いなほ随想特集

ヨーロッパ・アルプス最高峰周回トレッキング170km 78歳の挑戦!
Tour du Mont Blanc
モンブラン山岳紀行



2008.7.13.撮影
山本浩(29政経)
文・写真


[序にかえて]

◆愛称はTMB

★ツール・ド・モンブランは、ヨーロッパアルプスの最高峰モンブラン(4810.9m)の周り約170kmをぐるりと回るヨーロッパ随一のトレッキングコースである。
フランスのシャモニを起点にイタリア、スイス、そして再びフランスと三国に跨る長大なコースで、通常TMBの愛称で呼ばれている。

★昨年(2008年)の秋、エベレスト街道を歩いた時から、次はこのTMBと決めていた。
というのは、私の登山で10年来お世話になっている燕山荘の赤沼健至、敏治ご兄弟から「最も素晴らしいトレッキングコースはツール・ド・モンブラン」と何度も伺っていたからでもある。

★天渓代表、赤沼敏治さんと打ち合わせをしながら参加者を募ったところ、思いがけず16名の応募があったので、残雪はあるかもしれないが、高山植物の花の期待が持てる7月初旬の10日間をこの旅に充てることにした。
今回のガイドはツエルマット在住でサスフェー観光局の志波邦彦さん、成田からは山岳写真家の磯貝猛さんが同行することになった。いずれも赤沼さんご推奨の強力ガイドである。

モンブラン4810.94m

★旅に先立ってモンブランなる山のことやツール・ド・モンブランについて少し調べてみた。モンブランはフランス革命以前にはその全体がサルディーニヤ王国の領土だったが、革命後幾多の変遷を経て、イタリアと接しているが、頂上はフランスの領土とされている。標高は従来4807mが長く使われてきたが、今は2007年にフランス国土地理院がGPSを使って計測した4810.94mが一般的となっている。然し実際の標高は積雪量によって毎年変動するので、2年ごとに計測するが、ヨーロッパアルプスの最高峰であることに変りはない。

★モンブランはフランス語でMont(山)Blanc(白い)「白い山」の意であり、イタリア語では同じ意味のモンテ・ビヤンコ(MonteBianco)である。
又、お菓子の「モンブラン」はこの山の形が語源であるが、これは明らかにフランスのシャモニ側からのたおやかな形であり、イタリア側の峨々たる厳しい山容ではない。

★モンブランに最も近い町は、フランス側ではオート=サヴォワ県・シャモニ、イタリア側ではヴァッレ・ダオスタ州クールマイユールで、1957年から1965年に掛けてこの二つの町を結ぶ全長11.6kmのモンブラントンネルが掘削され、アルプス越えの主要ルートの一つとなっている。

モンブラン秘話

★モンブランの初登頂には一寸した物語がある。古来モンブランは魔の山として恐れられ、登る者は生きて帰れない、山で夜を過ごすことは出来ないと信じられていた。

★1760年にスイスの博物学者オラス=ベネディクト・ド・ソシュールがシャモニ渓谷を挟んでモンブランに対峙するプレバン(2525m)からモンブランを眺めて、周辺の山々を見渡せるモンブランの自然科学的意義に気付き、モンブラン登頂ルート発見者に莫大な賞金を出すことを決意した。

★それでも登頂の契機となったのはそれから実に26年後、ある登山隊が悪天候の為、引き返さざるを得なかった際、水晶細工職人のジャック・パルマは動けなくなり、一夜雪中にピバークして翌朝シャモニの町に戻ってきた。絶望と思われていた彼の生還は今までの迷信を取り除き、一気に登頂の機運は高まった。

★バルマと知己の仲だったシャモニ生まれの医師ミッシエル・パカーは二人で登山計画を練り、1786年8月7日に登攀開始、ボソン氷河上部コート山頂に露営、翌8日4時に氷河地帯突入、18時23分揃って頂上に達した。 この模様はシャモニから望遠鏡で確認されていたと言う。時にフランス大革命の3年前、日本では江戸時代後半のことであった。

モンブラン東斜面の朝焼け

★登頂ルートを得たソシュールも翌年バルマと大勢のガイド達と共に登頂を果たしている。シャモニはモンブランと氷河の観光だけでなく1924年に第1回の冬季オリンピックが開催されるなどスキーのメッカでもある。シャモニのスキーはモンブラン初登頂から1世紀後、ミッシエル・パイヨーという医師が孤立した部落を往診する為に、北欧で平地移動に使われていたノルディック・スキーを広め、その後改良が加えられて山岳を滑り降りるアルペン・スキーへと発展して行った。一般のスキーでは限界に近い3800mの高度でグランドジョラス、ダン・デュ・ジェアン、ドリュー等の名峰に囲まれて、広大な氷河の上で滑るパレブランシュの魅力はスキーヤーならずとも想像に難くない。

◆モンブラン周回の超人マラソンUTMB

★ツール・ド・モンブランについてもう一言付け加えておきたいのは、2003年からモンブランの周囲を一周するこのコースを走り抜ける競技が行われていることである。ウルトラトレイル・ド・モンブラン通称UTMB、年々道の状況によってコースに多少の違いはあるが、2009年は距離166km、2500m級のピークを4つ、2000m級のピーク5つ越える累積標高差9400m、シャモニを出発して46時間以内にシャモニへ戻ってくるという競技である。

★7年前の第1回は雪のため800人の参加者中完走者は僅か67人、近年完走率は50%程度に上がってはいるが、最低限のエネルギー補給をしながら夜を徹しての走行だけに、寒さと眠気のためにリタイヤする者が多い。このルートは若し通常のトレッカーが全行程を歩くとすれば、小屋泊まりをしながら9日間〜10日間を要する行程である。

