いなほ随想特集

チロル・ドロミテ紀行

山本 浩(29政経)
文・写真


7年前の夏、チロルの山を歩いてその魅力の虜になり、何時かもう一度と思っていた、その願いがやっと叶えられ
た。
もう一度というのは、その時遣り残したと感じたことが幾つかあったからで、今回その大半は解消したものの旅を
終わってみると、また新たな遣り残しが生じていて、これはいたちごっこ、何回やっても完全解決はないのかもしれな
い。


◆7年越しの再訪の夢を叶えて勇躍出発

★海外旅行費用の大半を占めるものは航空機であり、その観点から距離は遠くなり時間も余計に掛かるが、アラブ
首長国連邦のエミレーツ航空を初めて使うことになった。
エミレーツ航空は豊富なオイルマネーでその勢力を拡大し、
今や一流の航空会社にのし上がって来ている。それに乗務員には美人が多くてサービスが良いという噂にも些かの
興味があった。


★2011年7月5日、11日間、一行13名、で先ずは羽田−関空−ドバイ−ミュンヘンの経路でチロル・ドロミテの旅は
始まった。関空−ドバイの10時間は日航との共同運航という気安さもあったし、赤い帽子に白いヴェールのキャビ
ンアテンダント(スチュワーデスとは言わないらしい)のユニフォーム姿は噂どおり中々格好よく晴れやかだった。
ミレーツ航空の欠点はヨーロッパ各地へのフライトは必ずドバイを経由することで、しかも接続便の待ち時間が長い。
我等もミュンヘン便に乗るためには3時間待たざるを得なかった。

エミレーツ航空の客室乗務員 ドバイ空港

◆「カスピ海の真珠」は、やはり高かった

★ドバイ空港は巨大な城郭、しかも朝4時(現地時間、時差5時間)というのに人で溢れかえっている。人間というの
はしょうがない生き物で、3時間も大人しく待つことは到底至難の業である。ご多分に漏れず我等も空港内をぶらぶ
らした挙句にカウンターでビールを飲むことになった。気がついてみたら此のカウンターは「キャビアハウス」で木製
の小匙にキャビアを載せて出してくれる、ビールはメキシコのコロナエキストラだった。

★支払いはカードでやるのが良いと教えられていたのでそうしたが、レシートのDHSなるものの意味が全く判らない。
後でこれはアラブ首長国連邦の通貨単位の「ディルハム」で、レートは22円強と知った。そしてやはりキャビアは高か
った。
その昔、イランのレストランのメニューにキャビアを「カスピ海の真珠」と書いてあったのを思い出す。

キャビア 1リットルのジョッキ「マス」の黒ビール

◆ミュンヘン空港で大男がお出迎え

★ミュンヘンへは更に6時間だが、着陸前の機内食では極力飲み物を控えることにした。と云うのは、海外の山旅で
何度もお世話になっていて今回もアレンジの一切をお願いした「天渓」の赤沼社長にミュンヘンがスタートになるなら
ばと、かの有名なビヤホール「ホーフブロイハウス」の予約をお願いしていたからである。

★ミュンヘン空港では一寸した行き違いがあった。一昨年のツール・ド・モンブランでガイドして頂き、今回ただ一人
お願いしたガイドの志波邦彦さん(ツール・ド・モンブランでは山岳写真家磯貝猛さんと2人だったが、磯貝さんは昨年
夏北穂高で惜しくも滑落死された)が見当たらない。
きょろきょろしていたら大男がローマ字で“TENKEI”と書いた紙
を持って立っていた。

★ミスター志波のことを聞いたら先に行って待っていると言う。ベンツの20人乗りボックスカーに案内されてミュンヘン
旧市街へ向かう。
約40分で旧市街入り口、無事に会えた志波さんの話では、毎年夏に常駐しているツエルマットから
来る途中の列車事故で大幅遅れ、空港へはとても間に合わないと思ったのでミュンヘン旧市街へ直行したとのことだ
った。

◆世界最大のビールの祭典会場に直行

★ミュンヘンはビールの都である。10月の第1日曜日から逆算して16日間行われるビールの祭典「オクトーバーフェス
ト」は1810年10月バイエルン国王の結婚を祝って行われて以来200年以上続いており、この間に世界から集まる人は
毎年700万人、消費されるビールは500万リットル、正に世界最大のビールの祭典である。

★そしてこのミュンヘンに数多あるビヤホールの中で最大の規模と伝統を誇っているのが「ホーフブロイハウス」宮廷
醸造所で、その名の示すとおり1589年ヴィッテルスバッハ家の醸造所としてスタートしている。
店を訪れた歴史的人物
の中にはエリザベート王妃、モーツアルト、レーニン、等々それにヒットラーがナチス党の結成集会を開いた話はよく知
られている。

ホーフブロイハウス ホーフブロイハウス内部

◆1リットルの大ジョッキで黒ビール「デュンケル」を飲み干す

★全体の収容人員は3000人、1階のメインホール「シュヴェンメ」とビヤガーデンは伝統的に予約を取らないそうで、
我等は静かな「ブロイステューベラル」という部屋に案内されてしまったが、実は此処の魅力ははじける様な喧騒の
中をボーイが両手一杯のジョッキを捧げて飛び回り専属のブラスバンドが民俗音楽をかき鳴らすところにあった。

然し折悪しく午後3時はバンドの休憩時間中だし、大勢の客が集まるには無理な時間だった。 


★それでも数百人はいたと思われる人達の殆んどが飲んでいたのは名物のMassという1リットルのジョッキで、中味
はデュンケルという黒ビールである。
ミュンヘンにはヴァイツエンという麦芽を加えた酵母入りで、こくのある美味いビ
ールがあるが、これには旅の中ほどでお目にかかることになる。


★ミュンヘンでビールと共に食べるものの代表格は「ヴァイスブルスト」仔牛のすり身を使った白ソーセージで茹でた
ものの皮をむいてスユーサーセンフという赤いマスタードをつけて食べる。
地元の人達は昔から新鮮なうちにと「白ソ
ーセージ」は午前中に食べる習慣があり、店によっては午後は売らないところもあるらしい。


★やたらビールの話が長くなってしまったが、とにかくわれらは今日中にドイツ国境を越えてオーストリア、チロル州
の州都インスブルックまで辿り着かねばならない。今回の旅はミュンヘン空港で始めに乗ったこのボックスカーで再
び巡ってミュンヘンに帰ってくるまで全行程を移動する。 

◆ミュンヘンから2時間20分のドライブでインスブルックに到着

★車はイザール川に沿って南下、ドイツの最高峰ツークシュピッツエ(2962m)の玄関口、ガルミッシュパルテンキルヒ
エンを右に分け、シャルニッツで国境を越え19時20分インスブルック着、2時間20分のドライブだった。着いたホテル
は、7年前のインスブルックでは昼食を挟んで僅か3時間程度の滞在だったが、家内と二人でこのホテルのレストラン
に食事に来て、高名なホテルに拘らず、その値段のリーズナブルなのに感激したことを思い出す。 


★このホテル「ゴルデナーアドラー」は1390年の創業で、恐らくヨーロッパのホテルの中でも最古の部類に属すると
言われ、玄関に掲げられた大理石の板にはこのホテルを訪れた著名人の名前が刻印されている。
この中にはハプ
スブルグ家を強大な帝国にする礎を築きインスブルックをこよなく愛したマクシミリアン1世を初めゲーテ、ハイネ、モ
ーツアルト、パガニーニ、各国の王侯貴族等の名前が見受けられ歴史の厚みを感じさせられる。

ホテル・ゴルデナーアドラーの石版
(最上段にモーツアルトの名前も見える)

◆イン河に流入する複数の谷(タール)から成るチロル

★夜中に屋根を叩く雨音がして心配したが、朝起きてみると何とか雨が上がっていてホッとする。
いよいよ今日から
本番の山歩きである。
チロルはスイスに源を発し、国土の東西を貫流してドイツのパッサウでドナウ河と合流するイン
河に向かって流れ込む幾つもの谷(タール)を持っている。

イン河とノルトケッテ(北の連山)

◆ロープウェイを乗り継ぎ、3333m峰シャウフェルスピッツエ直下ヨッホドーレへ

★タールは春先にフェーン風が吹く所が温暖で豊かといわれていて、昔からタールごとの独自の文化圏を形成し、
そのタール以外の人とは結婚しない時代もあったと聞いている。私は前回チロル最大のタールといわれるチラタール
の山を歩いたが、今回はインスブルックの西方にあるストウバイタールの山を目指すことになった。


★車はブレンナー峠に続くヴィップ谷から右奥に入り込み、タールの中心ノイシュティフトを過ぎ、ホテルから約1時間
で更に深部のムッターベルクアルム1721mに着く。
南方に連なる山々の上部は霧に隠れて見ることが出来ない。
処からグレッチャーバーンのロープウェイに乗って中間駅フェルナウ2308m、更にアイスグラート2870mと乗り継いで
シャウフェルスピッツエ3333m直下のヨッホドーレを目指す。

ノイシュティフト村

◆氷河ステューバイヤーグレッチャーを眼下にゴンドラは高みへ進む

★高みへ上がっていくゴンドラの下には小さく羊の群れが見えていたが、やがてそれは荒涼たる氷河ステューバイヤ
ーグレッチャーに変わり、30数分で終着駅に到着となる。此処は「トップオブチロル」3210mと呼ばれていて、氷河ス
キーの出発点になっている。


★北チロルの最高峰は更に西エッタールアルプスのヴィルトシュピッツエ3768mだし、ステューバイヤーアルプスの
最高峰もツッカーヒュートル3507mなので「トップ」というのは些かおこがましいと思うのだが、スキー場のスタート地
点としては或いはそうなのかもしれない。


