いなほ随想特集

ピレネーを越えて

山本浩(29政経)
文・写真

[ピレネー概念図]

◆はじめに

南フランスからピレネー山脈を越えてスペインに入る、「ピレネーを越えて」という言葉の響きの中に深い歴史の重みと共に何かポエティックな憧憬にも似たものを感じるのは私だけではあるまい。昨年(2012年)、シャモニーからツエルマットへオートルートの山旅を終えて、仲間から次はピレネーの声が出たものの、私には全く馴染みのない地域でもあり直ぐには乗り気になれなかった。

★そうはいっても検討だけはしてみようと、海外の山岳トレックで何時もお世話になっている天渓の赤沼敏治さんに相談してみることにした。赤沼さんもピレネーは未経験だが、情報を集めてみようと積極的に取り組んでいただき、結果として11日間の旅のセッティングとツアーコンダクターまで引き受けて頂けたのは本当に有難かった。

★又、この旅の計画を纏めるに当たっての赤沼さんのコンセプトが素晴らしかった。曰く、1.歴史的なフランス・スペイン国境を越え、2.巡礼街道の雰囲気を感じ、3.数々の世界遺産を訪ね、4.ガウディ・ピカソの芸術に触れ、5.ワインと美味しい料理を楽しむ。 当然参加希望者も多かったが、赤沼さんにとっても初体験で管理限界のことも考えて、先着順の13名で打ち切らざるを得なかった。

◆まずはドーハ経由パリを目指して出発

★出発は夏の盛りを少し過ぎた2013年8月18日夜、成田からカタール航空のフライトでペルシャ湾岸のドーハを目指す。カタール航空は2年連続エアライン・オブ・ザ・イヤーに選ばれただけあってサービスはそう悪くないが、南回りだけに時間がかかるのは仕様がない。しかし、ハブ空港のドーハは新空港の建設遅れのために駐機場からターミナルまでシャットルバスで15分、更にパリへのトランジットの待ち時間が5時間はさすがに草臥れた。

★パリのシャルルドゴール空港で出発待ちの時、ロックフォール(ブルーチーズ)を見付けて剣持さんと一緒に購入、ホテルに落ち着いたら皆で食べることにした。これは出発前から南仏の何処かで入手したいと思っていた世界三大ブルーチーズの一つ、しかもフランス最古のチーズで、我等の到着地トウルーズの北東ロックフォール村の洞窟で出来たものという、ゴルゴンゾーラ(イタリヤ)、スティルトン(イギリス)、と他の2つが何れも牛乳を原料としているのに対してロックフォールは羊の乳を原料としている。

パリ空港 パリ上空
トウルーズ市内 ロックフォールチーズ

★旅のスタートを切る着陸地点、南フランスのトウルーズは古くから地中海と大西洋を結ぶ交易路の中間点、更に南にはイベリヤ半島の障壁となるピレネー山脈を控えるなど、中核都市として栄えてきた所である。ガロンヌ河畔のこの地に人が住み着いたのは紀元前8世紀とする定住遺跡が残っているが、西洋建築に欠かせない石材が少ないため素焼きのテラコッタ煉瓦が多く使われた。この独特の建築的外観を持つ建物が多いため、バラ色の都市(la ville rose)と呼ばれている。

★トウルーズの世界遺産にはカトリック教の巡礼路、サンティアゴ・デ・コンポステーラの途上にあるサン・セルナン大聖堂や17世紀ピエール・ポール・リケによって発案されたミディ運河がある。この運河は地中海に面したトー湖から我等の宿泊地カルカソンヌを経てトウルーズのガロンヌ河に至る240km、これによって大西洋側のボルドー(ガロンヌ河々口)と地中海が結ばれ、輸送航路3,000kmの短縮に成功し、19世紀に鉄道が完成するまでワインの増産を促すなど、交易に大いに寄与したという。

★又、第一次世界大戦後はエールフランスの前身アエロポスタルがここを起点として南アメリカへの郵便配達飛行を行い、第二次大戦後もコンコルドの開発、ヨーロッパ最大の航空学校及びエアバスの本社設置などで今やフランス航空産業の最大拠点となっている。

◆最初の宿泊地は、南仏の城塞都市カルカソンヌ

★我々はこのトウルーズに関心がない訳ではなかったが、日程を有効に消化するためと、車で僅か1時間の距離にあることから2,500年の歴史を持ち「カルカソンヌを見ずして死すことなかれ」と詠われ、今やフランスでモンサンミシエルに次ぐ年間来訪者数(年間200万人)を誇る城塞都市カルカソンヌCarcassonneを最初の宿泊地とすることにした。

★我等の車がホテル(Hotel des Ttrois Couronnes)に着いた時には宵闇が迫りつつあり、オード川の対岸には暖色にライトアップされたカルカソンヌ城塞が浮かび上がっていた。到着後、腹ごしらえと夜の街探索を兼ねて川向うへ出掛けてみた。僅かな街明かりを頼りにホテルで教えられたレストランLe Jardan d’ ete を探し当てる。

カルカソンヌの夕景 カルカソンヌの旭光 ジャン・ピエール・クロ

★扉を開けて薄暗い廊下を潜り抜けると中庭に出た、大きなプラタナスが立つ周りにテーブルが配置してあり、この時間もう殆ど客はいない。フランス語のメニューを理解できないので適当にパスタ、サラダ、ワインを頼んだが、どれも量がたっぷりあって美味い、特にデカンターで出されたワインはボルドーに近いワイン処とあって安いし、安心して飲めたのに満足した。

★翌朝、城塞の方角から旭日が光を放ち、今日も一日の好天を予感させる。カルカソンヌの歴史は紀元前6世紀、ガリア人の進出に始まって古代ローマ時代、西ゴート王国時代、ムスリムの支配、を経てトランカヴェル家が権力を握った封建時代後半にはアルビジョワ十字軍の占拠、更に王国領の時代にはフランスとスペイン支配のアラゴン王国との国境紛争に巻き込まれ、1659年フランス、スペイン間の国境を定めたピレネー条約締結によって軍事的・戦略的意義を喪失するまで長い抗争の歴史を辿った。