★我々は一般的にもそうするように、費用と日程の他、平凡な景観の場所は車を使う為、6日間の日程としたが、この競技のトップクラスの選手はなんと22時間程度でゴールインしてしまう。日本人も2009年には30名が参加し、鏑木毅選手は2008年の4位についで、22時間48分で、参加選手2300人中3位に入賞している。然し2008年に帰国する際には疲労困憊して、車椅子で帰国せざるを得なかったというから、この競技が地球上で最も過酷なレースと言われるのも尤もであろう。


[わがモンブラン周回トレッキング紀行]

2009年7月7日(火)出発

★成田からジュネーヴへ向かうには色々なルートがあるが、有利な航空券を探してブリティッシュエアー(BA)を使うことになった結果、ロンドン経由となった。大圏航路を飛ぶ為、荒涼たるシベリア、氷結の北極海、スカンジナビヤ半島を経てロンドンでトランジット、飛行機出発遅れのためジュネーヴでガイドの志波さんの出迎えを受け、高速バスでシャモニ入り、宿舎のグルメイタリーに着いたのは現地時間で翌日の1時30分(時差7時間)にもなっていた。日本から地球を西へ回った時に経験する長い長い一日はやっと終わった。

7月8日(水)

★シャモニは人口約1万人、平均標高が1037m、明日は初日から標高差1100mを7時間かけて登るので今日は身体慣らし、先ずは高度順応のためモンブランの対面にあるブレヴァン(2525m)へ上がることにする。ホテルを出てアルヴ川を渡りモンブランを指差すジャック・バルマとベネディクト・ド・ソシュールの像の前を通り、サン・ミシエル教会の横の坂道を登るとテレキャビンの乗り場がある。

モンブランを指すパルマとソシュール像

★8分で中間駅プランプラ(1999m)、大型ロープウエイに乗り換えて5分でブレヴァンに到着する。なんと辺りは雪、モンブラン山群は全く見えない。小雪の舞う中、雪の中から顔を覗かせているマウンテンデイジー、ミヤコ草などを見ながら30分ばかり晴れ間を待って散歩したが諦めて下山、すると途端に青空が広がり山が見えてきたとは皮肉なものだ。正面にボソン氷河を従えたモンブラン、左手にシャモニ針峰群、慌ててシャッターを切りまくった。

プレヴァン展望台2525m ボソン氷河の末端
霧中のヴェルト針峰群 朝のシャモニ針峰群

★日本人経営の「さつき」で昼食を済ませ、スーパーへ果物を買いに行ったらトマト、バナナ、なんでも目方計算の量り売り、明日のランチの食材(ハムやパンなど)を仕入れてホテルに帰り、エーギュ・ド・ミディ行きの可能性をホテルのマスターと相談したが、この時間からこの天候では無理とのこと、それではと急遽メール・ド・グラス氷河のあるモンタンヴェール(1913m)へ行くことになった。 

◆荒々しい北面をみせるグランドジョラス

★エーギュ・ド・ミディについては最終日に再度チャンスを窺うことにする。モンタンヴェールは登山電車で約30分、900m登った所にある。途中左手の樹間に赤い針峰がちらちら見えるが残念ながら際立った鋭角三角錘のドリュ(3754m)の姿は雲の中だった。メール・ド・グラス氷河はモンブラン東面を流れるフランス最大の氷河で、奥にはアルプス三大北壁の一つグランドジョラス(4208m)が聳えている。駅の広場から見渡すと灰色の竜のようにうねる氷河の向こうに頂上までは見えなかったが、グランドジョラスが荒々しい北面を見せていた。
 

モンタンヴェール駅からグランドジョラス 氷河へのテレキャビン

★余裕があればテレキャビンで氷河に下り、更に氷河に掘られたトンネルに入ることも出来たが、寒いし明日の準備もあるので帰ることにした。ホテルでは明日から携行するものをリュックに、4日目のクールマイユールに送る着替えなどを別の袋に、ホテルにおいていく物をスーツケースにと仕分け作業が一仕事だった。

◆いよいよツール・ド・モンブランのスタート

7月9日(木)

★5時半、鳥の鳴き声で眼が覚めた。直ぐにモンブランの姿が気にかかる。未だ西の空に月が浮かんでいて薄暗かったが、やがてシャモニ針峰群からモンブラン山群に掛けて紅色に輝いてきた、モンブランのモルゲンロートだ。暫し見とれていたが、朝は忙しい、バイキングの朝食を済ませ、スーツケースとクールマイユール行きのバッグを玄関ロビーに出し、4日分の荷物を詰めたザックを担いでチェックアウト、バスに乗り込んでいよいよツール・ド・モンブラン出発である。

★今朝は非常に良い天気なので、始めに少し寄り道をして、昨日モンブランを眺めたテレキャビン乗り場へ行って写真を撮ることにした。その名のごとく白く輝くこの景観は何度眺めても見飽きることがない。走るバスの右手にブレヴァンとプランプラをつなぐロープウェイのケーブルが見える。朝市をやっていたサン・ジェルヴェ鉄道のル・ファイエ駅を過ぎた頃、カナダから赤沼敏治さんが電話をしてきた。今回はカナディアンロッキーのイヴェントと重なり同行できず気になっているらしい。

山頂から青空を右へ延びるケーブルの見えるプレヴァン

◆トレッキングの出発点ゴルジュに到着

★コンタミンヌに差し掛かると遥か彼方に今日の目的地、ボンノムのコルが見えてくる。明るく開けたモンジョアの谷間を暫く走り、車道が行き止まりになるとトレッキングの出発点、ノートル・ダム・ドウ・ラ・ゴルジュ(1210m)到着である。草地の一角に小さな教会が建ち、タカネバラのような赤い花が咲いていた。スタート地点には大木の幹を彫った像が建っているが、これは「山の神」だろうか。

木彫りの不思議な像は山の神?