★駅舎から外に出ると寒いし濃い霧と強風で何も見えない。それでも此処まで来たのでヤッケに身を包み展望所へ
の急階段を登ったが、高所でいきなりこの数百段の上りはきつくて目の前が暗くなりそうなほどだった。
相変わらず
視界はゼロだが強風のため霧が切れて山が見えることがあったがそれは一瞬のこと、直ぐ近くに見える筈のシャウ
フェルスピッツエもステューバイヤーアルペンの山並みも見ることは出来なかった。


◆可憐な白花ラヌンクルスに迎えられて

★処が足元に眼をやるとこんな高所に白い可憐な花が咲いている、志波さんに聞いたらキンポウゲ科のラヌンクル
スという。
山は見えなくても、思いがけず花を見ることが出来て、ここまで上がって来た甲斐はあった。何しろこの天
気なので頂上付近のトレッキングは諦め、一旦中間駅のフェルナウまでロープウェイで下り、ドレスデンヒュッテの脇
を通ってムッターベルクアルムまで標高差約600mをトレッキングすることにした。

トップオブチロルへ スチューバイヤー氷河
ラヌンクルス 展望台への階段 アイスグラート

★途中一寸時雨れそうになったが、レインウェアーを取り出すほどではない。丁度、ヨーロッパアルプスで最も花が
良い時を選んだのだから当然といえば当然だが、道すがら次から次へと現れる花々を楽しみながらゆっくり歩く。
ナデシコ、勿忘草、弁慶草、ワタスゲ、絵筆タンポポ、悪魔の爪、シラタマソウ、イブキジャコウソウ、種を飛ばすチ
ングルマのようになったダイコン草、それに食虫スミレまであった。

フェルナウ・ドレスデンヒュッテ ムッターベルクアルムへの下り
絵筆タンポポ シレネ・アカウリス 弁慶草
勿忘草 イブキジャコウソウ シラタマソウ

インスブルックとは「イン河に掛かる橋」のこと

★迎えの車で帰る途中、牛さんたちに道を塞がれて立ち往生する場面もあったが、午後3時にはホテルに着いたの
で、めいめい市内探訪に出掛ける。インスブルックとはイン河に掛かる橋の意味で、橋のまわりに出来た町は古来
ヨーロッパ中央部への十字路として軍事的にも経済的にも重要な地位を占めてきた。


★イン河の対岸に連なるパステルトーンの家並みと背景の山々、ノルトケッテ(北の連山)は真に美しい、そして旧市
街の中に入るとロココ建築の傑作といわれる王宮やマクシミリアン1世の権威の象徴「ゴルデネスダッハル」(黄金の
小屋根;2657枚の金箔銅版瓦のバルコニーで騎馬試合観戦のため改築した)、1494年当時の城壁をそのまま取り
入れた館、オットーブルク(ワインを飲むなら此処が良い)など歴史的建造物の宝庫である。

オットーブルグ ゴルデナーアドラー表札
ゴルデネスダッハル 聖アンナ記念柱

★私は以前から自分の好みにあったチロリアンハットを入手したいと思っていたので何軒か物色したがどうも気に入
らない、ぶらぶら歩いていたらスーパーマーケットの入り口に変なものを見つけた。
大きなざるにオレンジが一杯積
み上げてあって、下の透明なボックスの中になにやらギヤらしきものがあり更にその下に蛇口、横にコイン投入口、
これはジューサーに違いないと早速試してみたら、このジュース真に新鮮で美味かった、日本にもこんなのがあれば
流行るだろうにと思ったことだった。


◆凱旋門の奥に冬季五輪のベルクイーゼルジャンプ台が見えた

★以前来た時はマリアテレジア通りは少し歩いただけで凱旋門までは行けなかったので、今度は少し歩くが頑張って
みることにした。
通りの中程には聖アンナ記念柱が立っていて、此処から凱旋門の開口部を見通すと冬季オリンピッ
クのベルクイーゼルジャンプ台を見ることが出来る。
ちなみにインスブルックは冬季オリンピックを2回(1964年、1976
年)開催している。
この凱旋門は1765年マリアテレジアが息子レオポルド2世の結婚を祝って造ったものだが、建設中
に夫フランツ1世が急逝した為に南面には幸福の象徴を掲げたが、北面には悲しみの象徴を掲げたと伝えられている。


★今夕のホテルでのディナーの部屋はゲーテの肖像画が架けられているゲーテストウーベ(ゲーテの部屋)、皆の顔
にはやっとチロルの山を味わえた喜びに溢れていた、ワインも志波さんお勧めのカイザーワイン「ツバイゲルト」が好
評で大いに盛り上がった。

凱旋門 ベルクイーゼルジャンプ台
ジューサー ゲーテストウーベ

★7月8日朝、雨模様、朝食バイキングの時面白かったのは、ゆで卵の造り方、温泉卵宜しく自分で器具に入れた卵
を湯の中につるし、自分が良いと思った時に引き上げて食べる、他の人のと間違えないようにチョッと緊張が必要だ。


◆車でイタリア領南チロル〜ドロミテへと向かう

★出発の時、雨は上がっていた、車は変わらないがドライバーは今日からアルビンさん(Albin)でこの後通して勤めて
くれる、太り気味の大男だが若い頃は随分チロルの山に登ったそうだ。
今日はアルプスに数ある峠のうちで最も標高
が低い(1375m)ブレンナーパスを越えてイタリア領南チロル、更にドロミテへと進む。

ゆで卵器 ブレンナー峠

★インスブルックから南下する高速道路はヴィップタールを越えて架かるオイローパブリュッケを渡る。この橋は190m
の高さを誇り、ヨーロッパ随一であったところからこの名がついたが、今はフランスのミヨー橋343mに高さを譲っている。
高速道路の下には旧道があって多少道の移動はあってはいるが古代ローマ軍が北上し、ゲーテやモーツアルトが南下
した長い歴史の道である。
今も検問所の建物が残っているが、ヨーロッパがユーロ圏になってからは空き家になってい
るという。


◆トンネルを抜けるとイタリア領、あっけないアルプス越え

★橋を渡るとサービスエリアがあり、更に進むとゼアレス(祭壇の山)が見えてくる,そしてトンネルを抜けるとイタリア領、
全くそっけなくて、この歴史的な峠を通過する感慨も沸いてこなかった。
アルプス越えについて、私には子供の頃に見た
絵本で強く眼に焼きついている場面がある。
それは2200年前、カルタゴの英雄ハンニバルが象と騎兵、歩兵の大軍を
引き連れてアルプスを越えローマに攻め入る勇姿である。


★ハンニバルがアルプスの中でどの峠を越えたかは諸説あって確定はしていないが、スペインから発進していることか
ら比較的西の方とする説が有力である。
かのナポレオンは自らをハンニバルになぞらえてアルプス越えをしているが、
この峠はグラン・サンベルナール峠2473m、ハンニバルのアルプス越えは古都ブリアンソンに近いモン・ジュネーブル
峠も有力候補に挙げられているが、様々な史実の検証から最も確実と思われているのはポー河の源流端、トラベル
セッテ峠2950mである。


★ハンニバル軍は10月の高所での寒さと疲れ、それに岩崩れなどに遭って兵力の半数近くを失いながら進軍を続け
たという。
モン・ジュネーブル峠には記念碑が建っていて車でも行けるが、トラベルセッテ峠はほぼ3000m、完全に登
山をする覚悟でないと無理らしい。
インターネットでこの峠のことを調べていたらハンニバルの故事を尋ねてわざわざ
登っている日本人がいた。ハンニバルのアルプス越えに武人の美学と壮大なロマンを感じるのは私一人ではないよう
である。 

ハンニバルのアルプス越え
wikipediaから転借

◆チロルの歴史的な背景

★我等はイタリアに入って約40分、クラウセンで高速道路を下りて今日の目的地サッソルンゴ(ラングコーフェル)へ
向かう。
イタリア領南チロルに入って直ぐ気がつくことは、殆んどの地名がイタリア語、ドイツ語の二重標記になって
いることである。
これは第一次世界大戦後、1919年のサン・ジェルマン条約によってチロルは最も肥沃な土地である
南半分がイタリアに併合されてしまったことによる。


★またチロルの東の部分はオーストリアの頑張りによって何とかイタリアに取られることはなかったが、この条約によ
ってイタリア領となったアールン渓谷が深く北へ入り込んだ為に、この部分はチロル本体と切り離されてしまい、仕方
なく東チロルと呼ぶようになっている。
元々同一民族、同一文化圏であったチロルがこうして分断されることとなった
ため、イタリアの懸命な同化政策にも拘らず、頑なにチロルの独自性を持ち続けようとしているのである。


◆愛国者アンドレアス・ホーファーに見るチロル人気質

★このチロル人気質というようなものの背景を考えるには愛国者アンドレアス・ホーファーの名を外すことは出来ない。
彼は1767年ブレンナーの西南ジオボ峠に近いサン・レオナルドで生まれている。

★19世紀の初めナポレオンは欧州を席巻し、戦勝の恩賞としてチロルをパヴァリア(バイエルン)に与えてしまった。
 
これはチロルの人々に屈辱を与え、自尊心を傷つけ、チロル奪還の地下運動が広がっていった。ホーファーも家業
を打ち捨ててチロル各地を遊説、農民軍を編成してパヴァリアを追い出した。 この時ホーファーはインスブルックで
我等が泊まったホテルゴルデナーアドラーのバルコンから下に集まった町の人々に農民蜂起は勝利したと告げたとい
う。


★これに怒ったナポレオンはフランス軍を派遣、これも撃退したが結局剣をとること4度にして力尽き、捕らえられてロ
ンバルディア平原の東端マントヴァで銃殺されこの地に埋葬された。
然しそれから13年後の1823年、チロル狙撃部隊の
将校たちが夜陰に乗じてホーファーの遺骸を掘り出し、インスブルックに持ち帰って宮廷寺院に葬った。