★その後城塞は兵器や食料の貯蔵庫となるなど荒廃が続き、外壁は石材として盗まれ、各所に破壊が始まったことに心を痛めた地元の歴史家ジャン・ピエール・クロの発意(1850年)と天才的な修復家ヴィオレ・ル・デュックの努力によって今日目にする立派な修復が行われた。

◆地名の由来は女領主カルカスの伝説から

★カルカソンヌの名前は女領主カルカス(Dame Carcas)の伝説に由来している。サラセン人の占領下にあった8世紀、この城を攻撃したカール大帝の包囲が5年を超え、城内の兵糧、水が無くなりかけていたとき、夫の大公亡き後の騎士団を率いた公妃カルカスは少ない食料の中から豚一頭に小麦をたらふく食べさせて太らせ、この豚を塔から外へ投げ捨てた。 これを見たカール大帝は城内には未だ十分兵糧があるに違いないと考えて撤退を決めた。カルカスはこの勝利を祝って城内のありったけの鐘を鳴らさせたが、撤退中の大帝軍の一人が書き記した言葉は「カルカスが鐘を鳴らしている(Carcas sonne:カルカ・ソンヌ)」だった。

★我等は今日中に聖地ルルド(Lourdes)を経由してピレネーの登山基地コトレ(Cauterets)迄行かねばならないので、カルカソンヌ見学は2時間程度と決めて8時に出発した。ホテルを出て直ぐオード川Audeに架かるポン・ヴィユー(旧橋)PontVieuxを渡る、この橋の中間点に右岸側の下町VilleBasseとシテLaCiteと呼ばれる城塞側の境界があり、中世の一時期には厳格な差別があったらしい。

★昨夜のレストランの先にナイフを飾っている店があった。フランスのナイフでは山用の簡素軽量で切れ味のよいオピネルOpinelが有名で、私も所持しているが、ミディ・ピレネーと呼ばれるこの南西部にあっては優美なデザインの手作りナイフとして誉れ高いのがライヨールLaguioleで、思わず店に足を踏み入れて衝動買いに走ってしまった。

★カルカソンヌのシテは1938年に「歴史的城塞都市カルカソンヌ」として世界遺産に登録されているが、砂岩で造られた城壁の長さ3km、塔の数53、コンタル城とサン・ナゼール・バシリカ聖堂を擁するヨーロッパ最大級の城塞である。我等は跳ね橋があるナルボンヌ門からコンタル城に入り、城郭の上に登って幾つかの塔を巡る。

★窓から外を見下ろすと緑の森の中に赤い屋根の市街が続き、遥か遠くには薄らとピレネーの山並みが望める、城の中庭にはプラタナスの大樹が二本、訪問者に柔らかな木陰を与えていた。石造りの城を飾って様々な石像が置かれているが、伝説の公妃カルカスの胸像も幾つか見られた。

★ステンドグラスが素晴らしいというサン・ナゼール・バシリカ聖堂には是非入ってみたかったが開門時間待ちで、暫くの間シテ内部を散策することにした。バシリカの名を冠する教会にはこの旅行中でも幾つか出会ったが、ローマ教皇より特権を付与された格式高いカトリック教会のこととは後で知ったことである。又これも今回幾つか経験したことだが、この聖堂も長い建設期間の為にロマネスク様式とゴシック様式が混在する建築物になった一つだった。結局我等がホテルに帰って出発できたのは11時25分、予定を1時間以上食い込んでしまったが、それだけの価値は十分あったというのが皆の感想である。

オード河畔 カルカソンヌ城壁
ライヨールのナイフ
城内へ 城塔内より市街 公女カルカス像
城内中庭 サンナゼール聖堂 聖堂ステンドグラス
城壁を歩く 城内の建物群 城壁

◆聖母マリアの奇跡の町ルルドは人人人

★ルルドへは一旦トウルーズへ戻ってから西へ走る。途中鮮やかな黄色のヒマワリ畑、ピレネーはかなり近くなってきた。ルルドLourdesは聖母マリアの出現とルルドの泉で知られ、カトリック教徒の巡礼地となっている小さな町だが、着いてみると人で溢れ車の駐車も儘ならない程の混雑ぶりだ。

★1857年2月、ポー川の畔の洞窟の近くに薪を取りに行った14歳の少女ベルナデット・スビルーの前に突然聖母マリアが現れる。その後も17回同じ場所に現れて、ある日マリアは洞窟近くの湧水で「顔を洗って飲むよう」に命じた。この湧水を飲んで病気が治癒する奇跡が何度も起きたことから、この小さな町に170か国から年間600万人が訪れるカトリックの大巡礼地になったのである。 我等も「無原罪の御宿り聖堂」で旅の無事を祈り、聖水を飲んで健康を願った。

★さすがにこの町は到る所でマリア像が売られているし、団体となって集まってくる車椅子の病人、看護師、シスターの姿に溢れている。この町の最大の呼び物は復活祭から10月15日までの毎晩行われるロウソク行列で、讃美歌の歌声が響く中、ゆらめくロウソクの灯がうねる様は圧巻だという。

ヒマワリ畑 ルルドの市街 無原罪の御宿り聖堂
車椅子と看護師の群れ コトレの夕暮れ

★先を急ぐので、奇跡の泉の源泉マサビエルの洞窟やピレネー博物館になっている中世からのルルド城塞に足を運ぶ余裕はなく、コトレCauteretsへ向けて出発した。ルルドから車で1時間弱、17時にコトレのホテルHotel Bois Joliに到着、人口1200人に満たない小さな町だが、中心部の標高932m、ピレネーの山域の傾斜地にある街で、夏は避暑、観光、ハイキング、登山、冬はスキーの基地として活気にあふれている。

★1950年代、水力発電用ダム建設の話がこの地域に持ち上がったが、住民は自然の流れや湖が失われるとしてこれを拒否したことで今日に繋がっている。又、コトレは1967年に制定されたフランスでもっとも古いピレネー国立公園の入り口でもある。ホテルのすぐ隣にはツーリズムのオフィスがあって色んな資料を貰うことが出来た。夕刻、歩いて5分ほどの所にあるレストランBasserie de Bigorreで食事をして明日からのピレネー山歩きのために乾杯、少し足りなかった呑み助たちはホテルに帰ってパリで仕入れたチーズ(ロックフォール)を肴に飲み足した。