9時半出発

、小川を渡り、正面の道標を右へ進むと直ぐ急登となる。 石畳の道幅は広いが暫く樹林帯が続く。 併走する川は時に滝となり渓谷となる、ゴルジュの地名の所以であろう。1時間ほどで辺りが開けた草原帯に出るとナン・ボーラン小屋(1459m)があるが休まず通過する。
この辺りから花が多い、種類も多く勿論知らない花もあるが、意外に日本で見かける花も沢山ある。 ヤナギラン、ハクサンフウロ、テガタチドリ、アザミ、勿忘草、などなど、カメラを構えるのが忙しかった。
ゴルジュ ツール・ド・モンブラン出発

★のんびりと牛達が草を食む牧草地を抜けるとバルムの小屋(1706m)に到着、丁度12時だが昼食の声はかからず近くの草原で休憩しただけで出発、この辺りが森林限界でこれからは岩山の登りになる。振り返って登ってきた方を見渡すと緑の草原の中に一本の道が何処までも続いている、随分登ってきたなあと思う。

振り返れば

◆冷雨の中をボンノム小屋に辿り着く

★落石の危険箇所をジグザグに上り、ジュペ湖への道を左に分けてティュムユルスの大ケルン(2043m)を過ぎてやっと昼食、14時20分、昨日仕入れた食料を頬張るが、空が翳って冷えてきたので食事もそこそこに出発する。この辺りでは羊を放牧している、左に連なる雪渓をマーモットが駆け下っていった。ゆるい登りから急登になり15時40分ボンノムのコル(2329m)到着、小さな避難小屋がポツンと淋しげに建っている。

★冷たい雨が降ってきたので雨具を着用、コースは本来ローチャ・デユ・ボンノム(2599m)の中腹を登りクロワ・デユ・ボンノムのコル(2479m)を越えて小屋に至るが、この霙交じりの雨の中を無理して登ることもないと、巻き道を行くことにした。巻き道とは言っても岩をよじ登るような箇所もあり楽な道ではなかったが、17時30分、砂礫のなだらかな斜面に建つクロワ・デュ・ボンノム小屋(2443m)に到着した。

クロワ・ドュ・ポンノム小屋

★屋内はとても清潔で感じが良い、我々に割り当てられた部屋は3室でそれぞれ山の名前がついている、女性がカンリンポチェ、男性がジャヌーとアイガーだった。シャワーは人によって湯の出方の良し悪しがあったようだが、ともかく落ち着いて19時から夕食、ビールやワインを飲みながら野菜スープ、ビーフシチュー、コーンフォンデユ、デザートケーキとゆっくり食事を楽しんだ。21時就寝、今日はさすがに疲れました。

◆朝露を付けた花々が広がる岩肌の斜面

7月10日(金)

★5時半目覚め、天気は良いらしい、6時半朝食、予て山小屋の朝食は何処も素っ気ないと聞いていた。大きな木製のボウルにミルクかチョコレート、コーヒーを貰い、パンにジャム、バター、ハニー等をつけて食べるだけだがそんなに不足は感じない。


★出発前、外に出てみた。遠くの山は少しかすんでいるが,小屋の前の斜面は魚のうろこのような岩肌が広がっていて、そこに朝露を付けた花々が一杯に咲いていた。
朝露


★今日のコースは2つあって、谷合をシャピューへ下るノーマルコースとクロワ・デュ・ボンノムのコルからフールのコル(2665m、TMBの最高点)を越えてグラシエ村に到るヴァリエーションコースである。景色はヴァリエーションコースが良く距離も稼げるが、7月の初旬は積雪の状況によって危険を伴うので判断が別れる処だ。

★直前情報によって幸い我々はヴァリエーションコースを選択できることになり、8時過ぎ、昨日スキップしたクロワ・デュ・ボンノムのコル目指して出発する。コルには柱状の大きなケルンが積まれていてヒマラヤでよく見かけるタルチョーのような旗が巻かれていた。

★コルの分岐から岩と雪の道になる。高圧線の下を抜け、雪渓を越えて進むが雪は硬く締っていて滑り易いのでしっかり踏みしめながら歩く。後ろからパナウエーブの訓練部隊が追いついてきた、白のユニフォーム、ノルディックスタイルで雪渓の中をぐんぐん登ってくる、あっという間に追い抜いて視界から遠ざかっていった。

9時15分

★フールのコルに着く。前方に広い谷が広がり、目線を上げると明日越える予定のフランス、イタリア国境セイニュのコル(2516m)、更に尖った岩峰を持つグラシエ針峰(3816m)がよく見える。

フールのコルへ

◆エーギュ・ド・グラシエはグラシエ村のシンボル

★エーギュ・ド・グラシエはこの後、グラシエ村の何処からでもその立派な山容を眺めることが出来たから、その名前からして間違いなく村のシンボルなのであろう。岩の裂け目にウサギギクのようなオレンジ色の花が並んで咲いている。 あたかも私達がこの岩を割って出てきたのよと言っているようだ。