描かれた愛国者アンドレアス・ホーファー
Panorama Innsbruckから転借

◆チロル人の悲願を秘めて

★インスブルックの街角にはパヴァリア軍の大砲を鋳潰して作った記念像が建てられ、宮廷寺院に安置されている
ホーファーの像には1919年に南チロルを失って以来、ずーっと黒布が架けられたままになっている。チロルの人々
は何時の日かインスブルックに南チロルの人達を集めてこのホーファーの像から黒布を外したいと願っていること
だろう。


★イタリア領に入って我等はクラウセンで高速道路を下りたが、下りずにこのまま南進するとチロル最大のワインの
町でドロミテ街道の西の起点ボルツアーノ(ボーツエン)に到達する。実はボルツアーノへの道はもう一つあり、ブレ
ンナーを越えて間もなくヴィピテーノで高速を下りて右に道をとれば、前述のアンドレアス・ホーファーの生地サン・レ
オナルドを通り、古都メラン(メラーノ)を経由してボルツアーノに到ることが出来る。


★メランにはチロルの名前の元となったチロル伯の館があり、少し離れた山側にはチロル城があって、このチロル
伯が領有した土地がチロルであると単純に思い込んでいた。有史以前、イタリアのトレント以北ドイツのパヴァリア
山脈に達する広大な地域にレチア族というアルプス部族が住んでいたが、紀元前15年アウガスタス大帝の軍の侵
攻によりこの地方一帯は千年以上にわたってローマ帝国の一部となっていた。


◆チロルの語源はローマ軍の要塞「テリオリス」が訛ったもの

★11世紀の初めに統治のために軍隊を長く駐留させられなくなったローマ軍が大司教に統治をゆだねようとしたが、
その能力がなかったため止むを得ずこの土地の豪族に権限を譲ってしまった。メランには古くから「テリオリス」とい
うローマ軍の要塞があって、テリオリスをチロル(正しいドイツ語の発音「ティロール」を当てるのが妥当か)と訛って
覚え、自らをチロル伯と称したこの豪族は、漸次勢力を拡大してブレンナー峠を越え、現在のチロルは勿論、一時は
スイスのサン・モリッツ辺りまでを領有した。 

★1363年、領主のマルゲリタ・マウルタシュ王妃は夫と息子に先立たれ統治の意思をなくしてしまい、領地を挙げて
兄ハプスブルグ王家のルドルフ4世に譲渡、以後チロルはオーストリアの領有するところとなる。1805年ナポレオン
にオーストリアが敗戦、プレスブルグ条約でチロルはパヴァリア軍に占領され前述のアンドレアス・ホーファーの活躍
などがあったが、1914年の第一次世界大戦の際ドイツはチロルをオーストリアに返還したため再びハプスブルグ王
朝の軍隊として連合国軍と戦うことになった。そしてチロルの軍隊は各地で勇敢に戦い、特にチロルの領土を守る戦
いにおいては殆んど負けることを知らなかったにも拘らず、独墺軍の敗戦により豊饒の南チロルを失ったというのが
チロルの歴史のあらましである。


◆近年、保養地、観光地として注目を浴びるチロルの旧首都メラン

★チロルの首都であったメランは1420年、シギスムンド大公が都をインスブルックに移し、更にはブレンナー峠から
ボルツアーノへの道が開けたことにより政治的、産業的な意味を失い、昔を偲ぶ古都となっていたが、気候温暖で
温泉も出ることから保養地、観光地として注目されるようになって来た。


★もうひとつ山に関心のある我等として覚えておきたいことは、先日来、日本でもナンガ・パルパート8125mでの苦
闘が放映されているラインホルト・メスナーのことである。彼は国境に近い南チロルのフィルネス村の生まれだが、
世界の8000m峰14座を完登し、エベレスト無酸素登頂を北チロルマイヤーホーフェンの岳友ペーター・ハーベラー
と共に達成している。(実は7年前のチラタール山行の後、マイヤーホーフェンでペーター・ハーベラーと暫し歓談で
きたことは今もって誇らしい思い出である)


ラインホルト・メスナー
wikipediaから転借

★そしてメスナーの現在の生活の拠点はなんと此処メランの古城の一つ、ユーバル城である。これ等をつらつら考
えると、便利だが歴史や文化の味わいに乏しい高速道路なるものがチョッとばかり恨めしくなった。


★クラウセンで高速を下りてからの話が長くなってしまったが、約30分走ってセルヴァ(ヴォルケンシュタイン)で休
憩。左前方にはテーブルマウンテン状のセラ山群3151m、左にはサッソルンゴ(岩の山の意)3181mが見える。この
山は後日歩いたドロミテの代表格ドライチンネンによく似ていて、岩峰にへばり付くロッククライマーの姿も小さく認め
られた。ドロミテには何箇所もあるが、この辺りも昔から木彫りが盛んな所らしい。

セルヴァ セラ山群

★15分でパッソセラヨッホハウス2180m、車がそんなに大きくないこともあってアルビンさんは上がれるところまで車
を上げてくれたので助かる。
此処からサッソルンゴを右手に見上げながら1泊の小屋泊まりに必要なものを担いで歩
き始める。
シャレーマルゲリータ小屋の横を通り、2318m地点まで登ると左はデ・アルペ小屋2400mのある小ピーク。
我等は右へたらたらと下ってオーガスト小屋2298mへ向かう。


◆サッソルンゴ指差して立つ山男の木像

★左斜面は広々としたアルムが広がり、高地らしく毛の長い牛が放牧(アグリアルム)されていて、入り口では3mほ
どもある大きな牛の張りぼてが出迎えてくれた。
小屋はメイン棟と宿泊棟に別れ、メイン棟の正面にはサッソルンゴ
を指差している山男の木像が立っているので、像の基部を見たら「王(ケーニッヒ)にして登山家(ベルクシュタイゲル)、
フリードリッヒ・アウグスト3世(1865〜1932)」とドイツ語で銘記されていた。
勿論小屋の名前がアウグスト王から来て
いることは間違いないが、此処からこの登山家の王がラングコーフェル(サッソルンゴ)に登頂したのではないかとい
うのは私の想像である。

パッソセラ サッソルンゴ
オーガストヒュッテへ 巨大な張りぼての牛 フリードリッヒ・アウグスト3世木像

★宿泊棟に荷物を置きパスタなどで軽い昼食を済ませた、此処でとても懐かしかったのは「シーヴァッサー」という飲
み物、これは前回チロルで初めて山に挑戦する前夜ザンクト・アントンのホテルで飲み過ぎ、翌日大変辛い思いをし
てやっと山小屋に辿り着いたが、夕食では勿論アルコールには手が出ずどうしたものかと思っていたら、隣のテーブ
ルでドイツ人の若者達が飲んでいる飲み物が目に付いた。
それは何かと聞いたら「シーヴァッサー」でノン・アルコー
ルだというから早速注文して渇きを癒したことだった。
これはスキー(シー)水(ヴァッサー)の合成語で、スキー場で
アフタースキーの飲み物としてよく飲まれると後で知った。


◆エーデルワイズに歓声上げたら

★食後、サッソルンゴの麓を歩くトレッキングに出掛けた。殆んど高低差のない道で道の名前を「フリードリッヒアウグ
ストヴェーク」という。
初めは2番目の小屋のプラットコーフェルヒュッテまで行く筈だったが、道の両側のお花畑が素
晴らしいし、そのうちエーデルワイズを見つけて歓声を上げていたら、通りかかった婦人から「この先に行くともっと沢
山有るわよ」と言われて期待に胸を膨らませ、兎も角最初のサンドロペルティニ小屋2300mへと頑張る。

フリードリッヒアウグストヴェーク サンドロペルティニ小屋へ
エーデルワイズ

★この小屋の主人は中々気の良い小父さんで、どの辺まで行けば沢山エーデルワイズが見られるか?と聞いたら、
チョッと来いといって小屋の中を通り抜け裏庭に案内してくれた。
庭の右側には岩が張り出していて、岩に張り付くよ
うに点々とエーデルワイズの花が咲いている、又庭の中程にも何箇所かエーデルワイズを見つけ、夢中で写真を撮
る。
エーデルワイズは今までヨーロッパで何回か見ているが、鉢植えなどの栽培もので、野生のエーデルワイズを見
るのは初めてだ。


気のいい小屋の主人に自家製グラッパを振る舞われる

★小屋に入って小父さんにお礼を言ったら娘さんと二人がいて、「これはうちで造ったグラッパだ(ワインの絞り粕を醗
酵させたアルコールを蒸留したイタリアのリキュールの一種)だ」と言ってご馳走してくれた。きついがまろやかで中々良
い味だった。
些か喉が渇いていたので水を所望したら今度は又小屋の外へ連れ出し、親切にもわざわざ山から引い
てある水を飲ませてくれた。


★記念に小屋で売っていた木製のエーデルワイズバッジを購入、カップから溢れるほど泡立てたカプチーノを飲みな
がら休んでいたら、エーデルワイズも見たし、もう此処までで良かろうということになりオーガスト小屋に引き返すこと
になってしまった。
帰る途中、先程の小屋の娘さんが声を掛けて我等を追い抜いていったが、その速いこと、さすが
アルプスの山の女は違うなと感心した。

SP小屋父娘とグラッパ オーガスト小屋遠景

★途中から引き返してしまったので日没には未だ早い。サッソレヴァンテ3114mの直下まで登ればエーデルワイズの
群落があると聞いて元気のあるもの達で登ることになった。
デ・アルペ小屋への分岐を左折して上り始めるが、右側
の斜面はパッソセラまで続く広大なゲレンデになっていて3本のリフトが架かっているが勿論今は運休している。