◆現地山岳ガイドのフィリップが登場

★明けて8月21日、現地山岳ガイドのフィリップPhilippe Blancheがやってきた。彼は私がインターネットで知る限り、すでに幾つかの日本人グループの案内をしていて、フランス語、スペイン語は勿論、英語が出来て片言の日本語を理解する貴重なガイドのようである。

★今日は足慣らし程度なので、一応登山スタイルだが、重い荷は担がないで済む。
然しいよいよピレネー山脈に足を踏み入れることになるのは間違いないので、少しピレネー山脈の学習をしておきたい。ピレネー山脈はヨーロッパ大陸とイベリア半島を分け、フランスとスペインの国境が走る褶曲山脈で、ほぼ東西方向に延び、長さ430km、幅は見方にもよるが約100km、中央東寄りにはミニ国家アンドラ公国がある。

★東寄り地中海側は2000m級、中央部アンドラ公国の西が最も急峻で3000m級が10座以上、最高峰はスペイン領のアネト山3408mAnetoでフランス領の最高峰は今日見ることが出来るかもしれないヴィニュマール峰3298mVignemale、西部太平洋側は1000m級のなだらかな山地がつながっている。地質学的にはヨーロッパアルプスより古く古生代~中生代、浅海に堆積した地層が大陸移動による強烈な圧縮力で形成された花崗岩の山地で、西部には石灰岩の地層も多く見られる。

★この山脈を防壁として8世紀からキリスト教徒のレコンキスタが始まり、フランスから聖ヤコブの眠るサンチャゴ・デ・コンポステーラへの巡礼路はイバニエタ(ロンセスボー)峠かソンポルト峠を越えねばならなかった。又逆に新大陸からスペインに入った物産、例えばカカオなどはバスクからフランスに入り今日のチョコレート文化を築いたのだから交易路としてのピレネーの峠は古くから重要な地位を占めていた。ちなみに「ピレネー」はバスク語で「山」を意味している・

◆ポンデスパーニュ(スペイン橋)へ

★8時05分、ホテル近くのバス停から路線バスで約20分、500m上のポンデスパーニュ1,496mPont d’Espagneへ向かう。ポンデスパーニュ(スペイン橋)はその昔、スペインへ向かう道の最後の橋としてその名が付けられたという。今日の目的地はゴーブ湖Lac de Gaube1,725mを経て2,000m付近、要するにランチタイムになるまで登ってみようというわけである。

★ポンデスパーニュバス停で身づくりをしてストレッチ、8時35分にゲートをくぐって出発する。ポンデスパーニュからゴーブ湖への途中まではスキーヤーリフトがあって夏でも使えるようだが、フィリップはあんなものには乗ったことがないと言ってどんどん歩き出した。1,500mの表示のある赤い縁取りのレストランの前を通り、石造りのスペイン橋を渡ってゴーブ川右岸に沿って登る、狭い狭間を通る流れは時として滝となり激しくほとばしる。

★この道はスペインへの交易路でもあったはずだが、露岩も多く易しい道ではない、そのうち不規則な筋がやたらに入った岩に出くわしフィリップに此れはなんだと聞いたら“バリードロック”という。よくは判らないが浸食の際、硬度の違いが表面に出てしまったものらしい。ピレネーの複雑な地層にはこの後も幾つか出くわしたが、これもその一つである。右手の山並みは稜線には針葉樹の濃緑、裾野に向けては若草の萌木色が広がり真に美しい。

ポンデスパーニュのゲート 狭間に架かるスペイン橋 赤い縁取りのレストラン
バリードロック ゴーブ湖手前の山並み

◆多彩な花々にも出逢えた

★やがて正面が開けるとフランスピレネーの最高峰ヴィニュマール(Vignemale3,298m)北壁が雪渓を従えて姿を現した。ヴィニュマールとは困難な山の意でこの北壁は800mのビッグウオール、さもありなんと思う。

★そして10時25分ゴーブ湖(Lac de Gaube1,731m)到着。透き通った水の輝きとヴィニュマールの景観はヴィクトル・ユーゴやロマン派の作家達が褒め称えたのも頷ける。南北に細長い湖の東岸を通って更に上を目指すが大石がゴロゴロしていて歩きにくく、もっと山側にましな道はないのかと恨み言を言いたくなる。

★湖の北端を離れると狭いが歩き易い登りになったのだが、もう我々に時間はなく木陰のある草地を見付けてランチタイム、2,000m弱位だったろうか、腰を下ろして気が付くと周りはブルーベリーのブッシュで幾つかを摘まんで食べた。此処からこのゴーブ谷を更に詰めるとヴィニュマールの登山基地となるウレット小屋(Refuge des Oulettes2,151m)があるのだがと思いつつ振り返ると順光を受けたゴーブ湖が美しい藍色に輝いていた。

★今回は花の季節としては遅い方だったと思うが、それでも結構色んな花に出会うことが出来たのは予想外、川原ナデシコ、ウメバチソウ、桔梗、ヤナギラン、ベンケイソウ、ナナカマドは上の方ではもう赤い実をつけていたし、カナダアルバート州の州花タカネバラ(プリックリローズ)も見事に咲き誇っていた。石楠花の葉に違いないと思うのに、何故か丸いピンクの団子のようなものが付いているのを不思議に思ってフィリップに聞いたらパラサイトだという、寄生植物の一種らしいが珍しいものを見た。

★帰りはゴーブ湖の南端から川沿いではなく、山腹を歩いてスキーヤーリフトの上部ステーションに出てスキーのダウンヒルコースを下る。草付のコースだから岩などに躓く心配はないが、200mの下りで斜度が急なところは自然に体が前にノメッテしまい制動を掛けないとバランスを失いそうになる。

★リフトの終点から橋を通過して14時45分ポンデスパーニョバス停到着。15時のバスでコトレへ戻ったが、何と家内がバスにストックを忘れたという。フィリップに話したら幸いバスのドライバーは彼の友人で、次のバス便で運んでくれることになりやれやれ、バス停前のカフェ、カールスブロイでビールを飲みながら待つのも又楽しだった。