エーギュ・ドゥ・グラシエ
ウサギギク アルペン・マンシルド

★なだらかな弧を描くコルからザレた岩の急な下りをジグザグに下りる。残雪が多ければ当然アイゼンが必要になる所だが、ともかく傾斜に押されてスピードが出過ぎないよう注意してゆっくり歩く。

★250m位下ると左手に斜面を大きく抉り取った滝が現れた。直下型の滝ではなく、日光の竜頭の滝のように数百メートルにわたって斜面を豪快に流れ落ちている。又抉れた地層が織り成す様々の模様が素晴らしく、夢中でシャッターを切った。後で考えてもこの滝は間違いなくヴァリエーションルートのチャームポイントだと思うのに、どの地図を見てもちゃんとした名前がなく「大きな滝」としか表示していないのは不思議な気がする。

大きな滝

★滝の末端の流れを渡り、更に下ると大草原にお花畑が広がっていた。 デイジー、アザミ、リンドウ、それにアルペンローゼも出てきた。お花畑の中に点在する岩に腰掛けて昼食をとる。 折角咲いている花を傷めないようにと思ってもこの花の絨毯では中々難しい。

◆モッテ小屋を目指す


★無人のレ・テュフの小屋(1993m)を過ぎるとグラシエ村のアルプ小屋や今日の目的地モッテ小屋もはっきり見えてきた。花に囲まれつつ川まで下りきる(1789m)と、TMBモッテ小屋へ30分の標識があった。


モッテ小屋は近い

★此処でシャピユーからのノーマルルートと合流し、小屋へ向けて車道をたらたら登って行く。 右手の斜面には牛が放牧されていて、搾乳したミルクを直ぐに処理するらしい車が置かれていた。

14時55分モッテ小屋(1870m)到着。 

★食堂、シャワーの小屋と寝室は別棟になっていて、寝室棟は真ん中の通路を挟んで両側にベッドが並んでいる日本の山小屋でよく見かけるスタイル、これはどうも元、家畜小屋だったらしい。
ザックをベッドにおいて食堂に行き、とにかくビールで乾杯、つまみのトムサボアチーズはシャモニ以来のおなじみで大変気に入っている。

★シャワーを浴びて仮眠していたら日本のアミューズトラベル(帰国後トムラウシの遭難事故で話題になった)のグループがやってきた。 ここは車でも入ってこれるのでスーツケース持込、この一行とはこの後も数回接点があった。

★モッテ小屋はTMBのコース上最も古い小屋のようで、すすけた天井の桟にはかんじきや狩猟道具、獲物の剥製などが飾られている。ただ料理の美味さは定評があり、特に具沢山の野菜スープの味は絶品、お代わりをしたほどだった。 牛のすね肉の煮込みも赤ワインによく合ったしタイライスに食後のプディングも美味かった。食事に堪能した頃、小屋の女主人がアコーディオンを持って現れ、演奏してくれたがこのもてなしの温かい心配りは真に嬉しかった。

モッテ小屋の飾り(中央左の動物はウシ科のシャモア、
右はウシ科ヤギ亜科のアルプス・アイベックスの角)
モッテ小屋の女主人

7月11日(土)

★今朝は小屋からいきなり急登となるのでストレッチを充分してから8時過ぎに出発。 九十九折に高度を上げていくと真下のモッテ小屋がどんどん小さくなる。あんな所にと思うような岩稜に数百頭の羊群が見えたが、彼等のお目当ては岩に付いた塩と周りの柔らかい草らしい。

◆青い蓮華のような花[悪魔の爪」

★道端の青い蓮華のような花は「悪魔の爪」と志波ガイドが教えてくれたが、一寸気の毒なネーミングのように思う。岩肌をピンクの小さな花がビッシリ覆っている、サクラソウ科のアルペン・マンシルドだ。 近くにマーモットの巣穴もあった。急登が終わり緩傾斜の上りになると広々とした草原が広がり黄色いキク科の花の絨毯が敷き詰められている。

悪魔の爪
ワスレナグサ アザミ?

★何時も先頭を行く志波さんはゆっくりしたペースを変えずに歩いてくれるが、休憩の取り方などできちんと到着時刻の計算をしながらリードしてくれているのがよく判る。山岳写真家の磯貝さんは隊列の前になり後になりしてシャッターを切るのに忙しい。あと一息で頂上という手前で全員お花畑に飛び込んで記念撮影、みんな童心に返ったような顔をしていた。 

11時25分、セイニュのコル(2516m)に着く。 

セイニュのコル

★3時間10分で650mを上がってきたことになる。 正面はコンバル湿原を隔てて遠くスイスの山々、右手にP・レチャウド(3128m)左手にはモンブラン山群、ノワール針峰(3773m)、グランドジョラスが連なっている。
モンブラン山群

◆「ボン・ジュール」から「ボン・ジョルノ」へ

★此処はフランス、イタリアの国境だから、トレッカー達への挨拶は「ボン・ジュール」から「ボン・ジョルノ」に変るし、山名のモンブランは同意ながらモンテビヤンコになる。国境を示す小さな石の標識はフランス側にF、イタリア側にIが刻印されていた。

★暫く景色を眺めながら休んでいると昼近くなったが、冷たい風が吹きぬけて身体が冷えてきたので、国境標識と大ケルンの頂上を退散、15分下った所の岩陰で昼食にした。相変わらず花は多くて座るのに苦労して花を避ける。モッテ小屋のピクニックランチはやはりチーズが美味い。

