ニモクざる蕎麦研究会
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 山本 浩(29政経)

私にとっての長野と蕎麦

飯縄山(飯綱山)

会社の「山の家」作りで選んだ飯縄山(飯綱山)山麓

★昔、会社勤めをしていた頃、社員の福利施設として「山の家」を作ったことがある。場所の選定から設計、建設、と完成まで3年位かかったが、出来上がりは上々で社員の評判も中々良かった。

★先ず場所選びでは余り東京の近くでは気分転換にならないので、長野、草津、上田、菅平あたりの土地を物色し、結局長野善光寺から戸隠を通って野尻湖に通ずるバードラインに近い飯綱山(1971m)山麓の牧場跡地に決めて建設に取り掛かった。

★いきおい私の長野出張は頻繁になったが、このバードラインには戸隠中社の宿坊が営む「極意」や更に先には古民家作りの「大久保の茶屋」など蕎麦の名店が多くあって蕎麦好きの私を楽しませてくれた。大久保の茶屋は味の良さのみならず、ざるに漫然と盛ってあるのではなく、一口食べる分づつ分けて盛揃えてある心遣い()が嬉しかったし、極意は半生そばを送ってもらえるので、年越しそば用に何回か注文したことがある。

戸隠神社中社 宿坊経営の「極意」 華の膳
古民家の大久保の茶屋 ざる蕎麦(戸隠そばのボッチ盛り)
(上段の写真は戸隠神社HP・花壇の写真は大久保の茶屋HPから転借)

あの信州十割蕎麦の店は、いま?

★然し、最も強く私の印象に残っているのは長野駅から長野電鉄の方に5分ばかり歩いたところにあった小さなそば屋で、信州十割蕎麦を食べるべく東京に帰る前には毎回のように立ち寄った。にも拘らず、この店の名前を思い出せず調べてみてもそれらしい店がない、40年近くも前のことなのでもう潰れてしまったのかもしれない。

★この店の入り口の引き戸にはお客に対する断り状が張り付けてある。

 曰く、騒がしい人、待てない人、酔っ払い、煙草を吸う人、いずれもお断りである。
 確かに蕎麦の釜入れから上げて締めるまでは客の注文があってから掛かるらしく、かなりの時間待たされる。

★何回か通って店の若い女性に生そばを売ってもらえないか聞いてみたら十割蕎麦はボロボロになるので全くダメ、ただし二八なら私の言うことを守って貰えるなら売ってあげますと言う。多分年のころは十七八の若い女性が自分の父親かそれ以上の親父に向かってハッキリものを言うあたりは真に長野県人らしい。

「ゆがくと煮るの違いが判りますか?」と若い女店員に聞かれ

★先ず貴方は「ゆがくと煮るの違いが判りますか?」教えを乞うと「ゆがくは湯の中でそばが舞っている状態で、そばが鍋の底に着いてしまったらそれは煮るになります。多めの熱湯で1分~1分半ゆがいて冷水で締めてください。」「そばは箱の中に入れておきますから、水平に保って東京の家まで箱を傾けないように、帰ったら今晩中に食べてください。」

★私は女性の言い付けを守る約束をしてそばを持ち帰ったが、家でゆがいたそばにはさほど旨味は感じられなかったのは何故だろうか。

★私が親しくしている友人に長野県人は何人かいて、共通しているのは理屈っぽさだろう。学生時代に演説の訓練をしたければ長野へ行ってヤジリ倒されずに演説出来たら一人前と聞いたことがある。長野が教育県で筋を通すことを尊ぶ県民性ゆえであろうが、私は長野県人の理屈っぽさを思うとき何時もこのそば屋の女性が目に浮かぶ。(2013.5.5.記)

[戸隠そばのボッチ盛り]
*戸隠ざる蕎麦のボッチ盛り、円形のざる、薬味の辛味大根(写真:wikipediaより転借)  HP管理人


◆長野県人の県民性、仰る通り!飯縄山は高校時代に何十回も登った懐かしい山

★山本 浩 様 長野とそばに関する記事、大変興味深く拝読しました。

★長野県人の県民性については、本当に仰るとおりだと思います。長野県人会でも長野高校の同期会でも、なかなか難しい面があります。私などは関西生まれでもあり、全く気質が異なっていると自覚しています。

★飯縄山については、高校時代、毎年夏から秋にかけて、冬に備えた薪を飯縄山頂から学校に運ぶ行事があり、本当に苦しい思いをしましたが、何十回もの登山が今では懐かしい感じです。

★更に、戸隠では、同級生が中社の神主をしていて、近くで蕎麦屋をも経営していましたので、何回も行っておりました。ただ、蕎麦屋はその後経営を失敗しましたので、現在は存在しません。