◆広大なゲレンデは花、花、花

★冬は当然雪で覆われるのだろうが、今は一面の花、花、花、高山植物の花は土の好みがあるのか同種のものが
纏まっていることが多いが、この辺りは何種類あるか判らない各種の花々で埋め尽くされている。
何処まで登ればエ
ーデルワイズにお目にかかれるのか判らないので、取りあえず上り続け、サッソレヴァンテの岩峰の基部付近2500m
辺りまで登った処で目的を達することが出来た。
然し一面の大群落というのではなく、彼方此方に数輪ずつ咲いてい
る姿はアルプスを代表する貴重な花のたたずまいで、エーデルワイズらしさを感じたことだった。


★此処までくると山の眺めも素晴らしい、サッソルンゴを背に前面にはセラ山群、遥か右奥にはドロミテの最高峰マル
モラーダ3342mが白銀に輝いて見える。
帰り、再びあの花一杯の斜面に来てたまらなくなり、花には申し訳なかった
が、中に飛び込んで腹這いになった。
視線が低くなると上から見ていたのと全く違う世界が見えてくる、花いきれに包ま
れ、花々のざわめきが押し寄せて来る様だった。
小屋に帰ってベンチで飲んだビールが「フォルスト(森林)」とはさす
がにご当地らしい銘柄だ。

長い毛の牛 エーデルワイズ
お花畑に腹這いになってショット お花畑と山々
サッソルンゴ夕景 アンティリスウエルネラリア群落 フォルスト

★7月9日、朝5時に起きて外に出てみた、山の涼気がすがすがしい、丁度志波さんが出てきたので一緒に昨日の花
畑の方へ散歩する。
花はどれも朝露を含んで日が昇るのを待っているかのようだ。空の明るみのグラデーションから
日の出の方角はセラ山塊の上に違いない。
待つこと暫し、テーブル状の岩峰の隙間から眼もくらむような光芒がほと
ばしり出た、急いでシャッターを切ったがこの素晴らしいショウは一瞬にして終わった。

マルモラーダを背に セラ山群から閃光

◆ドロミテの地名の由来をちょっと

★朝食後8時、オーガスト小屋に別れを告げ下山開始、来るときは途中からでも1時間かかったのに、下りはアルビン
さんの待つセラヨッホハウスの駐車場まで40分で下りてしまった。
此処から車で約30分、今日のトレッキングの出発
点、パッソポルドイ(ポルドイ峠)へ向かう。
パッソポルドイはボルツアーノからコルチナ・ダンペッツオに到るドロミテ街
道150kmのほぼ中間点で、しかも街道の最高地点2239mでもある。

★ドロミテの言葉の由来については良く知られていて改めて説明の必要は無いかも知れないが、1791年にフランスの
地質学者・鉱物学者デオダ・ドロミューがこの岩山がマグネシュウム性石灰石で形成されていると発表したことによっ
ている。
つまり珊瑚などの堆積によって出来た石灰岩が海水のマグネシュウムと交代して生成され、数億年の地殻変
動と浸食作用を経て出来たもので、この石を彼の名前にちなんで「ドロマイト」と云い、この地域を「ドロミテ」と呼ぶ。
尚、ドロミテは比較的最近になるが2009年6月ユネスコの世界自然遺産に登録されている。

★ドロミテには沢山のトレッキングルートがあるが、中でもお勧めのルートには「ドロミテンヘーエンヴェーク」(ドロミテ
高所道)の名前が付けられている。
今日ドロミテの名峰マルモラーダを眺めながら歩くこの道も、明日歩くドライチンネ
ン周回路もドロミテンヘーエンヴェークの一つである。

◆目につくトロルブルーメなどバターカップ種の黄色い花たち

★正面の岩峰の左を回り込み、キリスト像の架かった祈祷所を過ぎると前が開け、どっしり四股を踏んだようなマルモ
ラーダの全容が現れる。頂上のプンタペニア3343m、プンタロッカ3309m、2つのピーク直下から流れ出す広大な氷河
が見るものを圧倒する。さすがの展望所なので道の崖下にはフレダローラ小屋2400mが設けられていた。此処まで上
がってくるとヴィエルデルパン小屋(ビンデルヴェークヒュッテ)2432mまで殆んど高低差のない気分の良い散歩道だ。
トロルブル−メなどバターカップ種の黄色い花が多い。

★ヴィエルデルパン小屋のテラスでドロミテの女王マルモラーダを眺めながらゆっくり休憩、当初は此処で折り返し、
パッソポルドイに戻る予定だったが、遥か眼下に美しい姿を見せているフェダイヤ湖へ行きたくなり、こちらへ下りる
ことにした。
この道は今迄と違って殆んど人通りがないが、かえってやっと山に来た感じで気分は良い。途中美しい
青色のエンチアン(アルプス3名花の1つ、アルプスリンドウ)や臙脂色のマルタゴンリリーを見かけた。


★歩き始めて約2時間、最後に九十九折の急坂を下りてフェダイヤ湖の西端に到着、湖はマルモラーダの雪解け水を
たっぷり蓄えていた。
湖畔のカスティリオーニ小屋(マルモラーダヒュッテ)に入ってチョッと遅くなった昼食を済ませ、こ
ちらに回しておいて貰った車で出発。山を歩いていてフェダイヤ峠は何処だろうと思っていたのだが、車が湖の東端に
回った処がパッソフェダイヤ2057m、なんと今日の歩きで最も標高の低い所が峠だった。

トロルブルーメ トロルブルーメ
フレダローラ小屋 フェダイヤ湖
ヴィエルデルパン小屋 同小屋からマルモラーダ
マルモラーダ氷河
ハルリンドウ マルタゴンリリー

★ドロミテ街道を東進すること1時間、ファルツアレーゴ峠2105mに着く、前方に斧で断ち割ったような赤い岩峰トファー
ナ・デローゼス3225m、右に奇峰チンクエ・トーリ2361m(5本の指を意味するが数年前、1本は崩れ落ちている)、この
辺りは初級から上級までスキー場のメッカと聞いた。

◆「ドロミテの真珠」コルチナ・ダンッペッツオ

★更に30分、ドロミテ街道の東端、コルチナ・ダンペッツオはドロミテの真珠と形容される落ち着いたリゾート地で、古く
からイタリアのサヴォイア王家、デンマーク王室が愛したところである。
教会を中心に統一された町並みは肥沃な牧草
地の緑や周りを取り囲むトファーナ3243m、クリスタッロ3221m、ソラピス3205m等名峰の岩肌と美しく調和してい
る。

グラッパで乾杯 コルチナダンペッツオ

◆世界の寵児となったトニー・ザイラー

★1956年トファーナの斜面で行われた冬季オリンピックでは、トニー・ザイラー(1935〜2009)が世界で初めて回転、
大回転、滑降のアルペン3冠王となり、猪谷千春が回転で日本人初の銀メダリストになったことも忘れられない。トニー・
ザイラーはその後22歳の若さで俳優に転向し「白銀は招くよ」や日本映画「銀嶺の王者」にも出演して世界の寵児となっ
た。


★我等はその日最後のロープウェイが出る16時30分まで殆んど時間の余裕がなかったため、コルチナ・ダンペッツオ
の町中をただ素通りしてロープウェイ発着所へ急がねばならなかったのは真に残念だった。
ロープウェイは一度中間
駅で乗り換え15分弱でモンテ・ファローリア2341m直下の頂上駅2123mに到着、駅舎と同一建屋のファローリア小屋
に入る。


★此処から見下ろすコルチナ・ダンペッツオは精度の良い航空写真を見るようで見飽きることがない。夕食は大麦と
豆のスープ、グラーシュ(牛シチュー)ラビオリ(ギョーザ)ポレンタ(とうもろこしの粉とチーズを使ったもの)食後には
ウェルカムドリンクのグラッパも出された。

コルチナダンペッツオ俯瞰 トファーナとコルティナ
ファルツアレーゴ峠 峠の店内
アルペンローゼ リオゲーレへ

◆アルペンローザに気を取られ、道を間違えかけた話

★7月10日、朝食前にコルチナとは反対のソラピスの山が見える方を散歩してみた、崖に沿って潅木の林が続いてい
る。陽だまりにアルペンローゼを見つけ、近寄って花を見た後、大体の方角を定めて道に戻ろうとしたが道はさっぱり
現れない、こんな処で迷子になったら大変、時間は掛かっても仕方がないと元来た所まで戻って事なきを得た。


★今日はコルチナには下りず、ファローリアの北東側へ下りることにして、ミズーリナ湖へ通ずる48号線との交点リオ・
ゲーレ1698mまでトレッキングする。
この道は冬季、初心者用の滑走路になっているようで、適当な傾斜の上にしっか
り幅を取ってあるので真に歩き易い、自分から何をしようとしなくても身体は自然に前傾してズンズン進む。


★リオ・ゲーレから車で北東へ20分、ミズーリナ湖の南岸から湖越しにドロミテを代表するドライチンネン2999m(トレ・
チーメラバレード)の南面が見えてくる。
土産物屋が立ち並ぶ北岸まで行って暫し休憩、こちらから逆の湖越し、ソラピ
スの眺めも又素晴らしい。

ミズーリナ湖北岸よりソラビス ミズーリナ湖北岸
ドライチンネンとオーロンツオ小屋 アンティリス・ブルネラリア
ドロミテンヘーエンヴェーク 見上げるドライチンネンヒュッテ

★更に20分北上、ドライチンネンの基部オーロンツオ駐車場着、石畳の急坂をオーロンツオ小屋2320mへ登ったがラ
ンチは1時間半待ちというので、それではと周回路を時計回りに歩き始める。
食事にあり付けるのは可なり遅くなりそう
だが止むを得ない。太陽はギラギラ照り付ける。


★初めは殆んど高低差なく山腹をトラバースしていたが、メドのコル2315mを過ぎてからフォルセリーナ2232mまでほ
ぼ直線の下りになった、幅が狭いし、さらさらしたドロマイトの傾斜路は滑らないよう足を踏ん張るのが大変だ。
フォル
セリーナはこの周回路の底地であり、浅い池が点在しランゲアルムヒュッテがあるが、立ち寄らずに歩き続ける。