お花畑の筆者

★ヴェニの谷をゆっくり下ると2365m地点に最近再建されたばかりらしいラ・カセルメッタ小屋があり、無人ながらパンフレットが置いてあって、TMBコースの高低グラフのパネルなどが展示されていた。更に下って小川を渡り丘を越えると広い河原に出た。 左手の山並みで標高4000以上のモンブラン、デントデュアン、グランドジョラス等は頂上部に雲がかかっていて基部しか見えないが、ノワール針峰の鋭い三角錐は印象的だ。

ヴェニの谷を行く

★花については我等が出発する前の予想では未だ少し早いと思われていたのに何処を歩いてもこれ以上はないというドンピシャ、なんとラッキイだったことだろう。浅いせせらぎの中にリュウキンカの濃い黄色が広がり、傍には白いワタスゲの群落、見とれているうちに目的地エリザベッタ小屋(2258m)が近づいていた。

◆ツール・ド・モンブラン随一の人気小屋、エリザベッタ小屋に入る

★石作りのエリザベッタ小屋は背後にトレラテ−ト針峰(3930m)、ル・ブランシュ氷河を控える小高い丘の上に建っていた。小さな礼拝堂の前を通り、崩れた廃墟を過ぎて小屋まで60m、この最後の上りは息が上がる。この小屋の名前は亡くなった女性の名前で、正しくはエリザベッタソルディニと言うが、通称エリザベッタ小屋はツールドモンブラン一番の人気小屋であり、殆んどのトレッカーが一泊するため、スケジュールを組む際、この小屋の予約が取れるかどうかが鍵になると聴いていた。
エリザベッタ小屋

★未だ早い14時20分の到着だったので、先ずはテラスでビール、高い所から絶景を見ながらのビールは最高だった。此処のシャワーはコイン式、50Lのお湯が出ることになっているが、最初に飛び込んだら不調で出るのは水ばかり、止むを得ず身体を拭いて出てしまったが、後からの人は潤沢にお湯が出て快適だったとか、慌てる乞食はもらいが少ないを地で行ってしまった。

★テラスで人声がするので出てみたら立派な角をしたアルプス・アイベックスが3頭いる。初めシャモアかと思ったが、角の形からアルプス・アイベックスでヤギ亜科の動物“アルプスの王子”と言われている。

アルプス・アイベックス

★19時からの夕食はポークステーキマッシュポテト添え、野菜スープにパンはオリーブオイルで食べる、勿論赤ワインをお供の食事であったベッドは3段ベッドで天井が低い為、上段の人は何度か頭をぶつけていたようだが、私は年長特権で下段に寝かせてもらった。


◆素晴らしい朝焼けの山々

7月12日(日)

★5時半に起きてテラスに出たら素晴らしい朝焼け、しばし待つ間に曙光が輝き、コンバル湿原の水面が光る、雲と日光が織り成す変り様に見とれていた。

エリザベッタの朝焼け モンブランの朝

★朝食はどの小屋も殆んど変わりないが、今朝はコーヒーにミルクをたっぷり入れカフェオレにして飲んだ。

ストレッチをして7時半に出発

★下の道に下りてエリザベッタ小屋を振り仰いだらテラスの男が山に向かって万歳をしていた、見事な景観に感激してのことだったのだろう。

★コンバル湿原は浅い流れの中にリュウキンカ、ワタスゲ、岸辺にはハクサンフウロ、オダマキなど、花と水の取り合わせが素晴らしい。

流れに咲くリュウキンカ 草の名前?

◆自然の力の凄さを見せつけるモレーン

★左手奥の山側に長い横一線の構造物のようなものを見た。あまりにも整った形なので人工的に工事を施したかに思われたが、よく見るとこれは氷河が永年かかって押し出した砕石物モレーンの端末だった。自然の力とその造型はまことに凄いものがある。
張り出すモレーン 雲なびくノワール針峰

★然しやはり気になるのがフランス側と全く違って荒々しい姿を持つと聞くイタリアのモンテビヤンコである。上空に雲が横に繋がっていてどうしても頂きを見せてくれない。少し上に上がれば状況が変るかもしれないと期待して、湿原から右手の急斜面を登り、30分で100mばかり高度を稼ぐと廃屋のある尾根(2073m)に出た。

★此処は左にモンブラン、右にグランドジョラス、見下ろせばヴェニの谷と絶好のビューポイントの筈だったが、山々は流れる雲と交錯する墨絵の世界、全容はは掴めないが、多分この山塊がと思われる辺りを撮ることで諦め、分岐へ下る。道端に咲く鮮やかなピンクのサクラソウが一輪、我々を見送ってくれた。

★実は今登った道が本来のTMBルートで2440mの峠を越え、シェクルイ湖、シェクルイのコルを経てクールマイユールへ向かうのだが、我等は後の行程の都合上、此処をスキップすることにしていた。コンバル湿原の末端には小さな橋があって此処までは車で上がってくることも出来る。道も下流に向けて整備されているので歩きやすく、軽装で散歩といった姿も多く見かけるようになる。陽気なギャル達がはしゃぎながら歩いている、3歳くらいのチビが父親にロープで繋がれて歩いているのが微笑ましい。


◆陽気なギャルたちと再々会

11時にヴィサイユの部落(1600m)に到着。

★路線バスの時刻まで40分の待ち時間があるのでバス停近くのレストラン“シャレーデルミアージュ”でビールでもと思ったら先程のギャル達が手を上げて歓迎してくれた。

★バスは谷合を走り約30分でクールマイユール(1224m)の玄関口、モンテ・ビアンコ広場に到着する。モンブラン登山のイタリア側の基地であり当初計画では此処に泊まる案もあったのでランチだけで通過は一寸残念な気もするが止むを得ない。それよりも若し故障者が出ていれば、此処からモンブラントンネルを通ってシャモニへ送り返されることになっていたが、幸いにして全員次のステップへ進めることを良しとせねばならない。