ビニュマール峰 ゴーブ湖 振り返ってゴーブ湖
ナナカマド パラサイトの植物 コトレツーリズムオフィス前で

◆ノートルダム教会のコンサートを楽しむ

★夕食を昨夜と同じレストランで済ませ、部屋で休んでいたら隣室の赤沼さんが教会のコンサートに行ってみないかと声を掛けてくれた。ノートルダム教会Eglise Notre Dameはホテルから5分ほどの高みにあり、地域に根付いた中規模の教会で入場料は僅か2€、後で楽士がドネーションに回ってきたので成程と納得。フルートとパイプオルガンだけの演奏だが、楽士はかなり名の通った方らしく聴衆も多い。シューベルト、バッハ、ヴィバルデイ、グリークなど比較的耳慣れた曲が多かったので思いがけず楽しい夜となる。最後のアンコール曲はさすがに教会のコンサートらしくシューベルトのアベマリアだった。

コトレの教会音楽会

★8月22日、コトレのホテル・ボワ・ジョリとお別れ、今日は世界遺産(スペインと両国に跨る世界複合遺産)モン・ペルデユの2つの圏谷を訪ねる。圏谷はカールKarというドイツ語に馴染みがあるが、英、仏語を含め国際的にはシルクCirqueであるらしい。 ★コトレを8時に出発して直ぐ、6月の大雨で冠水し3日間不通になった地帯を通過、我等は運が良かったと実感、約1時間走ってフィリップをピックアップした後、ピレネーで最大規模を誇るトウルモース圏谷Cirque de Troumouseへ向かう。トル・ロードのヘヤピンカーヴをぎりぎりで何度も折り返しながら300mほど登って大圏谷の中心部にある駐車場に9時40分到着、この大円形の丘に建つマリア像目指して歩き始める。

★マリア像までは何ほどのことはあるまいと思ったのにあまりにも壮大な景観の中にあるためか、距離感が掴めず20分近くもかかってしまった。シルクというのは多分サークルに通ずる言葉だと思うが此処に立って周りをぐるりと見渡せばとてつもなく大きな円形劇場の真ん中に立たされた気分になる。逆光のため山影がはっきりしないのは残念だが、正面にムニアピークpic de La Munia3,133mをはじめとして左にセラモレーン、トウルモース、右にペネブランク、ポートデラカノウと3,000m峰が連なり、半径2kmにわたってまるで巨人群像に見下ろされているかのようであった。

トウルモース圏谷 トウルモースの中心へ フィリップとマリア像の前で
マリア像遠景 九十九折りの道

◆ガヴァルニー圏谷をトレッキング

★10時40分バス発、約1時間でガヴァルニー村1,700mのホテル「ヴィニュマール」に到着。スーツケースを下してガヴァルニー圏谷トレッキングに出かける。ホテルの外観は瀟洒な山小屋風で、格好よく景観に溶け込んでいた。

★12時10分、ホテルを出て始めは人通りの多い川沿いの道を遡行する。カールと滝を見物に行くには歩くか馬ということになっているらしく乗馬姿もかなり目立ち、中には川の中を馬で気持ちよさそうに行く姿も見られた。やがて我等は左手の山道に入って樹間の坂をジグザグに登っていくが、未だ昼にあり付けていないせいか結構きつい。

ホテル・ヴィニュマール ガヴァルニー圏谷へ 馬で川を行く

★フィリップからやっと声がかかったランチタイムは13時を可なり過ぎていた。道の上り傾斜がゆるくなってほぼ平行移動になった所に1,800m表示のChalet le Pailhaという小屋があり、小屋の主人がフィリップと友人だったこともあって休憩してビールと相成る。此処からはたらたらとした下りを1時間ほど歩いて15時40分、グランドカスケードにほど近い白亜のシルクホテルに到着した。

山へ入る 1800mの小屋 グランドカスケードを目指す

★Grande(大きい)Cascade(滝)はその名の通り、高さ1,700m、円周17kmのガヴァルニー圏谷の中心にあってヨーロッパ最大の落差422mを誇り、圧倒的な迫力をもって我等に迫ってくる。この滝の水は国境を跨いでスペイン側のモンテ・ペルディードMonte Perdido3,352mから伏流水となって流れてきているという。滝壺の前まで行く道もあったようだが、我等はこの滝の水の流れに沿ってホテルの方に向かう。

★ホテル迄はかなり下らねばならないが、途中は広々とした野原が広がり、振り返ると遠くガヴァルニーの壁から垂直に白い一筋がクッキリと見える、こんな所にのんびりとピクニックに来るのも良いだろうなと思う。ホテルに着くころ時雨れてきて通りの外れにあるレストラン・カスケードへは傘持参、その前に明日の昼食用にパン、チーズ、ハム、果物など、それに国境越えのマップも仕入れねばならず慌ただしい。何しろ明日からが“ピレネーを越える”本番で、2晩の山小屋泊まりに備えて3日分の所持品をリュック詰めしておかねばならなかった。

グランドカスケード グランドカスケード シルクホテル 遠くにグランドカスケード

◆「ローランの裂け目」が見えてきた

★8月23日、来るはずのバスがなかなか来ない、予定のバスがギヤ故障を起し代わりのバス手配に手間取ったらしい。出発は1時間遅れて10時発、直ぐに正面の斜面を九十九折にぐいぐい登っていく、ガヴァルニー村が遥か下になったころ、左手に遠く我等が越えねばならない「ローランの裂け目」が見えてきた。

★約30分でタンテ峠Col de Tantes.2,208mの駐車場に着く。
身支度を整え、ストレッチをしてから出発、赤茶けたフラットな道、左手にはこの後我等がその山腹をトラバースするタイロン山LeTaillon.3,144mの三角錐が聳え、深く落ち込んだU字谷の底にはスペインへの交易路の跡らしいものがうっすらと見える。

★30分歩いて出たU字谷の端末がフランス・スペイン国境のバウチャロ峠Port de Boucharo・2,270mで遥か彼方にスペインの山並みが連なり、広々とした眺めに国境らしい緊張感は全くない。おそらく昔は両国の交易の要であり、我等もスペインに行くだけならこの峠越えが近道の筈だが、目指すはローランの裂け目越え、鋭角にフランス側へ戻ってタイロンの山腹を東進、徐々に高度を上げていくが、元氷河に覆われていた所で大きな岩小さな岩がゴロゴロと歩き辛い。大きな岩の裂け目には桔梗の花がびっしり、可憐なウサギ菊も見られる。1時間ばかり歩いたのちガレ場の岩に腰を下ろして昼食をとった、左手の奥にはあのヴィニュマール峰が霞んで見える。