◆名付けるなら、これぞ[阿弥陀如来峰」

★目的のドライチンネンヒュッテは遥か目線の上に小さく見えている。上り始めると壁が迫って小屋は見えなくなり、右
手上方に立ち並ぶ奇峰(パテルンコッフェル2744mか)が面白い、中に「阿弥陀如来」のような形の峰があって、此処
が日本だったら間違いなくそのような名前が付いているはずだと思った。
下から見えていた小屋には中々着かない。
一旦台地に出て暫く歩いてから14時40分、やっと目的地トレチーメア・ロカッテリ小屋(ドライチンネンヒュッテ)2405m
に到着、ビールと昼食にありついた。

此処は小屋にその名が付いているように、ドライチンネンのベストビューポイントで真正面に右からウエスト2973m、
グロッセ2999m、クライネ2857mと3つの峰がバランスよく屹立して見える。
真ん中の主峰には7〜8人のロッククラ
イマーの登り続ける姿が芥子粒のように見えていた。
今日の泊まりラヴァレド小屋までは僅か1時間程度の行程なので、
此処ではゆっくり時間を取って休んだ。


★15時50分出発、稜線を行く道と一旦下って中腹を行く道があるが、殆んどの人達がするように中腹の道を歩き始
める。
すると直ぐ左の壁面に結構大きな穴を見かけた、この辺りは伊墺国境に近く、第一次世界大戦の際の激戦地で
塹壕の跡だという。

塹壕跡

★右手に終始ドライチンネンを眺めながら歩くが、刻々とその姿かたちが変化していく。さらさらしたドロマイトの路肩
にはケシ科のババエル・ラエティクムと思われる黄色い花の群落が延々と続いていた。
やがて道は上りになりラヴァレ
ド峠2454mで上の稜線から来る道と合流したが、左手の崖面には又いくつかの塹壕跡の穴が見受けられる。

西側からドライチンネン フォルセリーナの池
ランゲアルムヒュッテ エンツイアン
アルペンローゼ 阿弥陀如来?峰
ドライチンネンヒュッテ ヒュッテからのドライチンネン

◆「♪山の大尉」は、イタリア軍人かオーストリア軍人か

★ここで若い頃よく歌った「山の大尉」という歌を思い出した。
この歌は戦いで重傷を負った大尉が部下を呼んで、自
分の身体を5つに切り、皇帝、部隊、母、愛人、山にそれぞれ捧げることを命ずる内容で、イタリア民謡として日本に
も紹介されている。
同行のメンバーでやはりこの歌を良く知っていた人と、この大尉はイタリア軍か?オーストリア軍
か?を話し合った。


★彼は素直に原語がイタリア語だし、イタリア民謡だからイタリア軍だという。一方、私はこの大尉はオーストリア軍で
しかもチロル兵ではないかという気がする。
というのは、第一次世界大戦前、南チロルはオーストリア領で、イタリアの
山岳地帯は西に偏っており、山岳兵の存在はチロルにこそ相応しいと思われること、更に大尉が自分の身体の一部
を先ず「皇帝」に捧げよと命じたことである。


★当時、オーストリアの元首はハプスブルグ家のオーストリア・ハンガリー帝国皇帝だが、イタリアはサヴォイア家の王
国であるから国王であって皇帝ではない。
それゆえ、この大尉はオーストリア軍とする私の論拠であるが、これには多
分に私のチロル贔屓が影響しているかも知れない。


★この峠からラヴァレド小屋2344mはもう見えていて、ジグザグに小屋へ到る道と中腹をそのまま行っていきなり小屋
へ下る道に分かれるが、ここはもう各人の自由、私は早く着けそうな中腹の道を辿ったが、僅かにジグザグ組みより
早いくらいで大差はなし、従ってベランダでジョッキを傾けるのも一緒になったわけである。


★ラヴァレド小屋は建て替えたばかりのようで新しいのは気分が良かったが、2段ベッドのサイドに落下防止の枠がな
かったりハシゴに手すりがなかったり、何だか未完成の感じがした。
シャワーも1回4ユーロ、面倒なので身体を清拭
するに留めた。

勿忘草 ババエルラエティクム
ハルリンドウ ラヴァレド峠へ
崖の塹壕 ラヴァレド小屋

◆きょうはザルツカンマーグートまでの長い旅になる

★7月11日、夜中に雷雨があったが夜明けには上がっていてホッとする。
今日はドライチンネンの残り4分の1を回っ
てオーストリアの最高峰グロスグルックナーを経由、ザルツカンマーグート迄の長い旅になる。


★7時40分発、カペラド・アルピニ礼拝所を回ると、もうオーロンツオ小屋が見えてくる。小屋の前面に林立する2800
m級の山々シーマ・シアディン一帯は古戦場地域だという。
この地域を去る前に湖に写るドライチンネンの倒影が見た
いと言ったら、アルビンさんがアントルノ湖で車を止めてくれた。
然し残念なことに丁度湖の藻を除去する作業中で、
湖面は波立っていて、充分に思いを達することは難しかった。


★道はミズーリナ湖の手前で右折、クリスタッロの東端を北上、51号線に入りランドロ湖をかすめて更に北上する。
ッビアーコで右折、49号線をドラウ川に沿って走る、走り始めてほぼ1時間、エルバッハを越えてオーストリア領東チ
ロルに入った。
此処からは100号線でドイツ語だけの世界である。

カペラド・アルピニ礼拝所 オーロンツオ小屋
古戦場の山々 アントルノ湖作業中

★国境を越えてから1時間弱で東チロルの中心都市リエンツに着く、此処はなんとアルビンさんの故郷だそうで、時間
があれば我等を案内したい風情だった。
リエンツはドラウ川とイーゼル川の合流点にありリエンツアードロミテの山行
基地である。

リエンツ郊外

◆ウィーン少年合唱団のこと

★リエンツ近郊で一つ触れておきたい話しがある。
それはウイーン少年合唱団のことで、リエンツからイーゼル川に沿
ってキッツビューエル方面に向かい、マトライを左折してヴィルゲン渓谷を突き当たるとヒンタービュッフェルがある。

処は国境の山ドライヘレンシュピッツエ3499mの麓で、右奥にはグロッサーヴェネディガー3674mもあるという懐深い
山奥なのだが、此処にはウイーン少年合唱団の定年少年達が経営するホテルがあり、中々予約が難しいほど繁盛し
ているらしい。


★ウイーン少年合唱団の起こりは、昔から教会の聖歌隊では女声を禁じていた為、マキシミリアン大帝が7〜15歳の
少年を集めて女声パートを歌わせたのが始まりで、ハイドンもシューベルトも隊員だったし、モーツアルトは主席作曲
者だった。


★第一次世界大戦でオーストリアが破れ、合唱団は420年の歴史を閉じて解散したが、ウイーン市民の熱望によって
1924年解散時の宮廷合唱指揮者シュニット師がバラバラになっていた隊員をやっと集めて訓練したものの、食糧難
による栄養失調や肺疾患の続出に悩まされることになった。
そこでシュニット師は私財を投じてヒンタービュッフェルの
一軒家を購入し、此処を団員の休養の場所とした。


★爾来、この休養所は当初の目的どおり使われてきたが、やがて合唱団卒業生が運営を手伝う様になり、ホテルとし
ても経営するようになって現在に到っている。
現在のウイーン少年合唱団は3隊編成で、2隊は演奏旅行で世界各地を
回り、残る1隊はウイーン宮廷教会堂聖歌隊として勤務しているそうである。


◆チロルの画家たち

★チロルの画家にはガルダ湖の北アルコで生まれ、アルプスの山の風景を書き続けた、私の好きなジオヴァンニ・セ
ガンティイニ(1858〜11899)が居るが、このリエンツの東6kmドルザッハにもチロルの愛国画家デフレッガーがいる。

彼は1835年生まれ、アンドレアス・ホーファーの独立戦争を描いたことで有名である。

セガンティーニ「アルプスの真昼」 デフレッガー「最後の予備軍」

★我等はそのドルザッハからイーゼルスバーグでケルンテン州に入るが、この先には広大なホーエタウエルン国立公
園(東チロル、ケルンテン州、ザルツブルグ州に跨る1787平方キロ)が広がっている。
モール川を遡上し、リエンツを
出てから約1時間で傾斜地にひしめいて立つハイリゲンブルート1288mに到着する。


◆ハイリゲンブルート「聖なる血液」の伝説

★教会脇の小振りな広場には水晶の泉があって、現地産出の水晶原石が飾られていた。ハイリゲンブルート、その名
は「聖なる血液」そのものである。
10世紀頃、ビサンチン帝国(デンマーク)の騎士ブリキュウスがコンスタンチノープル
からフラスコに入れた聖血を持って旅していたが、此処で吹雪にあって凍死、その後15世紀に村人がこれを聖宝として
教会(聖ヴィンツエンツ教会)を建設した。 
聖血は教会祭壇(1520年ミヒャエルパッハー作)左にある13mの白い聖櫃
に今も存在すると信じられている。

聖ヴィンチエンツ教会とグロスグルックナー ハイリゲンブルート水晶の原石

★この先は1930年〜1935年、難工事を克服しオーストリアの威信をかけて完成した山岳道路の粋、グロスグロックナ
ーホッホアルペンシュトラーセである。
総延長はハイリゲンブルートからツエルアムゼーの南ブルックに到る約58km
で、通行可能期間は5月初〜11月初と一応なってはいるがそれは天候次第、特に雪次第である。

グロスグロックナーホッホアルペンシュトラーセ

◆展望台(2370m)へ124段の階段上り

★ハイリゲンブルート側からはロスバッハの料金所を過ぎ、グッタール1950mの分岐を左に取るとフランツヨーゼフヘ
ーエに到る8.7kmのグレッチャーシュトラーセが繋がっている。
ハイリゲンブルートを出て約30分、フランツヨーゼフヘ
ーエ駐車場に到着、展望台(2370m)へは124段の階段、これが結構きつい。