★クールマイユールでの大事な仕事はシャモニから送られてきた別送品と不要となったものの交換をすることだが、その前に少し時間を貰って広場周辺で買い物をすることにした。二三軒の土産物屋を回ってバッジ、クロスの壁掛けマップそれにエーデルワイズのドライフラワーを買って“リストランテバルピツアーラ”へ向かう。レストランに入って吃驚したのはなんとあのギャル達が又居るではないか。これは相当のご縁であると店の主人に頼んで一緒に写真を撮ってもらった。

再々会した2人のギャルと仲間と記念写真(右から2人目が筆者)

★此処まで歩いて暑い寒いは何度もあったが、大した雨にはやられていないので殆んど着たきり雀状態で、濡れ物、汚れ物は大してないのだが、別送品が到着しているのでやはり着替えを済ませてからの昼食となる。

★イタリアでのランチはやはりピッツアとパスタ、生野菜に飲み物は果物の入ったパンチ、注文を受けるマスターはまるでカンツオ−ネでも歌うように大声で復唱する、大げさな身振りといい、なんとも陽気なイタリアーノだ。


◆路線バスでフェレの谷をアヌーヴァへ

15時20分

★再び路線バスでフェレの谷をアヌーヴァへ向かう。グランドジョラスの南東壁に沿って40分走りアヌーヴァ(1789m)からやっとトレッキング開始となる。
目的地エレナ小屋へは約200mの上り。途中まで上下2本の道があるが上は問題あるやも知れずで下の川沿いの道を行く。空模様が怪しいので雨具を着用したが直ぐに暑くなって脱いでしまう。
グランドジョラス


★右手遥かに小屋の旗が見えてきたが未だかなりの落差があり、ノーマルルートは行っては帰り、3度方向を変えて斜行を繰り返している。わが部隊も此処に来て相当隊列が乱れていたが、小屋を目指して急傾斜の直登を試みる者もあり、エレナ小屋(2062m)全員到着は17時20分となった。この小屋は新築で2段ベッドの上下左右とも広くて気持ちがいい。

エレナ小屋

★シャワーの後テラスに出てみる、フランス、イタリア、スイス三国に跨るモン・ドラン(3823m)から流れ落ちる美しいプレ・ドウ・バ氷河に正対して山並みはトリオレ針峰(3870m)、タルフア針峰(3730m)、グランドジョラスと南西に繋がっているが、残念ながら今日の天気では全貌を見渡す事は出来ない。下から小屋を見上げたときに目に付いた旗はイタリア国旗、EUの旗、州都アオスタの旗だった。

★夕食は今日も赤ワインを飲みながらビーフストロガノフにパスタ、デザートは苺パイ。(赤沼さんはこの小屋のワインが一番お勧めだった)そろそろ足の疲れも蓄積する頃なので食事の後、備藤さんの指導で入念にストレッチをやる。 何人かはバーに飲みに行ったようだったが、こちらは早々とベッドインさせて貰った。

7月13日(月)

★6時15分起床、7時朝食、今朝はシリアルにカフェラテ(エスプレッソ・ミルク)パンにバターとジャム。しっかりストレッチをしてからの出発で、このところ備藤さんの出番が多い。

★いきなりの急登で真下のエレナ小屋がどんどん小さくなる。フェレの谷は未だ薄暗く、モンドランの山並みの上のほうから日の輝きが下りてくる。グランドジョラスの肩から懐かしいノアール針峰も顔を覗かせている。今度はモンドランを挟んで東側のドラン氷河も見えてきた。

★厳しい傾斜が少し和らぎ周りはお花畑、あの悪魔の爪にも又お目にかかった。大きくトラバースしてコルが見える様になった所で大休止、お花畑に腰を下ろしてくつろぐ。


◆スイスの名峰グラン・コンバンに対面

★残り6〜70mを頑張って10時20分、イタリア、スイス国境のフェレのコル(2531m)に立つことが出来た。 此処でも石の標柱の両面にそれぞれの国を示すIとSが刻印されていたが、このコルは中でも特別らしく頭にグランを付けてGrand Col Ferretと表示されている。さすがに広々としたこの峠からの眺めは素晴らしく、正面にスイスの名峰グラン・コンバン(4314m)の雄大な姿と大きな山容のヴェーラン山(3731m)を見ることが出来た。
グラン・コンバン4314m

★スイス側への下りも樹木はなく草原が広がり遥かに道が下って行くが、比較的傾斜が緩やかな上に道が整備されているのでマウンテンバイクを楽しむ人が多い。少々きつい傾斜でも頑張って乗りこなして行く者には声援を掛けてやるが、さすがにこの長丁場だけに下りて押す者ありで様々だ。

★緩やかにトラバースしていた道が右に方向を変えて急な下りになるとスイス国旗の建つ小屋が見えてきた。12時過ぎラ・プウール(2071m)着、細長い建屋の外にビーチパラソルと丸テーブルが置かれ、鉢植えのゼラニュウムや壁掛けの花が眼を楽しませてくれる。氷河の山と草原の景色を楽しみながら食事している人が多い。