ガヴァルニー村 タンテ峠を出発 タイロン山
バウチャロ峠 岩の裂け目の桔梗 ウサギギク


◆水のほとばしるゴルジュを直登する

★30分後出発、道は正面をサラデ峰Pic des sarradets.2,639mに遮られて北東に変進、タイロン氷河末端の水がほとばしるゴルジュ(狭まった谷間)をよじ登らねばならない。折り重なる岩と格闘しながら約150mを直登、14時40分に到着したサラデ峠Col des Sarradets.2,589mからの眺めは素晴らしかった。先ず今日の目的地、ブレッシュローラン小屋Refuge de la Breche Roland.2,587m(以前はサラデ小屋と云われていた)は前方指呼の間なので此処で大休止、ゆっくりと眺めを楽しむ。

★この山旅の最大の眼目、ローランの裂け目は小屋越し高く上向きコの字の特異な姿を青空の中にクッキリ見せているし、驚いたのは昨日は見ることが出来なかったグランドカスケードの上の流れが見えたことと、すさまじい地層の褶曲を見せるPunta deras Crepas.3,161mの山容だった。

タイロン氷河のゴルジュ サラデ峠 ブレッシュ・ローラン小屋
ローランの裂け目 グランドカスケード上流 すさまじい地層の褶曲

★15時過ぎにローラン小屋に入る、120人位は泊まれると聞いたが、上中下の三段ベッドはとも角としてトイレが外に一つしかなく、しかも使用後は水を汲んできて流さねばならないと聞いた時には参ったが、寝室階の2階にもう一つあることが判って安堵した。夕暮れに少し時雨れてきて外は寒いので食堂で缶ビールKronenbourgを飲みながら夕食を待つ。

★夕食は豆スープに肉の煮込み、パスタは太くて短いペンネ、そろそろ食事が終わりデザートのタルトが出るころスタッフから我等にビッグサプライズと声がかかった。何かと思ったらスタッフ3人が揃って「オー・ シャンゼリゼ」を日本語で歌ってくれたのだ。これははるばる遠い日本から来たことへの勢一杯のサービスだろう、早速女性組が行って日本語の発音指導をしながらお礼を言っていた。

小屋スタッフのサプライズ

◆持参のアイゼンを装着、雪渓を行く

★明けて8月24日、今回のトレックで最も重要な日、雲は多いが心配するほどのことは無さそう、ガヴァルニーの山の肩から曙晃が煌めき、サラデ峰の下から雲が湧き上がってくる。8時過ぎに出発、ローランの裂け目へは右下の雪渓を上り詰めても良いが、ザラザラした岩屑が続く稜線を辿るのが常道、45分で中の棚に着き、下からは隠れて見えなかった雪渓に取りつく。

★フィリップはツボ足でも大丈夫と云うが、折角日本から持ってきたので4本爪のアイゼンを装着して約200mの距離を登った。
雪渓の上端からローランの裂け目までは累積した巨岩の間を急登、短い足の長さを考えて進路を選ばねばならない。最後の岩を乗り越えて9時30分、フランス・スペインを分けるピレネーの国境「ローランの裂け目」Breche de Roland.2,807mに到達した。

★裂け目を分ける両側の岩壁幅は40m程度しかないが、高さは100m、見上げると首が痛くなるほど中天に聳えている、登り切ってみるとこの220mの登りは実に変化に富んでいて長く記憶に残るものだった。勿論此処では大休止して皆の頑張りを讃え合う、中重さんは此の瞬間のためにお赤飯を用意して振舞ってくれた。

ローランの裂け目への登り ピレネーの曙光 雲湧き上がるサラデ峰
眼下にローラン小屋 裂け目直下の雪渓 クライミング 国境の裂け目は近い

★ローランの説明が遅くなってしまったが、この名前は11世紀末頃に書かれた4,000行に及ぶフランス最古の大叙事詩「ローランの歌」に登場する。この歌が書かれた背景は718年~1,492年のレコンキスタReconquista(キリスト教国によるイベリア半島の再征服活動の総称)の初期、キリスト教国軍を鼓舞する狙いがあったものと思われる。

宝剣デユランダルで岩が真っ二つに割れた

★この粗筋は778年フランク王シャルルマーニュ(カール大帝)がロンセスボーでサラセン王マルシルと戦った際、シャルルマーニュの十二勇士の中で最も秀でた甥のローランが義父のガロンヌの裏切りの為に苦戦し遂に迎えた最後の瞬間、シャルルマーニュから賜った宝剣デユランダルを岩に叩きつけた処、剣は折れずに岩が真っ二つに割れた、という物語である。従ってローランの裂け目の所在地は戦史としてはロンセスボー(イバニエタ)峠にあることになるのかもしれないが、この場所のこの壮大な巌の造形を見てローランに想いを重ねたとしても不思議はない。

★裂け目の窓から見えるスペイン側の眺めは荒涼とした山並みが果てしなく続いている。フィリップは壁面に沿ったクサリ場もある険路は避けて一旦河床まで下りる迂回路を採ってくれた、見たこともない岩相が剥き出しになっていて木は全くなく草の緑も僅か。 それでも徐々に高度が下がってくると緑の中に草花がチラホラ、ピンクの金平糖をばら撒いたようなコケマンテマ、リンドウ、デイジー、フウロソウ、ワタスゲ、エーデルワイスも現れ、やがて黄とオレンジの花びらを持つマメ科の小花バーズフットの絨毯になりランチタイム、空には絶滅危惧種のヒゲ鷲らしい鳥が悠々と飛んでいた。

聳える岩壁 スペイン側へ下りる コケマンテマ
スペイン側からのローランの裂け目 岩の中に岩が エーデルワイス

★小屋を出てからこの時初めて人に出会ったような気がする。昨日までの挨拶はボン・ジュールだったが今日からはオーラでないといけない訳だ。ピレネーでは色々変わった岩に出くわすが、今度は岩の中に色違いの岩がバラバラ入っているのがあって、これが何か不思議な景色になっている。