★然し展望台からの眺めは素晴らしい、オーストリアの最高峰グロスグロックナー3798m(富士山より10m高いところ
が憎い)の頭頂部は僅かに雲に隠れていたが、これに連なる3000m級のホーエタウエルン山群の山々、右手のヨハニ
スベルク3460mから流れ出す東部アルプス最大のパステルツエ氷河(全長約10km)の壮大な眺めに圧倒される。


★フランツヨーゼフヘーエの名前は、実質的にオーストリア最後の皇帝となったフランツヨーゼフが1856年皇后エリザ
ベートを伴って4時間かけて最も眺望の効く鞍部まで登り(標高差1000m以上ある)、此処に2時間留まって眺めを楽し
んだことによる。
パノラマヴェーク・カイザーシュタインのトレッキングコースには、皇帝フランツヨーゼフが訪れたその
記念像が立っている。


◆ガムスグルーベンヴェークのお化け屋敷風トンネル

★昼食を済ませて余り時間はなかったが、グロスグルックナー登山路の一つで2.5km先のホフマンズヒュッテに繋が
るガムスグルーベンヴェーク(ガムスはカモシカの意)を少し歩いてみた。取っ掛かりに46mと256mのトンネルがあっ
て、トンネルの中にはまるでお化け屋敷のようなおどろおどろしい飾り付けがしてある。


★グロスグルックナーへはホフマンズヒュッテの前からパステルツエ氷河を横断して登ると聞いたが、展望台付近とは
違ってヒュッテから帰ってくる人達はさすがに山姿が多く見受けられた。展望台の下を見下ろせば青灰色の氷河湖ザ
ンドゼー、近くにはムルメルティーレ(マーモット)が遊ぶ姿も見かける。

ガムスグルーベンヴェーク 第2トンネル内の飾り
グロスグルックナー ザンドゼー
パステルツエ氷河 マーモット

◆幹線道路最高地点のトンネルを抜けるとザルツブルグ州だった

★氷河へ下りるグレッチャーバーンにも気を引かれたし、時間は幾らあっても足りず、お名残惜しかったが14時20分
出発、こんどはグッタールを左折して九十九折に高度を上げ、
25分で幹線道路最高地点ホッホトール2503m、トンネ
ルを抜けるとケルンテン州からザルツブルグ州に入る。


★このトンネルの上の峠は中世から17世紀にかけて北方のドイツと南方のベネチアを結ぶ重要な商業ルートで、1933
年のトンネル工事の際には中世のヘラクレス像や古代ローマ道の遺構が発見されている。
トンネルを抜け池のそばに
立つフッシャーラッケのこじんまりした山岳博物館に寄る。
苦難の工事を物語る展示の他、ローマ道の遺構は池の対
岸でも発見されたらしい。

ホッホトール 山岳博物館

★右手の小高いエーデルワイズシュピッツエ2571mは絶好の見晴台だが、バス等の乗り入れは禁じられている。フッ
シャーテール2428mは幹線道路上のベストビューポイントで説明板や休憩所も揃っている。フランツヨーゼフヘーエの
裏側にあたり天気が良ければグロスグルックナーの頂上部が見えることになっているが、今日はチョッと無理だった。


★更にアルビンさんお勧めのポイントがあるというので車を止めてみたが、雲量が増えてきて全体を見渡すことは出来
ない。それでも雲の合間に3000m級の山が浮かんで見えるのは中々趣きがあった。フッシャー谷を北へ下り、15時53
分山岳道路の終点ブルック755mから311号線に入り、ザルツアッハ川に沿って東進する。

フッシャーテール FT休憩所
案内板 お勧めポイント

◆順法ドライバーのアルビンさんの休憩

★16時30分、シュヴァルツアッハのガソリンスタンドで給油した後、アルビンさんは暫く休むと言う。疲れたからではなく
て法の定めらしい。今日は最長のロングドライブだからさもありなんと思う。
アルビンさんは細かなことは気にしないお
おらかなタイプに見受けられるが、順法に関しては実にキチンとしていて、シートベルトの着用などもしっかり確認して
いた。


★今回の旅で周回した独、墺、伊、3国の交通規制は殆んど共通しているが、対応についてはそれぞれ違いがあると
いう話はなんとなく解る気がした。
我等はこの間を利用して少し歩いてスーパーマーケットへ行き、飲み物、果物、ス
ナック類などの買い物をする。


★17時15分発、ビショフショーフェンを右折して99号線、ヒュッタウから56号線、ランマータールで166号線、ザンクト・
マーティン、アンナベルク、アブテナウを経て18時15分、今日の宿泊地ゴーザウのホテル・ラントハウスコラーに到着。
結構ややこしい経路だった。


◆「城のホテルにして領主の館」ホテル・コラー

★このホテル・コラーは1850年狩猟小屋としてスタート、ザルツカンマーグート(ハプスブルグ家が塩の御料地として手
厚く保護した)の一角に2万平方メートルの敷地を擁し、本館は正に城館のごとき風格を持った建屋である。 玄関の
柱にはシュロスホテル&ヘーレンホイザー(城のホテルにして領主の館)の掲額があり、コラーファミリーが管理して
いる。 


★近くの温泉地バートイシュルに別荘を持つ狩猟好きの皇帝フランツヨーゼフもしばしばこの館を訪れたという。本館
の中には皇妃エリザベートの愛称「シシ」と名付けた部屋もある。
私も今度の旅でミュンヘンのゴルデナーアドラーと共
にこのホテルに泊まるのを楽しみにしていたが期待にたがわぬ素晴らしさだった。
玄関や食堂など共用の場所には鹿
やアイベックス、シャモア等の剥製が多く飾られていて狩猟の館を思わせる、給仕をしてくれる女性達の民族衣装もこ
のホテルにはぴったりだった。

ゴーザウ ホテルコラー 狩猟の館 民族衣装で

◆ブラームスやヨハン・シュトラウスも愛した[子宝の湯」

★7月12日、今日の行程のメインはシャーフベルク、8時に出発。ハルシュタット湖、バートイシュルを経てヴォルフガン
グ湖へ向かう。ハルシュタットは明日の行程なので後述するがバートイシュルには前述のとおりフランツヨーゼフとエリ
ザベートの結婚を祝って建てられた別荘カイザーヴィラがある。
ブラームスやヨハン・シュトラウス等音楽家や王侯貴族
に愛された避暑地で、塩分の多い温泉は子宝の湯として知られ、フランツヨーゼフもこの効能で生まれたと伝えられ
「塩の王子(ザルツプリンツ)」と呼ばれたらしい。


★ヴォルフガング湖の畔から出発するシャーフベルクバーンはサウンドオブミュージック(ドレミの歌の場面)にも顔を
出したことで人気のアプト式(すべり防止の為軌道間に歯を刻んだレールを持つ)登山列車(SL)である。
さすが人気
列車だけあって乗客も多く多国籍、勿論日本人もいる。
列車はザルツカンマーグートの景勝を展開しながら高度を上
げていく、30分で中間駅シャーフベルクアルムに一旦停車、更に10分でシャーフベルクシュピッツエ1783m頂上直下
の終着駅に到着する。

シャーフベルクバーン

◆眺望を満喫後、アルペ小屋で飲んだビール「ヴァイツエン」の美味かったこと

★ベルクホテルシャーフベルグシュピッツエの建つ頂上まで登り、見回す360度の眺めは素晴らしい、条件が良けれ
ば湖水地方ザルツカンマーグート13の湖が見えるというが、少なくとも3つの湖が手じかに見て取れる。南からヴォル
フガングゼー、モントゼー、アッタゼー、そして南の奥にはマルモラーダのように氷河を抱いたダッハシュタイン2995m
が控えている。


★暫く頂上に留まった後、素晴らしい風光を楽しみ、時に足下の花々を愛でながら中間駅シャーフベルクアルムまで
約1時間のトレッキング。
太陽がギラギラだったからか到着後アルペ小屋で飲んだビール、「ヴァイツエン」は特に美味
く感じた。 
ヴァイツエンは何処でも必ず中太り下細りのジョッキで出されるが、これで差別化をしているのかも知れな
い。

ザルツカンマーグート 緑滴るアルム
ウオルフガングゼー ウオルフガングゼー俯瞰
シャーフベルク山頂駅 シャーフベルクの売店
モントゼー シャーフベルクバーン
中間駅シャーフベルクアルペ アプト式レール
ウオルフガングゼー ウオルフガングゼー桟橋

◆湖面に映るダッハシュタインの倒影が素晴らしい

★中間駅から再びベルクバーンで下山してゴーザウ湖に向かう。湖の北端にあるガストホーフゴーザウゼーで昼食を
取り、ロープウェイゴーザウカムバーンでツヴィーゼルアルムへ上って散策、眼と鼻の先に大きな牛が悠然としていた
が鼻の周り一杯の蝿が気になる。ゴーザウ湖は一周5km程の小さな湖だが、右手にゴーザウカム(カムは櫛の歯の
意)の峻峰が連なり、正面にはヒンターゴーザウゼー(奥ゴーザウ湖)を隔ててダッハシュタインが聳えている幽玄な
湖で、静かな湖面に映るダッハシュタインの倒影が素晴らしい。


★皆と別れて早めに下へ降り湖の東岸を歩いてみた。ダッハシュタインの美しい倒影を求めてのことだったが、中々
思うようにはいかず途中で引き返す、右側の崖面の照り返しが強くやけに暑い。
ガストホーフの手前まで戻ってみた
ら、木柱から水が流れ出ていて「Trink Wasser」(飲み水)の表示、山から引いたこの美味い水をたらふく飲んで、更
にペットボトルに詰め込んだ。