★日差しが強かったし小屋の中にも興味があったので私は中に入ってテーブルに付いた。メニューには好物のチーズオムレツがあったので早速注文することにしたが、志波さんから「大きいですよ」といわれ家内と一つを分けることにしたのは正解、大皿にいっぱいの豪勢なものだった。 さすがにミルクは新鮮、ブイヨンスープも美味い、アルプ小屋らしい素朴さの中に込められた味に充分満足した。

13時一寸前に出発

★何故か小屋の敷地の端に明らかに蒙古のパオと思しきものが立っている。
山の中腹を回り込むと斜面の向こうに氷河を従えた岩峰がくっきりと見えてきた。モン・ドランだろう、奥に見えるのはトウール・ノワール(3835m)のようだ。下には小さくフェレの部落も見える。

★TMBのルートを外して花の多い道を行く。道幅は狭いが腰まであるピンクの花が咲き乱れる草原を進むと牧場の柵に突き当たってしまった。止むを得ず柵の中に入り、牛につつかれはしないかビクビクしながら通過、樹林帯を越えて狭い木橋のかかる川を渡り、少し上り返した所がフェレの部落だった。此処は黒牛の闘牛が盛んな所で6月から8月に掛けて谷のあちこちで行われるらしい。

★我々の今日の歩きはこれで終わり、チャーターバスでトリアンに向かうのだが、1時間半のロングドライブなので飲み物を仕入れようとしたが周辺に店はない。我等を運んでくれるバスはSAINT−BERNARD EXPRESS、国境の峠近くのサン・ベルナール修道院で救助犬として活躍するセント・バーナードの絵が車体に大きく描かれている。

セント・バーナード エクスプレス

バスは15時に出発

★10分ほど走って隣のラ・フリのスーパーマーケットで飲み物を仕入れる。 レーベンブロイのロング缶片手のドライブにご満悦、途中ローマ時代の遺跡が点在するというマルティニの町を右下に見下ろしながら16時15分フォルクラ峠(1526m)着。


★TMBで最も大きな湖があるシャンペ湖をスキップせざるを得なかったのは残念だった。峠にはこの山間の街道でツーリングを楽しむライダー達のオートバイが沢山並んでいる。バッジとマップを買って再びバスの人となったが峠を下って、こじんまりした教会を囲むトリアン村(1300m)まで、ものの10分と掛からなかった。

トリアン村

16時30分、宿泊ロッジ、ルレー・モンブランに入る。

★ベッドルームは2階、シャワーをして1階のテラスに出てみた。
教会の尖塔越しに山肌の雪面が段々ピンクに染まる、ローゼンアーベントに見飽きることがない。夕食はスイスにきたら一度は味わいたいチーズフォンデュトマト味に茹でじゃが、これには白ワインがよくマッチする。


◆アルコール度数40度のイタリア酒グラッパで乾杯

★志波さんは現地ガイドで夏季はツエルマットが根拠地だが、ツアー最終日の明日夕刻にはツエルマットに入らねばならず、今夜がラストナイトとなるので、バーでご苦労会をやることになった。野郎の有志集合で飲み物はイタリアのグラッパ、葡萄酒の絞り滓を醗酵、蒸留したやつでアルコール度数は40度、銘柄はFior di Viteとあった。 さすがにこれだけ強い酒ともなると、そう何杯もとは行かず、明日の厳しいバルムのコル越えを控えてもいるので程ほどにお開きとなった。
グラッパで乾杯

7月14日(火)

6時30分

★今朝も朝食はシリアルを選択、ヨーグルトと飲み物はチョコレートにレモンジュース。 今日はトレッキングの最終日であり厳しい国境越えの登りをクリヤせねばならないので備藤さんのストレッチにも念が入る。

★出発直前、雨模様となったので雨具を取り出したが、何とか保ちそうと着用せずに7時40分出発、フラットな道を村はずれへ向けて20分ほど歩くとマリア像と道路標識のあるル・プウティ(1326m)、トゥリアン氷河とトゥール針峰(3544m)が見える。両側畑の真っ直ぐな道を進んでナン・ノアールの流れを越えると樹林帯に入り、いよいよジグザグの急登が始まる。

◆アルペンローゼに交じってアネモネの大輪の白花

10時

森林限界(1840m)に出ると突然視界が開け、目線を上げると遥かな彼方に小さくバルム小屋が見える。 振り返ると昨日通ったフォルクラ峠、トリアン村が見て取れる。 周りはアルペンローゼが一杯、その中に白い大輪のアネモネが3輪、これは珍しかった。

パルムのコル
アルペンローゼ アネモネ

11時

★屋根までがっちり石で積み上げた石室、レ・ゼルバジエール(2033m)、放牧小屋だからか、近くに出ている水は飲まない方がいいと言われてがっかり。
小屋は見えているがまだまだジグザグの登りは続く、マーガレットの白い群落が見事だ。それでも高みを目指す一歩一歩の刻みがやがて頂上へ導いてくれる。 

11時45分

★コル・ドウ・バルム(2191m)到着、6日前に出発したフランスを見渡せる所まできた。
シャモニ谷の左側に雲をかぶって一寸残念なモンブランからヴェルト針峰(4122m)の山並みが連なり、谷を挟んで右側に赤い針峰群の風景が広がっている。 

ヴェルト針峰

★然しさすがに風が吹き抜けて寒いので、止まること10分、リフト乗り場へ急ぐ。 時間があればル・トウールまで、のんびり下るのも楽しそうだが、エーギュ・ド・ミディをやりたいので、なるべく早くシャモニへ着きたいのだ。初めのリフトは2人掛けのベンチの付いたチェヤーリフト、中間駅シャラミヨン(1912m)でテレキャビンに乗り換えル・トゥール(1453m)に着く。