★フィリップがそのうちサプライズが有るというので何かと思ったらいきなり岩山に遭遇、僅かの足場を探して越えていかねばならなかった。アザミの花が多くなり下りの傾斜になったと思ったら今日の終着点ゴリッツ小屋Refuge Goritz.2,160mが見えてきた。見えた安堵感からもうすぐと期待したら何と小屋の手前に川があり、大きく下流へ迂回してから上らねばならないのには些か参りました。

バーズフットの絨毯 サプライズの岩山 アザミ ゴリッツ小屋見ゆ

◆同宿のイタリヤ人がオーソレミヨやサンタルチアを歌ってくれる

★15時過ぎの到着で未だ日は髙く、小屋の前に広がる草原に出てビールを飲みながら桑原・栗原の二人が山の歌などを歌っていたら同宿のイタリヤ人グループが近寄ってきてオーソレミオやサンタルチアを歌ってくれる。この小屋は靴やストックは当然だがリュックも個別のロッカーに入れて寝室には荷物は一切持ち込まないことが原則で、これがスペイン方式であると聞いた。又この小屋は食事が良いことで有名で、山とは関係なく食事のためだけに各国から人が集まってくるというから楽しみだ。

★夕食はスープが人参、ポテトなどを煮込んだミネストローネに始まって、たっぷりの新鮮野菜サラダ、メインは太くて美味いソーセージが3本(2本しか食べられなかった)、飲み物は赤ワインとシュナップス、デザートにティラミスが出て満腹、十分歩いて食べて充実した一日を思いながらベッドインした。

★8月25日6時半起床、今日も天気は良さそうだ。昨晩のディナーとは打って変わり朝食は山小屋らしい簡素なもの、頼んであったランチボックスは予想通り1個で2人分は十分ありそう。

★8時過ぎに出発、直ぐに岩附のロッキーウェイを下るが、岩屑の道はベアリングの上を歩くようでやたらに滑って転ぶ、少なくとも3回、内1回は大転倒だった。下りの途中のビューポイントで休憩、延々と続くオルデサ渓谷を見渡すことが出来た。此の渓谷は1億年前の海底隆起に続く氷河の浸食によって形成されたU字谷でスペイン最大の渓谷であるばかりかグランドキャニオンをも上回ると称される大渓谷で、1997年モン・ペルデュの一部として世界遺産に登録されている。

★ビューポイントから一気に100m谷底へ向けて降下中、右手に末広がりに落ちる滝が見えてきた、馬の尻尾の滝を意味する落差30mのコーラ・デ・カバリョCola de Caballoで見れば直ぐに名前の由来が判る。滝壺の周りで一休みしてからアルザス川に沿ってオルデサ渓谷の中を歩きだす。両側が500mの壁でガードされているからか風もなく穏やか、放牧の子牛が母牛の乳を飲んだりしている、日本のあやめに似たアイリスが数輪咲いていた。

ゴリッツ小屋 オルデサ渓谷 馬の尻尾の滝 放牧の母子牛

◆今回の旅の最高峰モンテペルディードを見上げる

★何しろ大きくて長い谷底なので何時まで経っても同じところを歩いているように感じてしまう。それでも段々高度を下げてくると草原の中に樹木が目立ち始める、振り返ってみると三つのマリアという巨大な山塊の一部が見えた。正面のモンテペルディード(仏語:モンペルデュ)Monte Perdido.3,352mは我等が目にする今回の旅の最高峰で右にソウム・デ・ラモンドSoum de Ramond.3,257mgaが見える、左のシリンドロと合わせて三つなのだがこれは山蔭で見えない。

★ピレネー山脈の最高峰はスペイン領東南のアネトAneto.3,408mで、モンテペルディードは第3位になるが「失われる山」の名称を持つこの山は石灰質の山としてはヨーロッパの最高峰である。はっきり見て取れる横縞の地層は海底にあった生物の堆積物によるもので、崩れやすさから付けられた名前であろう。

★馬の尻尾の滝を出て1時間半、ブナの樹林帯に入りSuasoの滝を過ぎた道路わきでランチボックスを開く、やはりこれは家内と二人で十分な量だった。今日は日曜日で、しかも良い天気とあって下から上がってくるハイカーが多い、我等に手を挙げてオーラと挨拶して行く、年間50万人が訪れる人気のオルデサ渓谷だから当然、日本人のグループにも初めて出会った。

オルデサ渓谷を行く 左モンテペルディードと横縞の地層 Suasoの滝 ブナ樹林帯でランチ

★トルラTorla.1,000mからシャットルバス便と駐車場があるPradera de Ordesaまで来て此処から滝を見ながらSuasoの滝か、少し遠くを望む人は馬の尻尾の滝迄往復ハイキングを楽しむのだろう。フィリップはこれから先の時間は滝の見物の仕方によるというだけあって滝が幾つもある、バス停まで未だ標高差300mだ。

◆ピレネーを無事越えた!

★滝は道路から見られるものもあるが、殆どは一度下りて行って見て上がってこなければならない。全部をクリヤーすると草臥れるので時々パスしたが、複雑な地形の為に変わった滝が多い、階段状に落ちる滝、2つの滝口から1つの滝壺に落ちる滝、中でも稲妻が走るようなジグザグの滝は面白かった。これは多い滝の中でも名物のエストレッチョ(狭まった)滝Casc.del Estrechoで欲を言えばもう少し水量があればもっと良かったのにと思う。

★アルザス川に架かる橋の手前のお花畑で最後の休憩、対岸には赤茶けた壁面を見せるTobacor.2,751mがそそり立つ。この山を越えた遥か北側にローランの裂け目があると聞いても中々実感が湧いてこない。腰を下ろした周りには様々の花が咲いていたが、ガバルニーの草原でも見かけたアザミの一種、sea hollyは鋭い花弁を持ち、この旅で初めて見たもので特に印象に残った。

★14時35分バス停に到着、この辺の標高は1,330mだから830m余りを下りてきたことになる。大勢のバス待ち客の中には昨日共に歌ったイタリヤ人グループもいる、20分待って発車、トルラへ向かう。川の右岸を20分走ってホテル・オルデサHotel Ordessa前で下車、早速部屋でシャワーを浴びサッパリしたところで芝生の庭のパラソルの下へ、ピレネー越えの全員無事を祝って心行くまでジョッキを傾けた。