★いずれにしても、山本さんのご執筆、大変懐かしい思いで一杯です。今後とも大いにご活躍されるとともに、「ざる蕎麦研究会」の一層の発展をお祈りいたします。(2013.5.6.滝沢公夫)



滝沢公夫(30法)
蕎麦の集いの楽しさ
~思い出す会津・桐屋権現亭の「権現そば」の味~

会津若松城(wikipediaより転借)

◆蕎麦の集いは世の中に多い

★うどんやラーメンの会は滅多にお目にかかりませんが、蕎麦に関する会は全国的にかなり見られます。それだけ蕎麦には、人を引き付ける魔力のようなものがあると思われます。県人会、同窓会、職場等でも多く見られるようです。

★先ごろ、山本浩さんの情熱と実行力により「ざる蕎麦研究会」が発足し、毎回多くの参加者を集めているのは、本当に素晴らしいことだと思います。店主の見繕った銘酒とつまみで、店独自の蕎麦が出てくるのを待つひとときの期待感はたまりません。お互いに何の利害関係もなく、楽しく話し合える大切な会だと思います。

◆「蕎麦道」をめざすならば

★本当の蕎麦の通になる積りであれば、次のことをマスターする必要があるでしょう。

1.  蕎麦粉の精製―通常は機械に頼りますが、石臼によるほうが温度の上昇がなく好ましい。ただ体力的にも時間的にも無理がある。

2.  水を加えて捏ねて伸ばすーかなりの体力が必要。

3.  裁つー定規のような板を移動させて、等分に切るのに熟練が必要。

4.  茹でるー湯に泳がせるようにする。時間等の管理に経験が必要。

5.  水洗いー蕎麦を引き締める。

6.  盛り付けるー食べやすいように、きれいに平らに盛る。

7.  そばつゆー「かえし」と「だし汁」。「かえし」は、醤油と味醂と砂糖を加えて煮て、数日寝かす。「だし汁」は鰹節や小魚を煮出して造る。この両方を混合させるが、割合が難しい。

上記のような作業を実施するのは、通常は無理であり、次のことを楽しめばよいでしょう。

1. 食べるー蕎麦は食べる音を出して良い唯一の食べ物であり、料理人に対しても、蕎麦湯を出すタイミングを知らせる意味で、音を出すことが大切でしょう。

2. 蕎麦湯を飲むー蕎麦料理の結びとして、大変大切なことです。

◆蕎麦の味を楽しむ

★出された蕎麦に、先ず香りや色を楽しみます。公正取引法により、蕎麦と称するには蕎麦粉の含有量は30%以上でなければならないと決められており、通常は50%程度が多いようです。

★色は、蕎麦粉に殻をどの程度入れるかどうかで決まってきますから、色だけでは味は判断できないでしょう。私が会津若松で愛好していた蕎麦に、「高遠そば」とともに桐屋の「権現そば」があります。これは100%蕎麦粉の真っ白い蕎麦で、ものすごく長時間捏ねているため「こし」が強く、店主も体力的に一日10食に限定していました。

あいづ桐屋店主 唐橋 宏さん 桐屋権現亭
会津頑固蕎麦 飯豊権現蕎麦 会津のかおり蕎麦
 石臼挽きでつなぎを一切入れないそば粉
 だけで打ったそば
 桐屋名物の一番粉の白い歯ごたえが売り 新品種「福島のかおり」の石臼挽き十割そば
(写真はいずれも桐屋のホームページから転借)
★とにかく、蕎麦を口に含んだ時の至福のひとときはたまりませんね。

◆多くの店を経験する

★蕎麦は、一人で楽しむのも良いでしょう。しかし、やはり利害関係の無い仲間とともに味わうのが最も楽しいと思います。山本さんの活動で新しい名店を知り、本当に幸せです。今後もできるだけ多くの店を経験したいものです。(2013.5.1.記)


滝沢公夫(30法)

蕎麦の思い出

◆そばの産地

★そばの原産地は、中央アジアのバイカル湖付近といわれています。国内の産地はいろいろありますが、どちらかといいますと土地の痩せたところに多いようですね。肥料など要らず、簡単に栽培できるからでしょう。国内では、長野・更科、福島・会津(山都・桧枝岐)、滋賀・伊吹山、岩手・南部、神奈川・小田原等が昔からあげられているようです。

ブータンの蕎麦畑 浅間山を望む長野の蕎麦畑

◆大学時代は「もり」「かけ」専門 

★私の長野高校時代は、食料難でそばの入手が困難で、蕎麦屋での会合の記憶はありませんが、後年の毎年の同期会では、市内または戸隠村(現在は長野市)の蕎麦屋に集まることが定例になっています。

★大学時代は、麺券時代もその後も、周辺の蕎麦屋で「もり」を食べることが日課になっていました。帰りには高田馬場付近の蕎麦屋で「かけ」を食べることも多かったです。ほかに旨いものが無かったこともあり、そばの旨さが忘れられません。