ガストホーフゴザウゼー ゴーザウゼー
ダッハシュタインの氷河 巨大な牛
ツヴィーゼルアルム ゴーザウカム
ゴーザウゼー西岸 水を飲め!
ダッハシュタイン倒影

★此処からホテルコラーは近い、帰ってプールサイドの東屋でビールを飲みながら暫し歓談、夕暮れ時のしっとりした
感じが実に心地良い。
お勧めの赤ワインでほろ酔いになったディナーも終わって、ザルツカンマーグートの夜が更け、
教会の鐘の音を聞いて眠りに就いた。


★明けて7月13日、朝食前に林の道を通って教会まで散歩した。小川の向こうに木柵がありポニーが3〜4頭飼われ
ていた。伸びやかに広がるアルムの中に教会の尖塔が立ち、背景にはゴーザウカムの山々が連なっている。
教会の
横の墓地はよく手入れされていて、それぞれの墓石の前には花が手向けられていた、帰る途中又ちょっととポニーのお
相手をしてからホテルに入る。


◆世界最古の岩塩坑が稼働中の「塩の街」ハルシュタット

★8時35分、コラー夫人の見送りを受けて出発。166号線がハルシュタット湖に突き当たった処で右折、長いトンネルを
抜けるといきなり船着場に飛び出した。
ハルはドイツ語のザルツと同じくケルト語の「塩」であり、ハルシュタットは塩の
町ということになる。


★1846年に紀元前800〜400年頃とされる古代ケルト人の墓地が発掘されたことにより、塩の取引による豊かな財力
が東ヨーロッパ初の鉄器文明を齎していたことが証明されている。
これはハルシュタット文明といわれ、地中海文明に
匹敵するものとされている。
此処では世界最古の岩塩坑がいまだに稼動中で坑内の見学をすることもできる。

★ガラスのように透明な湖面に浮かぶ小さな町並みの美しさは格別で、この歴史的価値と自然環境の保護から1997
年世界遺産に登録されている。
湖岸通りを歩くと美しく花で飾られた家々に混じって塩坑の職人の家らしきものがあり、
使っていた道具類が壁に貼り付けてあるのが如何にもこの街らしかった。

ゴーザウの夜 ゴーザウ
ゴーザウの教会墓地 コラー遠景
ポニー ハルシュタットへのトンネル
ハルシュタット 塩坑人夫石像、

◆ハルシュタット文化遺産博物館の11段の階段

★歩き始めて10分位の所にハルシュタット文化遺産博物館がある。残念ながら休館中で中へは入れなかったが、面白
かったのは入り口の階段で、11段ある。各段の前面に各国語でそれぞれ「過去未来への往来」を意味する言葉が書か
れている。
勿論日本語もあり、中国語の次の2段目に「タイムトラベル」と片仮名で書いてあった。

★この少し奥に行くと湖岸側に新教、山側にカトリックの教会がある、国民の8割がカトリック信者のオーストリアにあっ
ては、こんなに接近して両教会があるのは珍しいが、カトリック教会の裏手にはバインハウスがある。
これはハイリゲ
ンブルートにもあったが、土地が狭く充分に墓地を確保できない所では埋葬してから10〜20年で再び遺体を掘り出し
、改めて遺骨を納骨堂に安置した。これがバインハウスである。その際頭蓋骨には姓名、生没年、花などの飾り模様
が描かれ、棚に並べられた。


★塩坑の見学は大いに興味があったが、ロープウェイで山に上り、坑口まで歩いて坑内服を着け、案内人と共に回る
見学はたっぷり2時間以上かかるというので諦めた。

坑内職人の家 文化遺産博物館階段

◆合唱家族トラップ一家とストラッサー一家

★次はザンクトギルゲンを通ってサウンドオブミュージックでトラップ大佐とマリアが結婚式を挙げる場面で使われたモ
ントゼーのプファールキルヒエ教区教会バシリカ・ザンクトミヒャエルへ行く。
ヴォルフガングゼー北端の町ザンクトギル
ゲンに立ち寄る時間はなかったが、港の近くにモーツアルトの母アンナが1720年に生まれ、姉のナンネルが17年間暮
らした家がある。


★サウンドオブミュージックのトラップ一家は合唱一家として1936年のザルツブルグ音楽祭のコーラス部門で優勝し、
ナチスの召集を無視して国外逃亡、アメリカに渡ったが戦後映画化されて一躍有名になった。


★処でオーストリアには是非覚えておきたいもう一組の合唱一家がある。それはチロルで最も大きな谷チラタールの
ストラッサー一家である。
チラタールは「第三の男」で有名になった民族楽器チターの発祥地であるが、ストラッサー一
家は村の合唱隊が聖誕祭に歌っていた歌を1831年ライプチッヒの国際見本市で歌った。
それが「聖よしこの夜」が世
界中に広まるきっかけであった。
モントゼー(月の湖)はその名の通り三日月の形をしている。

★教区教会は748年バイエルン大公が創建の修道院以来というから相当の古さだが、現在は白亜の堂々たる僧院で
ある。教会内部の1626年ハンス・ヴァルトブルガー作主祭壇を初めとする数々の祭壇、ステンドグラスなど眼を見張
るものが多い。

モントゼー教区教会 主祭壇 ステンドグラス

◆ザルツブルグこと[塩の城」サルツブルグへ

★11時40分発、高速に乗ってザルツブルグへ向かう。この辺りは州境が錯綜していてゴーザウでオーバーエーステラ
イヒ州に入ってからシャーフベルクではザルツブルグ州、ハルシュタット、モントゼーは又オーバーエーステライヒ州と
来たが、再び直ぐにザルツブルグ州に入る。


★我等日本人はSalzをザルツと言いSt.をザンクトと発音しているが、オーストリア人は濁らずサルツ、サンクトと発音
する。これは日本人が明治か大正以来、そう言い続けるからしょうがないことになってしまったと聞いたことがある。

かにドライバーのアルビンさんも濁らずサルツブルグと発音していたが、私は日本人の倣いに従うことにした。
モントゼ
ーからザルツブルグは近い。僅か20分でザルツブルグ北IC、更に15分でザルツアッハ川を挟んで正面にホーエンザル
ツブルグ城を見上げる今日の宿、ホテルシュタインに着いた。


◆音楽の街ザルツブルグを[塩の川」ザルツアッハは流る

★ザルツブルグは音楽の街であると同時に歴史の街でもあり、歴史地区の市街は1996年、オーストリアとしては初め
て世界遺産に登録されている。
「塩の城」ザルツブルグは街の中心を「塩の川」ザルツアッハ川が流れ、東に風光明媚
な湖水地方「塩の御料地」ザルツカンマーグートと正に塩一色の地域である。


★近郊で金銀に匹敵する貴重品、塩が発掘され始めたのは紀元前2500年、先住民族によったが、紀元前600年には
ケルト人の採掘が始まりローマを含むヨーロッパ一円に出荷された。
ローマ時代には5世紀にわたってローマ人が占
拠し続けたがローマ帝国の崩壊により廃墟と化していた。


★この街を蘇らせたのは696年バイエルン大公テオド2世からこの土地を譲り受けたヴォルムス出身の司教ルーペル
トで、その時初めて建てた修道院がザンクト・ペーター(ハイドン兄弟やモーツアルトの姉ナンネルの墓もある)。これを
取り巻く街をザルツアッハブルグと名付けたのがザルツブルグの礎となった。

ルーペルト司教 モーツアルト像
馬の噴水 路上噴水
街角のカフェ クロアチアの売り子さんと山本夫人
ザルツアッハ川 大聖堂前での演奏

◆継続建設700年の巨城ホーエンザルツブルグ城

★798年大司教座が置かれたことによりザルツブルグは強大な権力を持つ国家の様相を呈し、街のシンボルでメンヒ
スベルクの丘に立つホーエンザルツブルグ城も1077年から700年に渡って継続建設され中世の城としては中央ヨーロ
ッパ最大のものとなった。


★音楽ではモーツアルトが生まれ育ち、カラヤンが生まれ、近くはサウンドオブミュージックの舞台となった等話題に事
欠かないが、やはり「ザルツブルグ音楽祭」ザルツブルガーフェストシュピーレだろう。
ザルツブルグは大司教時代か
ら音楽や演劇が盛んだったが、1876年にバイロイトでワグナーのバイロイト音楽祭が始まったのに刺激を受けて1877
年から第一次世界大戦まで7回音楽祭が開かれた。


★大戦による中断後1920年8月22日改めて開催されたのが第1回ザルツブルグ音楽祭である。初回は大聖堂前広場
でホーフマンシュタールの演劇「イエーダーマン」が上演されたが、その後毎年音楽祭の幕開けには必ずイエーダーマ
ンが上演される慣わしとなっている。


★サウンドオブミュージックではマリアがいたノンベルク尼僧院、裏山のウンタースベルク1853m、ミラベル庭園、トラッ
プ大佐邸とされたレオポルツクローン城(実際の邸宅は郊外のアイゲンにある)ヘルブルン宮殿など映画のシーンを飾
る様々の場所に満ちている。


★我々はホテルシュタインで一休みした後シュターツ橋を渡って旧市街へ入り、ホーエンザルツブルグ城への城塞小路
フェストウングガッセの途中にあるレストラン、シュティーグル・ケラーで昼食を採った。
街を見下ろす高みにあり、緑の
木陰に並ぶテーブルでの食事はなかなか心地よかった。

ホーエンザルツブルグ城 レストラン・シュティーゲルケラー
城から旧市街 夜のホーエンザルツブルグ城

◆商売の中身が分かるゲトライデガッセの鉄細工看板

★この後、レジデンツ広場やモーツアルト広場を散策、然し今日は暑い。32度というから堪らず陰のある小路へ入った
らゲトライデガッセだった。
この通りの商店の軒先に掲げられている鉄細工の看板を見ながら歩くのは楽しい。ライオン
や鷲など家紋のようなものもあれば、具体的に何の商売かを教えてくれるものもある。