エストレッチョ滝 sea holly Tabacor山
Praderaバス停近し ホテル・オルデサ ヒゲ鷹の剥製

★ガイドのフィリップとはここでお別れ、今回はフランス、スペインと殆ど馴染みのない言葉の国を歩く中で、彼の英語と片言の日本語がコミュニケイション手段、時々ふざけるが明るくて気さく、180cmの長身ながら歩速を我々に合わせ、休憩のタイミングも問題なかった。面白かったのは必ず大きなパラソルを肩にかけて歩いたことで、ランチタイムにはこれを使っていたが、余程愛着のある物のようだった。

フィリップとお別れの写真 ピレネー越え達成祝杯

★トルラの村はこのホテルから1km位下流にあり、赤沼さん達数人が歩いて見に行ったが私にその元気はもうなかった。夕食はソロミーヨという豚の料理がメインで当然ながら祝いのワインもしっかりやっていたら、オルデサ渓谷で日本人グループのガイドをしていた水久保悟さんという方がやってきて話し込むことになってしまった。マドリードに住んでいてスペイン在住40年、ピレネー周辺のガイドを続けているというが、やはりピレネー越えして此処までくる日本人は珍しかったのかもしれない。

★ホテルの応接室にはこの地に相応しくヒゲ鷲やアイベックス、シャモアの剥製が飾られている。飲み足りなかったわけではないが小祝さんがピレネー越え達成の時の為にグラッパを持ってきているというので数人が桑原ルームに集まってご馳走になった。ピレネー越えの山旅はこの時点で終了したが、この旅を企画して頂いた赤沼さんのコンセプトの後段、ピカソとガウディの芸術に触れと美味しいワインと料理を楽しむ、がまだ残っているので明日からも頑張らねばならない。

◆ピカソとガウディの芸術に触れる旅へ

★8月26日、今日はバルセロナ迄160kmのロングドライブ、8時15分大型バスで出発、トンネルの上にあるトルラの村はあっという間に過ぎて暫くはぎりぎりの狭い道、Boltanaの先Ainsaでやっと高速道路に入り快調、左手の恐ろしく長い湖E.de Medianoに沿って走り続ける。

★10時35分Lleidaの手前のサービスエリアLa Cerderaに寄って飲み物やマップを仕入れた。この後はモンセラートMontserrat.1,235mへ直行、ギザギザの山を意味するこの山はカタルーニヤ州バルセロナ近郊の山でアーサー王の聖杯伝説に登場するベネディクト会サンタマリヤ・モンセラート修道院付属大聖堂があるキリスト教の聖地である。確かに遠方からは鋸状の山だが、薄茶色の山肌は礫岩等の堆積岩の太くて丸い円柱が犇めき合う真に珍しい形をした山だった。 ★12時半の到着だが、直前から初めての本格的な雨、聖堂の前は大変な人だかり、2本の長い列が出来ていたので何の列か聞いたら有名な黒いマリア像(ラ・モレネータ)礼拝の列と聖歌隊の歌を聴く列というのでためらわず聖歌隊組に並ぶ。遅々として進まない列にイライラしたが、何とか聖堂の中に入ると既にエスコラニア少年合唱団Escolania de Montserratの歌声が堂内一杯に響いていて荘厳な雰囲気に包まれる。

★続く雨の中、昼食の場所を探したが何処へ行っても満員、諦めて登山電車で中間駅モニストロールヴィラまで下りバスに乗り継いでバルセロナ方向へ、途中サービスエリアAREASでやっと遅い昼食、時間は既に15時を過ぎていた。このSAでは忘れられない事件があった、桑原さんが2人組の男達に財布を取られそうになったのだ、猛烈にダッシュして財布を取り戻し難を免れたが、賊も元ラグビー選手の財布を狙うとは相手を選ぶ目がなかった訳だ。然しこれは、この人数でのスペイン旅行ではあっても不思議はなかったのかも知れず、各自気を引き締めねばと自戒し合ったことだった。

トルラ村はトンネルの上 モンセラート修道院 ガウディ作品 モンセラートの岩山
聖堂入口 エスコラニア少年合唱団 登山電車

◆バルセロナに入り、サグラダファミリヤに向かう

★16時半ごろバルセロナの街に入り、元闘牛場の前を通って17時に予約してあったサグラダ・ファミリヤへ向かう。カタルーニヤ語でTemple Expiatori de la Sagrada Familia(聖家族贖罪教会)という正式名称を持つこの教会は1882年3月着工、アントニ・ガウディAntoni Gaudiが73歳の生涯をかけた未完作品で彼の没後100年の2016年完成を目指している。

★自然主義と象徴主義が混在する彫刻など大胆な建築様式を誇る造形で、建築中ながら地下聖堂と生誕のファサード(建物の正面)などが2005年、ユネスコの世界文化遺産に登録されている。又2010年11月には教皇ベネディクト16世が訪れてミサを執り行い、これによって正式にカトリック教バシリカ教会になった。

★我等が先ず目を奪われるのはトウモロコシを立てたような円錐形の塔群だが、これで完成時18本のうち未だ8本しか出来ていないとは驚きだ。近く寄って東側「生誕の門」、壁画のように物語が繋がる塔面ファサードの彫刻群は何時まで見続けても見飽きることはない、この中の作品で楽器を奏でる天女像など1978年から専任彫刻家として携わっている外尾悦郎さんの作品があるのは日本人として誇らしい気がする。

バルセロナ到着 サグラダファミリア 外尾悦郎さんの作品

★聖堂の中に入ると中央にキリスト磔像、モダンな意匠の柱、周りは多彩なステンドグラスが張り巡らされている、これは天国の世界をイメージするものだろうか。外に出て南側は「受難の門」で磔刑のキリストがテーマ、抽象とも具象ともつかない独特のフォルムの彫刻で飾られている。残る一つの「栄光の門」は聖堂の西側にあり、中央部と共に工事中でキリスト教が救済と愛の宗教として全てを物語るものになる筈だという。

