真を撮る余裕もないほどバテバテに

★途中から我等の後で食事を済ませたカンチャとギャルツエンが追い付いてきた。4000m台に入ったからか植物相が変ってきた。デイジーのような花や、花冠に綿毛をつけたようなものもある。元気があれば写真を撮るのにその余裕は全く無い。 

★道は急傾斜の険しい岩道になり、家内は先頭を行くカンチャの後をしっかり歩いているのに、私は最後尾をよろよろ着いて行く。始め10分位は続けて歩けたが、その内5・6歩歩いては立ち止まるようになってしまった。 ハーハーゼイゼイ、多分これが収まらなくなったら肺水腫になるのだろうとぼんやり思う。最後はギャルツエンに抱えられるようにしてやっとタンボチェ・リーの頂上を踏むことが出来た、タンボチェからの標高差338m、所要時間1時間40分、こんなにバテバテになったのは殆んど記憶に無い。

★背後にカンテガの白峰が迫り、クーンブ山群の絶好のビューポイントである筈だが、あられが頬を打ちガスが通り抜ける悪コンディション、身体もどんどん冷えてくるので記念写真を撮って早々に下山開始、丁度1時間でタンボチェに帰りついた。 

★ロッジに待っていた2人の女性を誘って僧院から5分程の所にある加藤保男の顕彰碑を見に行く、緩く上った丘の上だが、いくら緩くても上りは急げない加藤保男はエベレストに春秋厳冬期と3度登頂し、1982年12月27日の厳冬期には単独初登頂を果たしたものの、下山中ビバークして消息を絶った。 この碑は彼の母校日大文理学部体育科が10周年記念に建立したものである。碑面が痛ましくひび割れていたが、この土地の厳しい自然条件のせいなのだろうか。 

◆エベレスト街道最大の僧院を見学


★ゲストハウスに帰る途中に僧院があるのでついでに見学することにした。この僧院はエベレスト街道最大のチベット仏教寺院で、エベレストを目指すシェルパ達は必ずお参りして占いを立ててもらう。然し、この僧院は災難続きで、初めの建物は地震で倒壊して初代ラマが亡くなり、1989年には漏電による火災で本堂が焼失、シェルパの名仏画師カパが描いた壁画も失われてしまった。今の建物はヒラリー卿等ヒマラヤニストが世界中に呼びかけて4年後に再建したものである。

タンポチェ僧院

★院内にはリンポチェ(活仏)を中心にベンガラ色の僧衣をまとった多くの修行僧が勤行に励んでいる。あちこち写真も撮りたかったが禁止の表示があったので遠慮した。行事としては毎年11月の満月の日に行われるマニ・リムドウという仮面舞踏劇が有名だ。此処に来て気がついたことは荷物運搬の主役がゾッキョからヤクに変っていたことだ。ヤクは3500m以上とは聞いていたが、ゾッキョより大型でふさふさした長い毛をもっている。ヤクを使うシェルパの掛け声や鋭い口笛が響いていた。

★こんな高地なのにからすがやけに多いと思ったが、ネパールはからすの宝庫でジャングルから氷河のほとりまで多様な植物相が有る為にその種類も852以上というから驚く。からすは地獄の閻魔大王の使者で、11月、新月の2日前のカーグ・ティハール(カーグはからすの意)はからすにご馳走を上げる日というから、ネパールの民衆とからすの繋がりは我等が想像する以上のもののようだ、ティハールはこの後、犬の日、牝牛の日が続く。

★今日の夕食はおでんがメイン、パルスオキシメーター値はパルス76、酸素80だったから3860mの高地にしてはそんなに悪くない、空気中の酸素濃度は平地で21%だがタンボチェの高度では三分の二として14%位に減っている筈だ。

★寝る前に今年の4月、地球温暖化で氷が溶けてヒマラヤの氷河湖の水位が上がり、洪水の危険が高まったことが話題になり、それを取材に来た日本テレビの女性ディレクターが高山病になって此処の僧院の門前で死亡した話を思い出した。若し高山病に罹るとすれば今晩の睡眠時、呼吸が浅くなって摂取酸素量が減り血中酸素が不足してダウンするケースかもしれない。気温が下がっているし身体を冷すことも禁物なので上下にフリースを着込みネックウオーマーに毛糸の帽子を被って寝袋に潜り込んだ。