下着屋 ケーブルカー乗り場

★その内、家内が帽子のマークを見付けてくれて、これはと思い中に入ってみた。実は旅行の前から気に入ったチロリアンハットが見つかれば買って帰りたいと気をつけていたのだが、その機会に恵まれず諦めかけていたところだった。帽子専門店コリンズは2階建てで各種の帽子を取り揃えている。勿論チロリアンハットも色々あって、色、形が気に入りサイズがぴったりのものを買うことにした。 

◆待望のチロリアンハットを買う

★チロリアンハットの必需品、飾り羽根も帽子にコーディネイトしたものを女主人が選んでくれた、そして刷毛でちりを
払いスチームで形を整えて、“ダンケシェーン”と渡してくれたのには大いに満足した。
今回、お土産を買う必要があれ
ば、ザルツブルグか最後はミュンヘン空港と決めていて、今まで全く何も買っていなかった。


★そろそろその気にならねばと街角の屋台に足を止めて物色、モーツアルト人形や麦藁細工、ホーエンザルツブルグ
城を描いた楽しい絵柄のクロス(中央に書かれた文章ガ「ザルツブルガーノッケル」というスイーツのレシピとは思わな
かった)などを数点買ったら、売り子の叔母さんはクロアチアの人で来年は日本に遊びに行くと言う。日本は貴女を歓
迎するだろうと言ったら、「私の手作り」というポプリのブーケをプレゼントしてくれた。

チロリアンハット ドロミテの木彫り ザルツブルグで買ったクロス

★買い物といえば今回はワインの飲み代を含めてクレディットカードを使うことが多かった。今までも海外では多額の
現金を持つよりはとカードを使用したが、今回は今までと違って殆んどの場合PINナンバーを求められた。
所謂暗証
番号である。番号登録をした記憶はあるものの、日本でも使うチャンスはないのでおぼろげな記憶を頼りにいい加減
にボタンを押したら、たちまち“ロングナンバー”といって訂正させられた。
カード社会も変わりつつあるようだ。

◆さすがは音楽の都のレストラン、「ト音記号」のデザートが登場

★今夜はオーストリア最後の夜であり、ホーエンザルツブルグ城内でのディナー&コンサートが待っている。
山男山女
の旅の最後を飾るイヴェントとしては、やけに文化的になったものと些か面映い。
城塞小路のケーブルカー乗り場から
標高差120m、約1分で山上駅に着いたら突然の夕立。食事の場、パノラマレストランは幸い駅に隣接していたので傘
の心配はしないで済んだ。
赤ワインでディナーをゆっくり楽しんだが、皿に粉砂糖でト音記号を描いたデザートはさす
がに音楽処と感心した。

ザルツブルグ夕景 パノラマレストランのデザート

◆黄金の広間「領主の間」へ上がる

★食事の後、城の中へ入り大きな菩提樹が2本茂る中庭を通って大司教が宗教的な祝祭や宴を催す際に使った黄金
の広間「領主の間」へ上がる。
この部屋の天井は17mの一本の樫の木で支えられ、装飾的なねじり模様でザルツブル
グ産の太く赤い大理石の柱4本がこれを受けている。
そして天井は星空を表し、一面に約300個の金メッキを施した鋲
が煌いている。


★特にドレスコードというようなものはなく、どんな服装でも入れるが、我等も持てる中では選んで(といっても大したこ
とにはならないが)それなりの格好で入場した心算だった。
然しさすがに地元の男性と思しき紳士はスーツにネクタイ、
ご夫人はドレス姿だった。
まあ前列にいたアメリカ人一家よりはましだったろう。

◆本場の演奏をたっぷり楽しんだ

★演奏は有名なザルツブルグモーツアルテウム音楽院の首席又は主力奏者(中には教授もいるとか)からなる「モー
ツアルトアンサンブルザルツブルグ」のメンバー、最初の曲はハイドンの弦楽四重奏曲「皇帝賛歌」だった。
旅は終盤、
我等の疲れも可なり溜まっており、演奏中に眠ってしまう恐れが大いにあったが、第2楽章の「神よ皇帝フランツを護り
給え」のメロディーはかって少年時代に愛唱した「世界に冠たるドイツ」ドイチユラントユーバーアーレスのメロディーで
あり一気に眼が覚めた。


★2曲目はモーツアルトのクラヴィーアクワルテット、ピアノ四重奏曲で休憩を挟んで最後の曲もモーツアルトのアイネ
クライネナハトムジーク小夜曲だった。
それぞれが耳に馴染みのある曲ばかりの上に、このホールは小編成の弦楽四
重奏などには丁度向いていて、休憩中に窓から眺めたザルツブルグの幻想的な夜景と共に印象深い一時を過ごすこ
とが出来た。


★帰りのケーブルカーに乗っていたら、先程の楽団員が乗り込んできたので“ゼアーグート”と褒めてあげて記念写真
を撮らせてもらった。
帰る途中、夜も深けたのに大聖堂の前で20人ばかりの若者達がモダンダンスミュージックをやっ
ていた、そういえば昼間もこのあたりで5〜6人が演奏をしていたからやはりザルツブルグは一日中音楽の街なんだと
思った。
ホテルシュタインに帰ってスーツケースの荷造りをしていたら又雨、明日の天気が気にかかる。

モーツアルトアンサンブルザルツブルグ演奏

◆史跡と文化的伝統を守り続けるザルツブルグ

★7月14日、今日はパリ祭だがヨーロッパを離れる日だ。
今は雨は上がっているが厚い雲が垂れ込め何時降り出し
てもおかしくない。
朝食はホーエンザルツブルグ城が正面に見える7階の展望食堂でとる。

★食事をしながら、ザルツブルグという所は直ぐ近くにハプスブルグ帝国の首都ウイーンがあり、ヴィッテルスバッハ
家のバイエルンがあって度々干渉を受け、宗教的にはローマ教王と神聖ローマ皇帝の狭間に立たされ、ナポレオン
戦争の後オーストリア・ハンガリー帝国に組み込まれるといった難しい歴史を辿ってきたにも拘らず、今日これだけの
史跡と文化的伝統を守り続けている。この歴史と音楽が凝縮されたザルツブルグを本当に見たければ1泊程度のこと
では話にならないと悟った。  

ホテルシュタイン7F食堂 ホーエンザルツブルグ城をバックに筆者

◆ミュンヘン空港へ車でひた走る

★8時45分に出発したが、あっという間にドイツに入る、何しろザルツブルグ市内を貫流するザルザッハ川が少し北で
は国境線になっているのだから近い訳だ。
車は右手にキーム湖を見ながらアルペン街道を走り、イン河を渡ってロー
ゼンハイムでインスブルックへの道を分け、ミュンヘンへ向けてひた走る。又雨が激しく降ってきた。今迄旅行中殆ん
ど雨に遭わずに本当に良かったと思う。


★この辺りのアウトバーンの制限速度は130km/hだから雨の中を突っ走ると迫力がある。1時間20分ほど走ってホ
ルツキルヒエン・ノルトのSAでトイレ休憩、トイレ使用料70セントは高い(他での有料トイレは50セントだった)と思った
ら50セントの買い物券を配っていたらしい。貰い損ねて失敗、大の方を使って水を流したら、便座がグルグルッと回っ
た。次の人への配慮だろうがこんなのは初めてだった。


◆アウフヴィーダーゼーン!

★11時15分ミュンヘン空港着、ザルツブルグから2時間半、雨は何とか上がっていた。8日以来1週間運転を続けてく
れたドライバーのアルビンさんにお礼の言葉を述べ“アウフヴィーダーゼーン”で手を振ってお別れ。ガイドしてくれた
志波邦彦さんも9月中旬まで山岳ガイドを続けるのでスイスへ。メンバーでは桑原さんがロンドンのお孫さんを尋ねる
ので、残る12名で成田へ帰ることになった。

ホルツキルヒエン・ノルトSA  ドライバーのアルビンさん 

★16時にテイクオフしてからドバイ着は23時35分(時差2時間)。やはり成田便への待ち時間は3時間あったが、今度
はキャビアに見向きもせずオトナシクしていたのはいうまでもない。


★3時35分、テイクオフの前に空を見たら今夜は満月でドバイの空に白く輝いていた。エミレーツ航空の食事飲み物は
まずまずだったが、ドバイ〜成田(関空)路線では何時でもカップラーメンを注文することが出来る。麺好きの私は行き
帰りともこれを注文した。
このカップラーメンは全く具が入っていない麺とスープだけの代物だが、中々味が宜しい。
何処で作っているのかと思って見たら、なんとこれがドバイ製、カップラーメンは日本の専売ではなくなっていた。


★7月15日の18時過ぎ、成田空港着、11日間のチロル・ドロミテ旅行は無事に終わった。恐らくこれから色々の機会に
今回の旅を想い出すことだろう。

◆「何ともいえず、暖かに包んでくれる居心地の良さ」に尽きる旅だった

★この旅全体を通して感じ続けてきたものは何だったのだろうと思う時、7年前のチロルでも感じ、今回の旅へいざなっ
てくれたもの・・・・緑滴るアルム、宝石箱をひっくり返したようなお花畑、チロル・ドロミテ・アルプスの山々、湖水地方の
みずうみ、歴史と伝統、音楽、それに私達に接してくれた人々の優しい微笑み、これ等を全てひっくるめた「なんともい
えず、暖かに包んでくれる居心地の良さ」がそれだろうと思った。


★この「ゲミュートリッヒカイト」は何時までも私の心に響き続けて呉れることだろう。楽しかったこの旅に感謝の想いを
込めて。(2011.9.17.記)   

♪BGM:Mendelssohn[春の歌]arranged by Reinmusik♪
表紙へ いなほ随想
目 次