★バスに乗ったら雨が降ってきたのでこれはまずいと思ったが幸いシャモニは着いたときには止んでいた。レストラン“ラポティニエール”で急ぎとった昼食はスパゲッッティカルボナーラ、防寒の為ヤッケを着込んでエーギュ・ド・ミディロープウェイ駅に着いたのは14時30分になっていた。


◆70年前に完成したモンブラン屈指のエーギュ・ド・ミディ展望台に昇る

★モンブランを真近に眺められる世界でも指折りのエーギュ・ド・ミディ展望台は1909年建設認可、1911年に工事が始まっている。 戦争による中断などで長期の工事となったが、1940年コル・デュ・ミディまでの業務用ケーブル完成、1950年には長さ1850m重さ1トンのスティールケーブルを中間駅のプラン・デュ・ルエーギュイ(2317m)まで運び、1955年エーギュ・ド・ミディ北峰(ピトン・ノール3802m)へ2番目のケーブルを完成させている。 中央峰(ピトン・セントラル)の頂上3842mへは更に北峰から鉄橋を渡ってエレベーターを使うが、100年前から富士山より高い所へ20分余りで上がってしまうことを考えたとは正に驚嘆に値する。

★我々が70人乗りのゴンドラから時速40kmの高速ロープウェイ、エレベーターを乗り継いで展望台の外に出たとき霙がパラパラ落ちていた。期待した景観は見られなかったが、墨絵のように繋がる雪峰、岩峰、猛々しい氷河は此処まで来たからこその眺めであった。

エーギュ・ドゥ・ミディ3842m
3800mから見下ろす

★あちこちに案内板が置かれていて天気さえ好ければ、モンブランは勿論のこと、パレ・ブランシュ、ジュアン氷河、ボソン氷河、グランドジョラス、ツエルマットのマッターホルンも見ることが出来ると表示されていた。

★このロープウェイによる恩恵はパレ・ブランシュの氷河スキーに加えて、モンブランとの標高差が1000mになったことにより、モンブラン登頂の可能性も大いに高めることになっている。又、1957年にはジユアン氷河の上空を渡ってイタリア側のプンタ・エルブロンネル(3462m)、更にラ・パリュー(1370m)を経てクールマイユールまで行けるようになった。つまりシャモニとクールマイユールの両都市は地下のモンブラントンネルと併せて地上地下で結ばれている訳である。

★天気がよくて時間の余裕があれば3連のテレキャビンに乗って、氷河を見下ろしながらのエルブロンネル往復は爽快なものだろう。欲を言えば切りがないが、ともかく念願のエーギュ・ドウ・ミディ登頂を果たしてホテル・グルメイタリーへ帰り、夕食まで時間があるので志波さんにフランス山岳協会へ案内してもらった。


◆残念!フランス山岳会員になり損ねる

★実はフランス山岳会員には誰でも金さえ払えば成れると聞いたし、成れなくても会員章でも手に入れられればと思ったからだが、今日は7月14日、フランス革命記念日で山岳協会はお休み、若し一日でもずれてフランス山岳会員に成れていたら、日本へ帰って得意顔が出来たのに惜しいことをした。

★ツエルマットへ帰る志波さんと別れ、一人で町を散策、蔭ながら我等をサポートして頂いていたという神田さんの店スネルスポーツや評判のアイスクリーム店に寄ってホテルへ帰る。

★夕食は18時半にホテルロビーに集合して、繁華街にあるレストラン“ラ・カルチェ”へ出掛ける。些か予約のトラブルもあったが、何とか17名を受け入れてもらい、ツール・ド・モンブラン全員無事達成祝いとガイドサポート磯貝さんのご苦労会のパーティが始まった。シャモニのラストナイトでもあり、皆で大いに盛り上がったのは言うまでもない。

★宴の後、レストランを出てホテルに向かったが、雪解けの水を集めてシャモニの街を流れるアルヴ川は、夜も花とネオンに彩られて激しく流れていた。

ラストナイト 雪解け水で水量を増したアルヴ川

★今回のツアーを振り返ってみて、
   ☆先ずは平均年齢の高いメンバーながら全員、揃ってよく歩いたことは素晴らしかっ た。
   ☆天候については薄曇りの日が多く山の景観は今一だったとはいえ長時間雨に降り込められるようなことは一度    もなく、これは本当に有り難かった。
   ☆特筆すべきは全行程にわたって眼を楽しませてくれた多くの花は、その名のとおりの花丸で言うことなしであっ    た。勿論我々がこれだけの楽しさを享受できたのは志波さん、磯貝さんのお陰であり、感謝のほかはない。

★翌日我等一行はジュネーヴ、ロンドン経由成田へと帰国の途に就いたが、木村さんご夫妻はツエルマットに部屋を借りて1週間マッターホルン周辺の散策、桑原さんはロンドン在住のお嬢さんとお孫さんに会いに行かれ、又、羽路さんは既に奥さんとスイスの旅を楽しまれた後にシャモニで我等と合流するなど、それぞれがご自分の旅をきちんと構築されているのは大したものだと感心している。

★最後に同行は出来なかったものの、様々な可能性を考え、勝手な相談に乗って頂き、素晴らしいプランを提供してくださった赤沼敏治さんに心からお礼を申し上げて筆を置きたい。2010年3月30日 記)    

 

♪BGM:Theodor Oesten[アルプスの夕映え]arranged by Reinmusik♪
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