◆ゴンバの僧侶が吹くドウンで目が覚める

★10月14日、朝5時半、ゴンパの僧侶が吹くドウンの腹に響く音で眼が覚めた。ドウンはチベット仏教で勤行を始める際に吹くアルペンホルンに似たラッパだ。 6時のモーニングティーを片手に外へ出た。寒い、一面に霜が降りている。天気は快晴、ヒマラヤンブルーの空の下、西に横たわるクワンデ山群の白がまぶしい。

★この旅を始める前にこれだけのことが出来ると好いなと思っていたこと、「エベレストを見たい」、「タンボチェのゴンパに行きたい」、「タンボチェ・リーに登って4000mをクリヤしたい」は全て完璧に目的を達成した。これで後は全員無事帰国となれば云うことなしである。

タンポチェ・リー4198m登頂(左手前が筆者

★帰りは気分的にも余裕が出来て8時の出発、下り始めて直ぐ左の藪に美しい鳥を見た、クムジュンで運が良ければ朝、畑に来ると聞いていた虹キジ科のダフェ(ネパールの国鳥で帝王キジとも言う)だ。途中から旧道に入る、道は狭いが人通りが少なく樹林帯をのんびり歩ける。 河畔のプンキテンガへは1時間半の下りだった。橋を渡ってからの上りは、この行程最後の急登かも知れない、然しあせることは無いので数回の休みをとりながらサナサを経由してお昼過ぎにはキャンジュマに着くことが出来た。食堂が使えずロッジ裏にブルーシートを敷いてヌードル、揚げパン等を食べたが、日差しが強く暑い、今朝の寒さが嘘のようだ。

★今日はクムジュンを通らないので上りは無く、山腹を大巻きに巻いてナムチェへ直接向かう。道の真ん中に穴を掘っている人がいた、タルチョーを立てるらしいが、何で道の真ん中なのだろうか、位置とか方位にも意味があるのかもしれない。

◆好いお爺さん、悪いお爺さん

★次に緑色のドネイションボックスを傍に置いて道端に座る老人がいた。東さんの話ではこの方はパサンセルパさん(70才)で、かって狭かったこの街道を一人でコツコツ整備し、3倍に広げ、今も道を良くするべく頑張っているとのこと、何でもお役所に頼りがちな世の中にこんな奇特な人がいるのは素晴らしい、家内と二人でドネイションボックスに500Rs(約850円)入れさせてもらった。 

★世の中は面白いもので、暫く行くと又お爺さんが道端に座っている。ドネイションボックスを傍においているのも同じ、処がこのお爺さんは寄付は集めても工事は何もしていない、成る程座っている周りですら道は少しも良くなっていない。通る人達は皆このことを良く知っていて素通りして行く。東さんがサーダに日本語で「好いお爺さん」と「悪いお爺さん」と教えると、何回も繰り返して喜んでいた。

★遠くから見えていたチョルテンに着いて見ると、これはテンジン・ノルゲイが1935年英国のハント隊の一員として5月29日、ニュージーランド人エドモンド・ヒラリーと共にエベレスト初登頂を果たしてから50周年を記念して彼の家族が建立したものだった。尚、この50周年にはテンジン・ノルゲイの孫タシ・ワンチュク・テンジンがヒラリーの息子ピーター・ヒラリーと共にエベレスト登頂に成功している。

★今日はそんなに厳しい行程でもなかったのに、目標達成后の脱力感か少し疲れた。ナムチェバザールの宿は前回の対面、東側上部にあるA.D(アンドルジー)フレンドシップロッジで主人のアンドルジーはゴーキヨへ出かけていて不在だったが、私が親しくして頂いている赤沼健至さんの燕山荘へ毎年6月に行っているとかで、食堂には羽子板や凧、鯉のぼり、三浦雄一郎氏と撮った写真等が飾られていた。 

★部屋は3階、階段の段差が高く、上がり下りがきついのは疲れが溜まって来たのかも知れない。夕食はカレーに味噌スープ、食後にパインアップル、明日からは3000m以下の世界となるので、パルスオキシメーターの測定もダイアモックスの服用も終了とした。

★10月15日、当初の行程はルクラまで一気に帰る7時間歩きの予定だったが、往路ナムチェから前倒しにした1日分の余裕があるので、無理をせずパグディン泊まりに変更、随分楽になった。朝食はお粥とスフレーのようなもの、ストレッチをして8時に出発、今日の先頭はギャルツエン、帰りはバザール会場の下を通ってナムチェを出た。こうやって何日もグループで歩いていると、不思議に歩くポジションが決まってくる。順番が違うと‘お先に’といったり、立ち止まって譲ったりで所定の位置にはまらないとなんとなく落ち着かない。私の場合は写真を撮りながらということもあったが、殆んど最後尾だった。 