[かけそば]

◆会津で出合った「高遠そば

★就職後、会津に4年ばかり勤務した経験がありますが、会津若松市内のそば専門店では、名物「高遠そば」を食べることが多かったです。これは会津藩祖・保科正之が 徳川二代・秀忠の庶子で、信州・高遠藩から来たことから名づけられたものです。大根おろしで食べる素朴なもので、本当に旨かったです。会津の地酒と良くマッチしていました。また、尾瀬の入り口にある桧枝岐村のそばも忘れられません。

保科正之

[高遠そば各種]

◆そばの栄養価

★そばは栄養食であるといわれますが、実際、たんぱく質の含有が13パーセント程度、脂肪は2パーセント程度、含水炭素が70パーセント程度と、米やうどんよりも優れているようです。ビタミンB1やB2、リンの含有も多いようです。ルチンの含有もあって、高血圧の人にそばは大変有効であろうと思われます。

★私も血圧が高いですので、できるだけそばを食べるようにしています。ただ、名店というところを知りませんので、山本会長の肝いりで、各地の名店でそばを味わう機会を持てることを、大変楽しみにしています。


山本浩(29政経)

蕎麦の値段

★蕎麦にまつわる思い出の一つに昭和28年、中目黒の叩き大工の家の3畳間に下宿して早稲田に通っていたころ、大分県中津中学の後輩福井君が絵描きになりたいと転がり込んできたことから起こった“事件”がある。

★3畳間に無理やり同居だから裕福なわけはなく、カンバスを買う金がないので材木屋で切れ端の板を貰ってきて油絵を描く、冬の夜は締め切っているので油臭くて寝ていられない。夕食は下宿に賄ってもらっていたが、朝昼はほとんどコッペパン。そうはいってもたまには目先を変えたくなったらしく「山本、蕎麦屋で一番安いものはなんだ」というから「もりかけだ」と答えると、出かけて行った彼が暫くして怒って帰ってきた。

もりそば かけそば ざるそば

★どうしたと聞いたら、蕎麦屋でご注文はなんですかというから「もりかけ」だというと「もりですか、かけですか」いいや「もりかけ」だとやって笑われたという。大分県耶馬渓の奥、下郷村に育った福井は冷たい蕎麦がもり、暖かい汁蕎麦がかけとは知らなかったのだ。

★その彼も水墨画でかなり才能を発揮したものの本格的な画家にはなれず夭折してしまった。同じ中津中学の後輩で、彼の友人でもあった中山忠彦画伯が日展洋画部門の重鎮として健在であることとの対比が切ない。

★ところであの頃コッペパンは10円だったがもり、かけは幾らだったのだろうと蕎麦の値段を調べる気になった。昭和11年(1936)に全国で初めて駅構内のそば・うどん店がJR高崎駅で開店したころのうどん・そばのもり、かけの値段が8銭、太平洋戦争による食糧難で米食販売禁止となった昭和15年(1940)頃15銭、終戦後のインフレで昭和24年(1946)一挙に15円、麺類が外食券制になった昭和27年(1952)17円。この話の昭和28年は統制解除で自由販売となった年で20円だった。

★その後、逐年蕎麦屋にも格差が生じ価格もばらついているが、今の平均価格は550円程度と推定される。蕎麦の値段で直ぐ頭に浮かぶのは、柳派の落語家が得意とする古典落語の「時そば」だが、この話は1726年の笑話本「軽口初笑」の「他人は喰より」(そばきりの価格は6文)が元で、明治時代に3代目柳屋小さんが上方落語の演目「時うどん」を江戸噺として移植したものとされている。

風鈴そば屋台 江戸後期の風鈴蕎麦(深川江戸資料館)

★この話は深夜九つ(午前0時前後)小腹の空いた男が二八そば屋を呼び止めて、ちくわ入りかけそばを注文、麺、ちくわ、割りばしから看板まで褒めあげ、食べ終わって16文の料金を払う。

「おいおやじ、あいにくと細けえ銭っきゃ持ってねえんだ、落としちゃいけねえ、手えだしてくれ」とテンポよく「ひい、ふう、みい…やあ」で「今なんどきでい」「へい、ここのつでい」間髪を入れず「とう、十一、十二、…十六ご馳走様」で去っていく。

★つまり1文のごまかしだが、これを見ていた男が後日、同じように「やあ(八)」で「今なんどきでい」とやったら2時間早かったため「へい、よっつでい」勘定は五つからに戻って大損するというお話。釣り銭詐欺のことを「時そば詐欺」ということもあるそうだ。(2013.3.28.記)

♪BGM:Bach [Goldberg Variation12] by Kumamoto-Mari♪

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