生誕の門の彫刻群 受難の門の彫刻

★資料室に入ってみた、ガウディは詳細な設計図は残しておらず、大型模型や実験道具を使って構造を検討したらしいが、紐と錘の道具が目を惹いたので何かと思ったらトウモロコシ型をした独特な塔の曲線はあの道具を逆さまにして編み出されたとのことだった。

聖堂内部 同内部 同内部
実験道具の紐と錘 建設は続く カタルーニヤ広場

★今日のホテルガウディHotel Gaudiは南西の方角、旧市街のランブラス通りから少し西に入ったグエル邸の前にあるが、カタルーニヤ広場から先はバスが入れないためスーツケースをゴロゴロ引っ張りながら15分も歩く羽目になり19時15分着、これは山歩きよりきつかった。

◆ツアーコンダクターの赤沼さん慰労の夕食会

★夕食はランブラス通り南端のコロンブス像の脇を通ってポルトベイPort Vell ,Maremagnumの一角にあるレストランELXでツアコンを務めて頂いた赤沼さんの慰労会、大型客船からヨットまで港に揺れる灯りが美しい。スペイン料理と云えば米所バレンシア地方が発祥のパエリア位しか知らないが、このカタルーニャ地方にはフィデオという細いパスタを使ったフィディウアFideuaが名物料理と聞いていたのでノーマルな米ベースのものと両方試してみたが、やはり馴染みのある米の勝ちだった。

★海辺だけあって海産物は良い、焼き蛸やムール貝は特に美味かった。ワインでほろ酔いになった頬を海風に嬲らせながらホテルに帰った時は午前様直前、あと半日でバルセロナともおさらばだ。

コロンブス像 ランプラス通り ポルトベイのヨット
赤沢さん、ご苦労さん 夜のポルトベイ

◆ピカソ美術館を訪れる

★8月27日、ホテル・ガウディの名前にちなんだモザイクタイルの装飾があるロビーで旧市街案内ガイドの平野さんと待ち合わせ、やはり40年当地在住のベテランだ。先ず近くのレイヤール広場、四方建物に囲まれた中央に噴水、その周りに数本のヤシの木とガウディが若いころにデザインしたガス灯が立っている。ミロの生家の前を通ってサン・ジャウマ広場にある石造りの自治政府庁と市庁の建物を見る。


ホテル・ガウディのモザイクタイル ガウディのデザインしたガス灯

★平野さんが見学のメインのピカソ美術館はもう行列が出来ているかもしれないというので、取り敢えず行ってみたら幸い未だ我等が先頭だったので、この後の市内見学は10時の開館時間まで半数ずつが交代ですることにした。それにしても此れは風情はあるものの全く通常の美術館らしからぬ建物だ。後で聞いたところによると、モンカダ通りに面したこの建物は13~14世紀に建てられた3つの小宮殿、アギラール、バロン・デ・カステリエット、メカの館を幾度か改造し、1963年に開館したとのことだった。

★ゴシック地区でも此の辺りは特に路地が狭く、最も狭いという路地Plaseta de Montcadaには入口に鉄柵が付いていた。我等半数が14世紀、ジャウマ1世が建立したゴシック様式のサンタ・マリア・ダル・マル教会を見学した処でピカソ美術館に引き返したらもう随分長い列が出来ていて、さすがなものと感心する。


市庁舎のレリーフ モンカダ通りの狭い路地 サンタマリアダルマル教会 同教会

★このピカソ美術館はピカソが9歳の時から青の時代迄の作品が主流で、初期の作品を知ることが出来るユニークな美術館、15歳の時の「初聖体拝受」や「科学と慈愛」、晩年のものとしてはベラスケスの作品を元にした「ラス・メニーナス(宮廷の女官達)」や「鳩」の連作がある。

★この後の見学はバルセロナ伯の館、アガタ礼拝堂、それにコロンブスが新大陸発見報告をイサベル女王にした時の謁見の間(ティネルの間)がある王の広場、意味不明のシラクセイの手形、ローマ時代の遺跡が地下に残る市歴史博物館は傍を通っただけ、バルセロナの最高点16.9mの標識、ローマ神殿の柱、バルセロナが隆盛を極めた13世紀から150年かけて建てられ中央祭壇の地下に守護聖女サンタ・エウラリアが眠るカテドラル(ロマネスク、ゴシック両様式を持つ)、と駆け足の見学をしてランブラス通りに戻り、サン・ジュセップ市場入り口の先、レストラン・サンレモSANREMOに落ち着いたのが丁度正午、 マッシュポテトを玉子と混ぜて焼いたスペインオムレツTortilla Espanolaとビールで食事を済ませ、ホテル・ガウディに帰って13時前にはバルセロナ・プラット空港に出発せねばならないという大変な慌ただしさだった。

ピカソ美術館 ラスメニーナス 王の広場
シラクセイの手形 バルセロナ最高地点標識 ローマ神殿石柱
カテドラル サン・ジュセップ市場入口 バルセロナ・プラット空港

★ゲートで次のトレック・ガイドのためシャモニへ向かう赤沼さん、お孫さんとのデイトでロンドン行きの桑原さんと別れて我等はQR68便でドーハへ向けて出発、私にとって2,013年最大のイヴェント、印象深かく充実したピレネー越えの旅はこれで完全に終わった。多分、旅の立案者赤沼さんのコンセプトにも沿った十分満足すべきものだったと思う。

◆旅の終わりに

★成田までのフライトについては省略するが、座席の前に表示される進路マップに時折現れる大きな矢印がメッカの方角を示すもので、イスラム教徒の日に5回のお祈りの為と、この帰り便でやっと気づいたことを報告しておきたい。

★思えば日本とスペインは1614年、支倉常長の慶長遣欧使節団が時の国王フェリペ3世に謁見して以来400年の交流という浅からぬ歴史を持っている。今回の旅では700年代に始まって1492年グラナダのアルハンブラ宮殿陥落まで700有余年を掛けた壮大なレコンキスタや、多くの歴史的遺産を残す長い巡礼の道サンティアゴ・デ・コンポステーラにはほんの僅か触れただけだったが、これを契機として更に深く此れ等の歴史を紐解いて見たいと願っている。(2013.9.20.)

♪BGM:T.Oesten[アルプスの夕映え]arranged by Reinmusik♪

表紙へ 山本浩
山岳紀行集
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