◆谷合の遠くにエベレストとローツエを望む

★今日も静かな旧道を歩く、左手にタムセルク、クスムカングルが並ぶ、右手ボーテ・コシの上流の峰はティンギ・ラギ・タウ6943mと教わった。下りの中間点、トップダラにはトレッカーが多く屯していた。ポーターが私にチョモランマと言う。行きには見られなかったエベレスト、ローツエが谷合から遠く、然しはっきりと見ることが出来た。これが見納めと思うと、なんともお名残惜しい。

最高峰エベレスト8848m(左)とローツエ8516m

★10時過ぎにドード・コシ、ボーテ・コシ合流点の吊り橋を渡って河原へ出た。この後ジョサレ、モンジョと2度吊り橋を渡るが、橋はやはり渋滞の原因になる、モンジョ側へ渡ろうとした時、いうことを聞かずにぐずるゾッキョの隊列に遭遇した為、橋の袂で10分待たされたが、ここを生活道路としているシェルパ達にとっては全くイラツクようなことでは無いらしい。国立公園入り口のチェックポストでは、アルパインツアーサービスの一行と出会った、彼らはカラパタールを目指すらしいが、厳しい毎日を無事乗り切るよう祈らずにはいられない。

★モンジョゲストハウスの庭でランチ、と思ったらパラパラッと来た、幸い直ぐに収まったのはラッキイ、乾季に入ったとはいえ未だ午後の天気が安定するまでにはなっていないのかもしれない。ベンカールのウオーターフォールビューロッジ辺りで冷たい風が吹いてきて気温が下がった。 ウィンドブレーカーを羽織って進む。 トクトクを過ぎればパクディンはもうそんなに遠くない。 サンライズロッジには3時過ぎに到着、食堂でゆっくりお茶を飲みながら過ごす。

★昼頃から何かメガネの調子がおかしいと思ってよく見たら鼻押さえの一方が折れていた。直ぐにスペアのメガネに代えたが、眼鏡屋なんてとんでもない、こんな旅行にはスペアは必携だなあとつくづく思った。部屋で休んでいたら停電、勿論ヘッドランプを持っているし慌てることも無かったが、10分位で点灯、逆に何か少し便利になり過ぎているような気がした。

◆ぐにゃっと踏みつけた柔らかい物は


★今年の仲秋は9月14日だったが、今宵は満月の筈、窓から外を伺っていたら午後8時20分頃、真ん丸い月を見ることが出来た。これで満足しておけばよいものをトイレに起きた際、窓越しではなく外で月見をしてやれと階段を下りていったら、泥除けマットが敷いてある上がり口でなんだか柔らかなものをぐにゃっと踏みつけた。びっくりして眼を凝らすと大きな黒犬がむっくり起き上がってくる。吼えもせず、噛み付いてもこなかったから良かったが、月見どころではなくなりほうほうの体で部屋へ逃げ帰った。


★10月16日、昨夜踏みつけた犬のことが気になって周りを見たら、いるいる、10匹位もいて色や大きさも様々、どれがその犬か判らないが、吼えもせず悠然としていた大物ぶりは多分この群れのボスで、あの階段下のマットは彼専用のベットだったに違いない。

★今日はいよいよルクラへ向けてのラストウオーク、昼食の場所を何処にするか一寸悩ましかったが、下りの往路4時間が上りになっても5時間になることは無い、昼食は遅くなってもルクラで落ち着いてと決めて出発した。我々一行の前になり後になりして黒犬が一匹ついてくる、途中で別の犬に入れ替わったかどうか犬の面相を識別する自信がないので何ともいえないが、ルクラの村はずれ迄着いてきたのは間違いない、ひょっとして踏みつけたあの犬が特別の親近感を持ってついて来てくれたのだろうか。

★タロコシのウィンドホースロッジでチベットティーを飲んだ、ヤクバターを溶かし込んだ紅茶で意外にあっさりとした軽い塩味、2杯で30Rsだったが中々のものと満足。ロッジの屋根の向こうにクスムカングルの雄大な雪峰が聳え立っていた。タドコシコーラブリッジを越える辺りが最低点で、後はルクラへ350mの上りになる。

★11時30分、ルクラへ先行したキッチンスタッフがわざわざホットジュースを届けに来てくれた、重いのにご苦労さんでした。石組みの休み場、チョータラに腰掛けて有り難く頂く。チョータラの上には松の幼木が並んで植えられている、30cmほどで未だ3年目、これが大木に育つには何年の月日がかかるのだろうか。 

◆トレッキング出発点に戻り着いた

★ルクラの入り口へは石畳と石段が続く急登、日差しが強くなり厳しい暑さ、パサン・ラムのメモリアルゲートを潜る頃には一汗かいていた。トレッキングの出発点、ルクラリゾートへ12時30分到着、ゆっくり歩きの4時間40分、ナムチェバザールからの一気歩きでなくて本当に良かった。

★食堂には既に昼食の支度が出来ていたが、先ずはトレック中、封印されていたビールで乾杯、銘柄が「エベレストビール」とは又嬉しい、全員無事エベレスト街道トレッキング完了を祝っての乾杯は味も一入、感激も一入であった。又クッキングスタッフが用意してくれた野菜てんぷらうどんは只美味かっただけでなく、彼らの優しさの様なものを感じた。

★部屋のベッドで横になりゆっくり休む、窓の外にはゾッキョが草を食み、ファーリーが雲の上に浮かんでいる。 暫くまどろんでいたが、庭にお茶の用意がしてあるというので出てみた、みんなこざっぱりした衣服に着替えて楽しそう、土産物を物色しに行く者もいた。

★キッチンスタッフが作ってくれた最後の夕食はフライドチキン、野菜サラダ、バラ寿司、デザートのケーキまでつく豪華版。エベレストビールの後で出されたサトウキビで作るというネパールラム酒のお湯割りは優しい味だった。これだけ気を使って食事を提供されると、日本を離れて長いから日本食を食べたいなどという気には全くならず、逆に現地の食事を試したくなって、後日ダルバート(豆スープ付ご飯)を食べに行った位だった。

◆感謝のフェアウエルパーティを開く

★食後は我々の方からもお願いしていたスタッフ12名全員とのフェアウェルパーティ、我等の夢実現のために大きな力を貸してくれたお礼を述べ、心ばかりのチップをめいめいに差し上げて、飲みながら歓談、やがて彼等から当地の民謡「レッサム・フィリリ」の歌声があがると、一人が踊りだし、やがて我々もその踊りの輪に巻き込まれていった。

★10月17日、飛行機に乗るにはとにかく早く飛行場に行って待つしかないので5時前に起床、お粥とお茶だけで支度をして庭先に出ると、サーダ以下数名が待ってくれていて、旅の安全を祈る「カタ」(絹布)をそれぞれの首にかけ、別れの挨拶をしてくれた。

★シェルパが外国人の登山やトレッキングのの手助けを生業とするようになってから随分月日が経っている筈だが、一寸も悪擦れしたところが無く、謙虚で優しく誠実で勤勉な態度は、私自身の心が洗われる思いだったし、世の中にこのような人達がいることが嬉しかった。

★私はこの後、カトマンドウでヒマラヤを空から俯瞰するマウンテンフライトを経験した。当初、出来ることならカラパタールかゴーキョピークで近くエベレストを見たいと願った想いを補完するために、一つは望遠レンズを、もう一つはこのマウンテンフライトを選んだ心算だった。

★飛び立って直ぐにランタンヒマール、ロールワリンヒマール、クーンブヒマールの山群が続いて白銀の姿を現す。広大な拡がりの山並みを目の前にして、この時とばかりシャッターを切り続けたが、欲張って望遠レンズを多用したのは大失敗、冷静に考えれば手ぶれ防止のスタビライザー付のレンズといえども、飛行機の揺れと窓越しの撮影ではまともに撮れる筈はなかった。僅かに標準レンズ使用のものが数枚助かっただけとは情けない限り。

★僅か40分のフライトでトレッキングでは見られなかったチョー・オユー8201m、ギャチュン・カン7952m、マカルー8463mなど多くの山々を見ることが出来たし、何よりもヒマラヤの大きさを実感したことは素晴らしかったが、私としてはやはり足で歩いて眼に焼き付けたヒマラヤに軍配を挙げざるを得なかった。

★このエベレスト街道トレッキングは忘れ得ぬ思い出として何時までも心に留まることだろう。お力添えを頂いた多くの方々に心から感謝申し上げる。 (終り)

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